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世界の裂け目を求めて。

 

放っておくと収束してくる世界に耐えきれなくて、僕はいつも裂け目を求める。

どうしてみんなは自ら世界を収束させ、安定を求めようとするのだろう。

まだ世界を収束させるには早過ぎる。纏まるのはまだ早い。自分をどこかに位置づけるのにも早過ぎる。

違う世界への入り口はどこだ。もっと広く、もっと深く。更なる可能性はどこにある。

焦らず、時間を限界までギリギリと引き延ばしながら耐える。音符の持つ長さを目一杯に伸ばし、小節線からはみ出ることも恐れずに待つ。

世界から世界へ渡り歩きながら、それぞれを繋げてゆく。足下に敷かれた石をたどりながら、いつしか大きな庭園を描く。

 

 

Sur la prière.

 

ブラジル風バッハ五番のアリアを勉強していたら、何の前触れもなく、一つの言葉を書きつけていた。

 

「芸術に携わるものなら押し並べてせねばならないことがある。それは祈ることだ。誰に?もちろん、自分に。」

 

自分に祈るということはどういうことだろうか。それは、自分の中のなにものかに入り込み、思いを馳せるということだと思う。

「祈る」という行為は、対象を慈しみ、尊び、心を注ぐということなのではないか。

祈りに満ちた曲を演奏するとき、対象に向かって心が研澄まされる感覚になる。逆もそうだ。

対象に向かって感覚を研澄ますと、「祈り」という行為を思い起こさずにはいられない。

祈ることを考えてからブラジル風バッハ五番のアリアを見ると、この曲が全く違う深みを帯びて見えてくるし、また

改めて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲を読み直すと、もっと純化された音楽が立ち上がってくる。

いちどこの間奏曲を振ったとき、師に「こういう曲は淡々とやるほうがいい。」と言われて、そのときは「そういうものなのかなあ。」と

いまいち納得できなかったのだが、今ならその言葉の意味が理解できる。変にテンポを落としたり揺らしたりしなくてもいいんだ。

小細工ではなくて、祈りで純化された音楽が滔々と流れていけばいいんだ。

 

たぶんベートーヴェンの「運命」もそう。「英雄」もそう。人為的な小細工をして演奏する曲じゃない。

ここから遅く「します」ではなく、ここから遅く「なります」のはずだ。

祈りから溢れ出れば、自然に抑揚もテンポ変化も生まれてくるに違いない。

祈るように演奏する。演奏して祈る。ヴィラ・ロボスがそのことを教えてくれた。

 

 

ブラジル風バッハ五番を学ぶ。

 

ブラジル風バッハ一番を終えて、五番をレッスンで見て頂くことになった。

五番はこのブラジル風バッハという一連の曲の中で最も有名だろう。一楽章のアリアの旋律は一度聞いたら忘れる事の出来ない憂愁に満ちている。

歌詞はポルトガル語で書かれていて、日本語訳では

…….

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く!

無限の中に月が優しく夕暮れを飾る。

夢見がちに綺麗な化粧をする

情の深い乙女のように。

 

美しくなりたいと心から希みながら

空と大地へ、ありとあらゆる自然が叫ぶ!

その哀しい愁訴に鳥たちの群も黙り

海はその富の全てを映す

優しい月の光はいま目覚めさす

笑い、そして泣く、胸かきむしる郷愁を。

 

夕暮れ、美しく夢見る空間に

透き通ったバラ色の雲がゆったりと浮く

…….

 

というような歌詞。もうこの歌詞だけで美しさに眼がくらむ思いがする。

とはいえこれはあくまでも日本語訳。この曲を振るためには、ポルトガル語を理解せねばならない。

そこで楽譜の研究と並行してポルトガル語を勉強し始めたが、イタリア語とフランス語をやっていたこともあり

比較的すぐに理解する事が出来た。一晩集中的に文法書を読み込んだ結果、この曲のアリアの歌詞なら

ポルトガル語のままで追える。(しかし二楽章のダンスとなると早すぎてまだ全然追う事が出来ない。)

次のレッスンまでに徹底的に楽譜とポルトガル語を勉強して臨みたい。

残された時間は限られていて、もう二度と学べないレッスンを日々受けていることを肌で感じている。

 

 

 

ブラジル風バッハ一番を終えて。

 

