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同時性と連続

 

 

For note, when evening shuts, a certain moment cuts The deed off, call the glory from the grey:A whisper from the west Shoots

- Add this to the rest, takes it and try its worth : here dies another day.
 
よく見てごらん、日も暮れなんとし、 ある一瞬がその日の仕事に仕切りをつけ、灰色の空から華やかな夕映えを取り上げる。西空から静かな声が聞こえてくる

-「この日を過ぎし日に加え、その値打ちをよく調べるのだ。また一日が去ってゆく」

 

ブラウニングの一節。この一節が好きで研究室の机の横に貼ってあるのだけれども、一年も終わりにさしかかりつつある今読み返すと、色々考えてしまう。

値打ちのある一日を過ごせるかどうかは自分次第。4月に先生から頂いた、「学問的直感の鋭さと学問的厳密さ・精緻さの共存」に向けてほんの少しは成長しただろうか。

とにかくは大学院で今年度最後の発表を終えてほっとした。昨夜からほとんど眠る時間が取れなかったので今日はここまで。明日も良い一日にしましょう。

 

 

何だか分からないものに賭けて。

 

昨夜の「第九」通しレッスンで燃え尽きた。

充実と共にある種の呆然。三楽章のとき、後ろで見学されていた方がぼろぼろ泣いていらっしゃったということを後から知る。

僕の演奏はバランスを欠いたところもやれなかったことも山のようにあって課題だらけだが、問答無用に涙を溢れさせてしまう「第九」という音楽は、

本当に凄い曲だと改めて思う。朝起きても第九の脈拍が収まらず、他の事を一切考えられないまま夕方。

振り終わってからずっと続いていた呆然とした余韻が収まり始めて、今になってなぜか涙腺が緩む。

門下の先輩の「子供の情景」のレッスン後の素敵な表情とともに、昨日は何か忘れ難い時間があの空間に訪れていたのは間違いない。

 

休学中にベートーヴェンの交響曲を一つずつ教わっていった。一番、二番、四番、五番「運命」、六番「田園」、七番、八番、三番「英雄」、そして九番。

第九だけは一楽章を振った時点で「君には早すぎる」と言われてそれ以降保留になっていて、これを最後まで師に見て頂ける日がやってくるのを

一つの目標に過ごしていた。もちろん今だって僕には早すぎる曲なのだけれど、師がお元気で居て下さる間に、第九を最後まで見て頂き、

そしてベートーヴェンの交響曲を拙いながらも全て振らせて頂けたことを幸せに思う。

 

 

二十六歳、学生。

今やらなければきっと一生後悔する。根拠も無いその直感を信じて過ごした数年間だった。

失ったものは多かった。とても自分勝手に生きて、両親には迷惑ばかりかけ、友人たちを、愛した人たちを随分と困らせた。

しかし同時に、一生を通じて自分の人生の中心にあるであろうものを僕は得た。それが形にも言葉にもならないものだとしても。

自分を取り巻く時間の流れに抵抗して、なんとか間に合った。休学中にやり残した夢が一つ叶った。

霜葉は二月の花より紅なり

 

京都に旅行に出かけた友人が紅葉の美しさについて触れた文章を読んで、「霜葉は二月の花より紅なり」(霜葉紅於二月花)という一節を思い出す。

この一節がある漢詩の最終行であることは知っていたのだけど、全体を知らなかったのでこの機会に覚えることにした。

晩唐の詩人、杜牧の「山行」という七言絶句だ。以下横書きで引用しておこう。

 

遠上寒山石径斜

白雲生処有人家

停車坐愛楓林晩

霜葉紅於二月花

 

やはり最終行の鮮やかさに惹き付けられる。

それはただ、扱われている内容が鮮やかなだけではない。

それまでの行で描いてきた目と心の動きから一気に重心が舞い上がるような鮮やかさだ。

秋と冬のあいだ。

 

久しぶりの更新になってしまいましたが、元気に過ごしています。

水曜日にレッスンで「第九」、木曜日にチェロオケでブラジル風バッハ、金曜日ふたたびレッスンで第九、

土曜日の朝から夕方までオーケストラ・アフェットゥオーソでシベリウス七番、大急ぎで移動してUUUオーケストラで「運命」とプロコフィエフのピアノ協奏曲三番を指揮する、

という激しい一週間を過ごしていました。

 

さすがに日曜日は疲れでぐったりしていたのだけれど、夜に伺った友人のフルーティストのデュオ・コンサートが素晴らしくて一気に回復!

