gapyear.jpさまから取材を受けました。
休学するまで、休学してから、などのことが中心になっています。
何か身のあることが言えたかは分かりませんが、この一年の日々を振り返るつもりでお話させて頂きましたので、
ぜひご一読ください。(http://gapyear.jp/archives/1082)
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gapyear.jpさまから取材を受けました。 休学するまで、休学してから、などのことが中心になっています。 何か身のあることが言えたかは分かりませんが、この一年の日々を振り返るつもりでお話させて頂きましたので、 ぜひご一読ください。(http://gapyear.jp/archives/1082)
12月の夜。家にいるのが窮屈で、夜中にあてもなく外を歩く。 空気は澄み、風は鋭い。雲に隠れても月の光が街に届く。 コートのポケットに手を突っ込んで、マフラーに顔を埋めつつ、坂道を下る。 … 近々振る、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」のことが頭に浮かぶ。 あの二楽章には死の影が宿っている。船に揺られて歌うような淡い美しさが、突然、胸を打つ慟哭に彩られる。 何を考えてモーツァルトはこの部分を書いたのか。スコアを開けば目に飛び込んでくる休符の多さ。無音の空間。 … 沈黙と音楽について考える。 音は放たれた瞬間から減衰に向かう。それが音の宿命であり、悲しみであると同時に美しさでもある。 音楽は沈黙を埋める、一方で、沈黙へと還って行く過程を作り出す試みでもある。 だから音楽は大きく二つに分けることが出来る。ディヴェルティメントか、メディテーションか。 そして、「音楽とは結局のところ<消失>のヴァリエーションなのだ」という言葉の意味するものの深さ。
… ぐるりと歩いて戻ってくると、先程まで明かりと共にあった街は闇に沈み、家々の灯も落ちていた。 空は冷たく12月。月の影だけが空に残る。朝を静かに待ちながら。
ウェブデザインを担当することになっている赤坂のバーで打ち合わせをしつつ飲んできました。 僕が大切に思っている人たちを連れて、カウンターだけの小さなお店でゆっくりと三時間。 頂いたのはグレンモーレンジの18年、グレンファークラスの25年、アードベッグのルネサンス、 そしてアランのちょっと変わったシングルカスクの四つです。
グレンモーレンジは家でも好んで飲むウィスキーでしたが、18年ははじめて。 蜂蜜のように甘く華やかな香り、角の取れた丸さ、ふくよかなボディ。飲み飽きない纏まりのある味でした。 グレンファークラスは濃い色調にシェリーカスクの味がしっかりとしていて、25年という歳月(僕の今の年齢よりも年上!) を思いながら堪能させて頂きました。僕が生きていないころからこのお酒は樽の中で眠っていたのだなと思うと何だか感動してしまいます。 最後のアードベックのルネサンスはピートが心地よく、もとからピーティなシングルモルトが好きな僕にとってはゆっくりと楽しめる一本でした。 しかし今日一番驚いたのは、アランのシングルカスク。華やかでフルーティー、しかし後味には若干のスパイシーな余韻が残り、 心地よいリズム感を感じさせる作りになっていました。今までに飲んだ事のないタイプの一本で、癖になってしまいそうです。
シングルモルトを楽しむ、ということは、その土地や蒸留所、作り手の思想、そして流れる時間を楽しむことなのだと気付きます。 気の合う大切な人たちとゆっくりじっくりと、グラスの中に満ちる琥珀色の「命の水」に思いを馳せながら夜を過ごすのは確かに、 大人ならではの楽しみなのかもしれません。二十歳を超えたばかりの僕はあのヨード香や煙たさ、正露丸のような薬っぽさの 何が美味しいのか分かりませんでしたが、分からないなりに背伸びして飲んでいました。 あの頃から比べると少しは背伸びせずにシングルモルトを楽しめるようになったかなと思います。何より、素直に美味しいと思えるのですから。 マスター、美酒をごちそうさまでした。ご一緒して下さった素敵な方々共々、幸せな時間をありがとうございます。
祈ることしかできない。僕の寿命なら一年でも二年でも差し出す。だからお願いだ、待ってくれ。 僕はまだ、あなたからベートーヴェンもブラームスも教わっていないんだ。
珍しく風邪を引いた。 38度という高熱を久しぶりに経験して、一日中ずっと家に籠っていた。
風邪を引いて布団に寝転んでいると、必ず思い出す小説がある。 「童謡」という小説がそれだ。これを初めて読んだのは確か小学二年生の頃だったと思う。 やることを全て放棄して寝転んでいると、作中に出てくる「高い熱はじき下がる。微熱はいいぞ。君は布団の国の王様になれる」 という一節が強烈に蘇るのだ。