ブラジル風バッハ一番のレッスンを終えた。

ここに書く事は出来ないぐらい多くの事を学び、多くの事を教わった。

音楽に対する考え方を変えられ、また自由になることが出来た。振る前と振った後ではモノの見え方が違う。

ブラジル風バッハ一番はベートーヴェンの運命に近いところがある。運命の中にブラジル風バッハ一番が聞こえ、ブラジル風バッハ一番の中に運命が聞こえる。

いつか必ず、この二曲をセットにして演奏会をしてみたい。

 

 

「戦争と文学」講演会@早稲田大学大隈講堂

 

早稲田大学大隈講堂で立花先生の講演会の助手をしてきました。

大隈講堂の舞台の上に昇るのはもちろんはじめて。よく考えたら東大の安田講堂にも昇った事がないかもしれません。

舞台の上から客席を見ると二階席までかなりの人数で埋まっており、身が引き締まる思いをしました。

 

講演会自体は集英社の「戦争×文学」というコレクションの発刊に関するもので、立花先生は「次世代に語り継ぐ戦争」といテーマで

「戦争×文学」に収められたエピソードを適宜引用しつつ、沖縄の話からアウシュヴィッツ、香月泰男まで幅広く「戦争」のリアルな側面を

話されていました。前日に先生と打ち合わせた内容と随分話の展開が変わっていて助手としては焦りましたが、僕が立花先生の助手をしていて

一番好きなのは、こういう予想外の脱線や閃き、その場の雰囲気で流れががらっと変わるアドリブの部分なので、神経を尖らせて助手仕事をしつつ

「どんなふうに昨夜準備したこのスライドを使うのだろう」とワクワクしながら先生の話に耳を傾けます。

準備段階では資料を探してそれらを一本のストーリーで繋げる先生の構成力(と体力!)に毎回驚かされますし、

講演会でこうしてアドリブになればその博覧強記ぶりに圧倒されます。知識や本、映画や絵画がまるで呼吸するように湧き出てくるのです。

話しながら先生自身もワクワクしている様子が肌で伝わってきて、「ああ、こういう仕事を出来るようになりたいな。」と思わずにはいられませんでした。

 

先生と一緒にお仕事をさせて頂くと、自分の無知に嫌というほど気付かされます。日々勉強あるのみですね。

 

人生を賭けて。

 

「君を一人前の指揮者に育てるのが、僕の最後の仕事だな。」

師がそう呟いていらっしゃった、ということを知った。5月にプロオケを振らせて頂いてから、より一層、

師匠が命を燃やして教えて下さっていることをひしひしと肌で感じる。だから僕も命を賭けて学ぶ。

 

言葉を持った音、語る棒。

 

ムソルグスキー「展覧会の絵」の最後に置かれた壮大な曲、「キエフの大門」。

今の僕には、その壮大さに心が打ち負けてしまうような曲。未熟なりに振り終わったあと、

師匠がぽつりと漏らした言葉を僕は一生忘れない。

 

「音符に言葉を話させ、棒で語れ。君はそういう指揮者になれ。」

 

 

音符に雄弁に物語を紡がせ、口ではなく棒ひとつで音と言葉を語り、奏者に伝える。

何十年かかってもいい。そういう指揮者になりたい。

 

 

 

 

東フィル&大野和士:マーラー「復活」@サントリーホール

 

大野さんの指揮と東フィルの演奏で、マーラーの交響曲二番「復活」を聴いてきた。

警備がいつになく物々しいなと思っていたら、近くに皇太子さまがお座りになって少しびっくり。

「復活」は大編成の管弦楽に加えて、ソリスト(ソプラノ&アルト)二名+男女混声合唱を伴う巨大な曲で、

一度聞くと忘れられないぐらいの迫力に満ちている。弱音、無音、間髪入れず重なる最強奏。

浪人中から辛い時には良くこれを聞いて気持ちを前に駆り立てていた。

マーラーの曲はもちろんのこと、歌詞がいい。一番好きなのは

Was entstanden ist, das muß vergehen. 生まれ出たものは、必ず滅びる。 Was vergangen, auferstehen!       滅びたものは、必ずよみがえる! Hör auf zu beben!                                        震えおののくのをやめよ! Bereite dich zu leben!                                 生きることに備えるがよい!