「うまい」なんて言葉では到底表せない、技術を超えた何かが確実に宿っていて、心底感動してしまいました。(コンサートの感想は別途書きたいと思っています)

彼女とは年内にあと二回も本番で共演する機会があるのですが、あの素晴らしい音色で目一杯歌って頂けるような棒を振れるようになりたいと気合いが入りました。

 

というわけで物凄いやる気に満ちて月曜日スタート。年末本番のレスピーギの「第三組曲」とタルティーニのトランペット協奏曲の譜読みにかかります。

もともとコンチェルトを聞くのも演奏するのも大好きなのですが(コンチェルト、もっと振りたい!)トランペット協奏曲ははじめてなので、いっそう楽しみ。

大好きなレスピーギをまた今年も演奏できることも幸せです。

ランボーの「既に秋だ!」をつぶやくまでもなく、いつの間にか冬の気配が訪れてしまいましたが、焦ることなく、頂いた機会を一つずつ丁寧に積み重ねていきたいと思います。

 

渇いていなければならない

 

書かなければいけないものがあるときに限って、別のものが書けてしまったり、普段良く聞き取れない音が聞こえるようになるのはなぜだろう。

他のものを書きながら、聞きながら、書くべきものがふとした拍子に降りてくるのをひたすらに待つ。

珈琲を淹れて、夜中の町を闇雲に歩き、原稿用紙の升目を無視して意味のない言葉を書き連ね、懐かしい写真を見返す。

陽が登ったらおしまいだ。一端眠りにつくしかない。それを繰り返す。

 

身を切り刻むような時間。

欲しい言葉が振ってくるのは、いつもそのあとだ。それはただ美しい言葉ではなく、巧い文章でもない。

孤独の時間を経由しなければ書けない、何かしらの「強度」を持った言葉。

渇きから生まれる強さ。

 

 

 

 

 

夜明けの断章

 

夏の終わり、秋の始まり。

そういう時期の明け方に譜読みをしているのが好きだ。

真っ暗だった外は深い青へと変わり、青の様子が次第に薄く移ろってゆく。

一目見た限りでは音符の羅列でしかない「楽譜」が「音楽」に変わり、音符に込められた言葉の意味が次第に見えてくる。

それが正しいかどうかなんて僕には分からない。

けれども、何かが見えてくるまで、その瞬間の快楽が訪れるまで楽譜と向き合い続ける。

 

 

ドイツに留学している友人が更新したばかりのブログを読んでしばらく休憩。

彼女の文章を読むと、僕はこの国にいつまでいるのだろうと考えずにはいられない。

今から七年先、2020年の東京オリンピックのとき、僕はどこで、誰と何をしているのだろう。

七年前の僕は浪人生だった。十九歳だった頃の自分は、七年後の自分がこうして過ごしていることなんて予想もしなかった。

同様に今から七年後の自分、三十三歳になった自分を想像する事はやっぱり出来ない。

けれども七年前と決定的に違うのは、七年後も必ず関わっていたいと思うものを見つけたことだ。

 

指揮。この限りなき魅力に溢れた芸術に。

 

六日間の帰省

 

少しのあいだ、関西に戻っていました。

卒論・卒業式・大学院試験・コンサートと修羅場が続いていて昨年の冬には帰省出来なかったため、一年ぶりの帰省となりました。

 

<帰省一日目>

諸々やることに追われて15時にようやく新幹線に飛び乗る。

新幹線に乗ってドキドキしなくなったとき、大人になったなと思うとともに、何か大切なものを一つ失ってしまったような感覚になった。

夜は小学校のプチ同窓会、その前にヴァイオリン協奏曲のソリストと打ち合わせ。

ご縁を頂いて指揮することになったオーケストラ・アフェットゥオーソで、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏することになりました。

ソリストは小学校の同級生でヴァイオリニストの白小路紗季さん。まさか小学校の友人とコンチェルトをやることになるなんて想像もしなかった。

彼女がドイツに発ってしまう前に、今の時点で僕が勉強したことをポケットスコアに書き込んで渡しておく…。

いずれも大変な曲(交響曲七番に至っては譜読みが過去最高に大変!)ですが、一年間じっくり修行を積んで、出来る限りの演奏をしたいと思います。

【オーケストラ・アフェットゥオーソ 設立記念特別演奏会】
2014年8月17日(日)
於:神奈川県立音楽堂
13:30開場、14:00開演、16:00終演予定
指揮:木許裕介 / ヴァイオリン:白小路紗季

 

同窓会では十五年ぶりに会う友人たちとボトルを四本空け、ほろ酔いで帰宅。

あのメンバーと、お酒を傾けながらゆっくり話せる日がやってくるとは思わなかった!

 

 

<帰省二日目>

出版社の友人と京都で過ごす夜。白ワインをカラフェで頂き連載の打ち合わせをしたあと、

御所南のカフェ・モンタージュにて劇団地点の「近現代語」を観劇。これが素晴らしく面白かった!

狙い澄まされつつ、即興的に作り上げられて行くフーガ。観劇しながら 頭の中で楽譜が生成されていく感覚は初めてだった。

何より、終戦記念日の今日に会えてこの演劇に誘ってくれた友人のセンスに悔しくなるほど感動。参りまし た。

終演後、主催の方が振る舞って下さったワインを頂きながら、その場で紹介して頂いた京都大学の方々とゆっくりお話させて頂く。

京都-東京と離れていても初対面でも、たいてい誰か共通の知り合いがいて繋がるものだ。

興奮冷めやらぬまま更にもう一件寄って飲み、名残惜しくも終電で帰路。幸せな時間をありがとう!

 

 

<帰省三日目>

朝からカイユボットとドガに関する論考を書き進める。

調べて行くうちに、同じ学科の友 人が専門にしているフェルナン・クノップフとドガの関係をはじめて知った。

書くのに飽きたら譜読み→メール対応→ピアノ→犬→原稿とローテーションしているうちに夜。

机の前からほとんど動かない引き籠りデーだったが、年内の本番の予定がひとつ決定して嬉しい。

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラ2014年度演奏会は丸ノ内KITTE内インターメディアテクで11月30日の15時から、ということになりました。

今年もまた友人のチェリストたちとヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ一番」を演奏致します。

 

夜中は譜読み。ほぼ毎日シベリウスの七番の譜読みをしているけれど、今日になって突然、身体にすっと入ってくるよう になった。

最初にスコアを見たときは意味不明、無い頭を絞ってアナリーゼしても白目、という感じだったのに、

大きな「流れ」のようなものが僅かながら把握出来てくると全てが自然で必然に思えてくる。

寝る前にはボードレールのLe Spleen de Parisを読み進める。この散文集がとても好きで、旅行するたびに持ち歩いてしまう。

 

 

<帰省四日目>

早朝、夢の中で、シベリウス七番のある箇所について唐突にその意味を理解した気がして飛び起きる。

限りなく清冽で、しかし同時に抱えている激しい孤独と苦しみ。それが正しいかどうかは誰にも分からないけれど。

 

午後は母校へ、毎年恒例の歴代生徒会関係者会議。灘の校舎が随分と様変わりしていて驚く。

水泳部から独立して「プールサイド同好会」(プールサイドに更なる価値を見出す集まり)が出来たということと、

実は昔から「シャワー部」なるものも非公式に存在していたのだという嘘か本当か分からない話を聞いて爆笑!灘らしいユーモアだなと思う。

会議では僕の時代には考えようも無かったアイデアの数々に触れることが出来て大いに刺激を受けた。

セッティングして下さった後輩の皆さん、ありがとうございました。

たくさんの後輩たちと話し、曇りなき目の数々に突き刺されながら、ボードレールの『悪の華』第百番目の詩の二十一行目、

Que pourrais-je répondre à cette âme pieuse?という一文をずっと反芻していた。

ここに居たころから十年後の自分がこんな風になっているなんて想像もつかなかったし、今から十年後の自分 もやはり想像がつかない。

でも、きっとそれで良いのだろう。

 