この小説、しばらく後にはこう続く。
「布団の国は楽しくないぞ」「うんそうだろう。ずいぶん痩せたな」 少年の目には友人が若々しい生命力に溢れているように見えた。生きている人間の世界からずり落ちかけている自分を感じた。 (中略) それから二十日ほど経って、少年はこの土地を離れた。少年の躯は以前の形に戻っていた。久しぶりに学校へ いった。 「すっかりよくなったね。今だから言えるけれど、見舞いに行ったときはびっくりしたよ。君とは思えなかった」「うん」 校庭の砂場では高く跳ぶ練習 をしていた。少年は、不意に勢いよく走り出し跳躍の姿勢にはいった。しかし、横木は、少年の腰にあたって、落ちた。 「前は高く跳べたのに」友人はささやい た。少年は「もう高く跳ぶことはできないだろう」と思った。 そして、自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきり形の分からぬもの。 そういうものがあるのを、少年は感じていた。 (「童謡」より抜粋)
簡潔にしてキレのある文章。鋭いながら豊かな余韻を失わぬ筆致。 この「童謡」という作品が僕の一番好きな作家、吉行淳之介によるものであったのを知ったのは、つい最近のことだった。
将来や先行きは何も見えないけれど、見えない事に怯えていては見える範囲の将来にしか進めない。 目を閉じても進めるような将来や予め見える程度の未来に進んでしまうぐらいなら、僕は生きていなくていい。 ジェットコースターが人をワクワクさせるのは傾斜を昇るまで次の景色が分からないからだし、 花火があれほど美しいのは、夜の闇を照らすからだ。
秋が来た。宙ぶらりんの身に秋の風は辛い。身に染みて心を揺らす。 24にもなってひとりで歩くことすら、僕には出来ない。無力。情けなさ。 夏の太陽の眩しさに目を細めて見えないフリをしていたものが、秋の訪れとともに立ちはだかる。 立ち止まった瞬間、足下にずっと昔から大きな穴が空いていた事に気付く。漫画の主人公のように落下。闇。闇。闇。あたり一面の闇。 闇を掘り返しても闇しか手に取れない。生きるのはどうしてこんなに難しいのだろう。
放っておくと収束してくる世界に耐えきれなくて、僕はいつも裂け目を求める。 どうしてみんなは自ら世界を収束させ、安定を求めようとするのだろう。 まだ世界を収束させるには早過ぎる。纏まるのはまだ早い。自分をどこかに位置づけるのにも早過ぎる。 違う世界への入り口はどこだ。もっと広く、もっと深く。更なる可能性はどこにある。 焦らず、時間を限界までギリギリと引き延ばしながら耐える。音符の持つ長さを目一杯に伸ばし、小節線からはみ出ることも恐れずに待つ。 世界から世界へ渡り歩きながら、それぞれを繋げてゆく。足下に敷かれた石をたどりながら、いつしか大きな庭園を描く。
毎年のようにサーフィンへ行っています。 今年ももちろん、波と遊びに伊豆へ。昨年はクラスの友達を連れて行きましたが、 2011年はオーケストラとデザインチームのメンバーを連れていつもの宿に行きます。 一年ぶりに宿に電話したのに、オーナーさんはすぐに「おおおー早く今年もおいでよー!」と言って下さって嬉しい限りです。
朝はサーフィン、昼は昼寝、夕方サーフィン、夜は音楽とお酒。 明日から幸せな三日間になることでしょう。
東京に来て四年になるのか、と気付いて溜め息をつく。 2011年の夏。予定の合間を縫うようにして実家に帰って来た。 かつては憧れの乗り物だった新幹線も、24歳になった今では、近所に出かけるのと同じ感覚で乗っている。 わずか三時間弱乗っているだけで僕の身体は東京から京都へと運ばれる。京都で降りても感慨は無い。 京都だということすら実感が湧かず、ただ周りから聞こえてくる言葉が耳に懐かしくどこか柔らかい関西弁であることに 気付いてようやく「ここは東京じゃないんだな。」と思う。
帰って来たな、と思えたのは、家のドアをあけた時だった。 相変わらず吠える犬。おかえりと声をかけて出てきてくれる両親と弟。帰る時間にぴったりタイミングを合わせて作ってある御飯。 ここは僕の暮らしていた場所だし、ここが僕の家なのだ。そして僕は確かにこの家族で育った。 たとえ交通がもっと発達して一瞬で移動できるようになっても、どれだけ東京に慣れてしまっても、その事実は変わる事がない。 東京に来て四年目の夏、帰る場所がちゃんとこちらにあることを改めて知る。どんな道に進んでも。
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