 

と歌われる部分。そう、生きる事に懸命に備える事以外、我々には何も出来ないのだ。

 

感想を細かく書く事はしない。書きたい事はただ一つ。

音楽はいいな、ということ。人が生み出し人に淘汰され、いまここ・この瞬間に、人が人に向けて奏でる。

音楽ほど人間の心を揺さぶるものを僕はまだ知らない。だから僕は、音楽をやる。

 

 

 

「展覧会の絵」を振る。

 

ついにここまで来ることが出来たか、という思いがしています。

ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲の「展覧会の絵」。指揮のレッスンを受け始めてからもうすぐ二年になりますが、

この「展覧会の絵」に辿り着くことが一つの目標でした。

 

分かってはいたことですが、「展覧会の絵」は一筋縄ではいきません。

指揮のテクニックを総動員させなければいけないのはもちろん、展覧会の絵がいったいどういう曲か、

知り、感じ、引き出さなければなりません。ムソルグスキーにインスピレーションを与えたガルトマンの絵について調べ、

ムソルグスキーの書簡も読んで自分なりに音楽に形とイメージを与えてレッスンに臨みましたが、まず最初のプロムナード、

あの誰もが聞いた事のある「プロムナード」を振り始めた瞬間、師匠から

「全然だめだっ!!!そんな曲じゃないんだ!!」と一喝されました。

 

いま見返せば分かります。僕の棒はプロムナードの変拍子を上手く整理して振っていましたが、

決定的に欠けているものがあった。それは棒に出ていないだけでなく、楽譜から見落としていたものだったのです。

音符の下に引っ張ってある一本の細いバー。「テヌート」と呼ばれる指示記号がそうです。

tenuto=「音符の長さいっぱいに音を保って」、というその一本の細い記号で表されたニュアンス。

驚きました。これを意識して指揮するだけで、「展覧会の絵」から立ち上がる光景ががらりとその姿を変貌させます。

「展覧会の絵」のラヴェル編曲はフランス的でやや明る過ぎる、とアシュケナージが書いているそうですが、

テヌートを意識すれば明るさは消え、ずっしりとした重さ(これをロシア的と言ってしまって良いのか分かりませんが)が

生まれてきます。テンポの問題ではなく、テヌートの効かせ方なのです。テヌート一つで音楽は変わります。

もう何十回と聞いているはずのプロムナードが、あれほど聞きごたえのあるものだとは始めて知りました。

 

 

未熟さを痛感すると同時に、自分の成長を少し感じた場面もありました。

というのは、テヌートなのだと叱咤されたら、すぐさまテヌートのように棒を振る事が出来ます。

言葉ではなく、棒の軌跡や加速度や減速、そうしたものからテヌートを伝えることが出来るようになっていました。

日々の厳しいレッスンのおかげで、右も左も分からなかった二年前から少しは成長できたように思います。

 

ちなみに、少し後にある「古城」という曲ではスラースタッカート&テヌートがファゴットにつけられているのですが、

それも「スラースタッカート&テヌートらしく」棒を振るためにはどうするか、ということが自然と身体に染み込んでいました。

それにしても、古城は凄い曲です。一般にサックスに注目されがちな曲ですが、この曲の神髄はファゴットにある。

ファゴットにつけられたテヌートの絶妙さ!このファゴットがあるからこそ、霧に包まれた湖の側に佇む、

かつては栄えたであろう石造りの堂々とした城が見えるのです。そしてその城はいまや、その風格を保ちながらも、時間に晒され苔むし

人々から忘れ去られてそこに佇んでいるのです。

 

 

展覧会は読み始めると止まらず、スコアを閉じても頭から離れることがありません。

歩いていてもプロムナードが、グノームが、ビドロがティユルリーが聞こえてきます。

目に入ったものが音楽に直結してくるようで、自分の中にある感性のアンテナが、

この曲に触れることで一段階研ぎ澄まされた感覚を覚えています。

 

展覧会の絵、恐るべし。

八月から九月は、ずっとこの曲のことを考えながら毎日を送ることになりそうです。

 

 

ドミナント・サーフトリップ

 

毎年のようにサーフィンへ行っています。

今年ももちろん、波と遊びに伊豆へ。昨年はクラスの友達を連れて行きましたが、

2011年はオーケストラとデザインチームのメンバーを連れていつもの宿に行きます。

一年ぶりに宿に電話したのに、オーナーさんはすぐに「おおおー早く今年もおいでよー!」と言って下さって嬉しい限りです。

 

朝はサーフィン、昼は昼寝、夕方サーフィン、夜は音楽とお酒。

明日から幸せな三日間になることでしょう。