 

<帰省五日目>

朝、ポール・ヴァレリーの切れ味鋭い文章に接する。

「写真によって眼は、見るべきものを待ってからそれを見るように習慣づけられた。

つまり、眼は写真の出現以前にはよく見えていたが、存在しないものを見ないように写真から教えられたわけである。」

 

そのあと、医師になった高校時代の友人と地元でランチ。医療や手術の様々な話を聞かせて頂く。

違う分野の話を 聞くのはいつも面白い。上手く言えないけれども、彼の言葉の端々から溢れてくる情熱のようなものに感動してしまった。

お互い良い仕事を出来るようになりた いね、と笑って別れる。本当にそう思う。

昼、浪人中以来ずっと御世話になっている三宮の珈琲屋さんにご挨拶へ。

珈琲の美味しさや奥深さを教えて下さったのはこのマスターご夫妻。コロンビア、モカ、パナマと豆を頂き、近況報告とともに

「しあさってから宮城、来年はフィリピン に振りに行きます」と伝えたら、「これなら持っていけるでしょう」と絶品のドリップパックを沢山くださった。

その温かいお心遣いに感涙。焙煎したての豆をスーツケースに詰めて東京へ戻る準備。

 

 

<帰省六日目>

夢の中で凄い景色を見た。

風の強い日、そろそろ帰ろうかと言った浜辺。夕暮れの海。海に突き出た突堤が左にあって、その上に(いや、奥に)月が浮かぶ。

エルンスト・フェルディナント・エーメの「サレルノ湾の月夜」みたいだな、と思う。

しかし右には浜辺から海の中へと掛かる橋。橋のたもと、海の中に太陽が沈んで燃える。

太陽が海に「そのまま」沈んで燃え続けるのだ。それはとても不思議な光景で、ステンドグラスのように海の中に煌めく光を放つその様子に

絶句し、我に戻ってカメラを取り出し駆け寄るけれど、その景色を撮るには一瞬遅く、

完璧に美しかった時間を逃してしまう。そこで目が覚める…。

 

一息ついてから、カイユボットとドガに関する論考を進めつつ荷造り。

帰省中、何一つ不自由しない毎日だった。細かく書くことは敢えてしない。

この家庭に生まれ育った事を今は幸せに思うし、二十六歳にもなってまだ彷徨い続けている放蕩息子を

叱咤しつつも好きなように歩ませてくれる両親に心から感謝する。

 

さあ。東京へ戻ろう。

明日はリハーサル、あさってから宮城県でコンサート。

学問と音楽の間を行き来する、慌ただしくも充実した日々をまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

出発の哲学

 

しばらく音を聴きたくもなく、棒を振りたくもなかった。

少し覚えたはずの歌を失い、心は全く揺れず、呆然として立ちすくんだ。

 

文字通り真っ暗な中にいた。

作品のどこに立てば良いのか分からない。

どれを信じ、誰と音楽をして、何を求めれば良いのか分からない。

難しいことを考えるのは止めて楽譜を読もうとするけれど、楽譜は以前のように立ち上がらず、語りかけてくることもなく、

ただ石化した記号となって静寂に横たわる。

 

三ヶ月ぐらいそういう暗闇の中で踞っていました。

二人きりの時間にそう伝えると、師は柔らかに笑いながら言う。

「君はこれから何十年も棒を振らなければならないのだから、そういう時期があっても良いんだよ。」

 

大きな掌に包むようなこの言葉を僕は一生忘れまい。

さも当たり前のように下さった「何十年も」という言葉を、そして、悩んでいることを大らかに許して下さるその言葉を。

 

ずっと『悪の華』の最後の二行が響き続ける。

Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel, qu’importe ?

Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau !

戻ることも止めることもしない。自分で自分の道を切り開くしかない。

傷つきながらも、いまを潜り抜けた先に何かが見えることを切望して、

これが何十年のうちの大切な一部となることを信じて歩く。

もういちど信じることを思い出そう。それは脱出ではなく、「出発」のために。

 

 

 

 

二十六歳の夏休み

 

小林康夫先生の『こころのアポリア――幸福と死のあいだで』(羽鳥書店)刊行記念トークセッションがYoutubeにアップされていたことを知って観ていた。

(URLはこちら:http://www.youtube.com/watch?v=u30VQGYoauU)

この半年間、小林先生と一緒にボードレール、そしてモデルニテの絵画を勉強させて頂いたわけだけど、

「学者になろうと思ったのではない。書くという行為に携わり続け、書くという行為に生きるために大学に残ることを選んだのだ」という言葉は

いつ聞いても響くものがある。それが良いとか悪いとかではなく、少なくとも僕には、ある種の憧れと共感を持って響く。

 

院生としての最初の半年間の授業は早くも先日で全て終わってしまった。

学部以上に、大学院の授業は授業というよりは「刺激」と呼ぶのが正しい気がしていて、

沢山頂いた「刺激」を自分のうちにどう取り込んで「書く」か、そこに殆どが掛かっているのだと痛感する。

小林先生から頂いたボードレールとマラルメ(ミシェル・ドゥギーの『ピエタ・ボードレール』読解を通して)、モデルニテの絵画を辿るうちに現れたカイユボットとドガの「光」、

そして寺田先生から頂いた文学史の見通しと19世紀のスペクタクルの諸相をいかにして書くか。まずは京都の出版社の友人が下さった連載に対して、僕はいったい何を書きえるのか。

 

 

同時に、読まねばならぬ。

助手として二ヶ月近く立花先生と一緒に関わっていたことが一区切りし、五万部印刷されたものの一部を手元に頂きに久しぶりに猫ビルへ伺った。

小さいものだけれど、こんなに印刷されるものに関わらせて頂けることは滅多にないなと思うと感無量なものがある。

しかしその感動はすぐに消え去った。猫ビルの膨大な書籍に囲まれ、立花先生とお話しさせて頂くと、自らの無知に改めて気付かされ、悔しくなる。

僕は何も知らないし、何も読んじゃいない!

 

相変わらず立花先生はものすごい。指揮はどうなの,研究はどうなの、あの本は読んだ?と質問攻めにして下さる。

しかも、その質問の仕方は自然かつ絶妙で(これがインタビューの達人の業だ)僕の拙い発言を確実に拾いつつ、何倍にも広げて返して下さるのだ。

そしてまた、絵画の話になったとき、膨大な書籍の山から迷わず一冊の場所を僕に指示して引き抜きつつ、

「このアヴィニョンのピエタの写真と論考が素晴らしいんだ」と楽しそうに語られる様子に、凄まじい蓄積と衰えぬ知的好奇心を垣間見た思いがした。

その一冊が『十五世紀プロヴァンス絵画研究 -祭壇画の図像プログラムをめぐる一試論-』で、丸ノ内KITTE内のIMTでお世話になっている西野先生の学位論文であり、

渋沢・クローデル賞を取られた著書であったことには、色々な方向から物事が繋がって行く偶然の幸せを感じずにはいられなかった。

 

とにもかくにも、夏休み。

幸せなことにまた幾つものオーケストラでリハーサルがはじまる。

昨年指揮させて頂いた団体から今年も、と声をかけて頂けるのは嬉しいことだ。

東北でまたコンサートをさせて頂き、フィリピンに行くオーケストラの合宿をし、オール・シベリウス・プログラムのオーケストラの設立記念演奏会に関わらせて頂く。

毎年恒例のチェロ・オーケストラも今年はさらにメンバーを充実させて開催することが出来そうだ。

長らく温めていたけれど、そろそろ自分の団体についても動き出して良い頃だろう。

並行して、駒場と丸ノ内で頂いている室内楽の企画も進めて行かねばならぬ。

 

日々の苦しみと同じぐらい、楽しみなことがたくさんある。

一つ一つ大切に棒を振り、めいっぱい読んで、書く夏休みにしようと思う。

触発する何かが生まれる事を信じて。

 

 

 

 

両端から燃える蠟燭のように。

 

 

One must be like a candle that is burning at both ends. (Rosa Luxemburg)