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消失のヴァリエテ

 

12月の夜。家にいるのが窮屈で、夜中にあてもなく外を歩く。

空気は澄み、風は鋭い。雲に隠れても月の光が街に届く。

コートのポケットに手を突っ込んで、マフラーに顔を埋めつつ、坂道を下る。

近々振る、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」のことが頭に浮かぶ。

あの二楽章には死の影が宿っている。船に揺られて歌うような淡い美しさが、突然、胸を打つ慟哭に彩られる。

何を考えてモーツァルトはこの部分を書いたのか。スコアを開けば目に飛び込んでくる休符の多さ。無音の空間。

沈黙と音楽について考える。

音は放たれた瞬間から減衰に向かう。それが音の宿命であり、悲しみであると同時に美しさでもある。

音楽は沈黙を埋める、一方で、沈黙へと還って行く過程を作り出す試みでもある。

だから音楽は大きく二つに分けることが出来る。ディヴェルティメントか、メディテーションか。

そして、「音楽とは結局のところ<消失>のヴァリエーションなのだ」という言葉の意味するものの深さ。

 

ぐるりと歩いて戻ってくると、先程まで明かりと共にあった街は闇に沈み、家々の灯も落ちていた。

空は冷たく12月。月の影だけが空に残る。朝を静かに待ちながら。

 

 

コマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサル

 

駒場祭三日目、11月27日に指揮するコマバ・メモリアル・チェロオーケストラの第二回リハーサルを終えた。

「チェロオーケストラ」といっても、中身はチェロ八本。オーケストラの人数には程遠い。しかし、八本のチェロの音が共鳴すると、

「オーケストラ」としか言い様のない、凄まじい深みのある音が鳴る。

 

演奏するヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ一番」は、チェロにとって屈指の難曲として知られ、アマチュアではちゃんと演奏するのは極めて難しいとされている。

今回のメンバーは全員アマチュア、東京大学の学生が五人、残る三人が東京外大・多摩川大学・開成高校だ。

練習回数はわずか三回しか無いが、数少ない練習時間の中で、この技巧的にも表現的にも難しい曲にがっちり挑戦してくれていて、

指揮者としても気合いが入る。そしてまた、この曲は僕の師の愛した曲でもあるから、中途半端な演奏は絶対にしたくない。

あと一回のリハーサルでどこまで形になるか、全力を尽くしてみようと思う。

それにしてもブラジル風バッハ一番、凄まじく良い曲だ。師が言っていた。「一回ずつ違うように演奏したくなるんだよね。」と。

実際にやってみた今ならその言葉の意味するところが分かる。譜面や小節がどうでも良くなるような大らかさと流れがある。

ヴィラ=ロボスの音楽、師と同じように、生涯を通して取り上げて行きたい。

 

 

 

広告と音楽

 

昔から「広告」に興味があった。

心を動かし、コミュケーションを作り、欲望をコントロールするもの。

しかしある日からそうした広告、とりわけ広告の仕組みや広告を語る人たちの言説に違和感を感じるようになった。

この違和感は何なのだろう?言い方は良くないが、偽善的な、というかワザとらしい感じを受けるようになったのだ。

まるで、落とし穴にハメられたあと、落とし穴の作り方を上から得意気に解説されるような気持ち悪さ。

恋に落ちてゆく過程と仕組みを第三者に「ほら、このイベントがこういうふうに君の気持ちを動かしたからだよ。」と説明されるような居心地の悪さ。

 

この問題についてある人と話していて、朧げな答えが出た。端的に言えば、そうした心に訴えよう訴えようとする行為があざといのだ。

心に働きかけるという意味では広告と音楽は似ている。「move=動く、感動する」させるものだから。だが、心に働きかけるやり方が対極にある。

もちろん全てはないが、心に波を起こして(ボードリヤール風に言えば、欲望に働きかけ)行動へと繋げさせるその仕組みを作るのが広告だとすれば、

一方で音楽(これも全てではないが、少なくとも僕が目指す音楽)は、その正反対だ。心に訴えかけよう訴えかけようとする音楽はあざとく、下品だろう。

もっと自然で、自然と心に届く。その結果として感動がある。最初っから感動を狙ってやるものではない。

 

すなわち、広告と音楽は働きかける対象を同じにしながら、ある意味で正反対の性格を持つ。

それゆえに僕は広告に惹かれ、音楽を学び始めるのとほぼ軌を一にして広告に違和感を感じ始めたのだろう。

それだけではない。広告に関わる、というのはそれだけでメタな次元、一段階高い次元にその身を置きうる。

だからこそ、僕らと同年代の学生たちが、同年代の我々を引っ掛けて落とそうとする仕組みをしたり顔で書いていることにある種の醜さすら感じてしまう。

しかもその言説が有名な広告家の言葉を借りただけであったり、見るからに書き慣れない修辞やメタファーに満ちた文章であったりする!

その上から目線(がどうしても含まれてしまう)にどうしようもない違和感を覚えるのだ。

 

昔は広告が作り上げられて行く過程や分析に興味があった。

いまはむしろ、そういう背景を見たくないなと思う。欲望を掻き立てられるなら、自然と掻き立てられたように錯覚したままでいさせてほしい。

手書きの手紙を貰って感動した後に「やっぱり手書きだと濃密なコミュニケーションを作る事が可能だよね。」なんて言われたくないし、

モーツァルトが「ほら、ここにこの和声を入れたら聴衆は感動すると思うんだよね。」なんて得意顔で話しながら曲を作っていたとしたら、興醒めだ。

 

 

 

 

 

外と中と

 

Das Aussehen ist sowieso nicht das Wichtigste, auf die inneren Werte kommt es an!

(外見ではなくて中身が重要なのだ!)

 

 

「エグモント」序曲

 

今日からついにベートーヴェンの「エグモント」序曲に入った。

悲劇と興奮と確信と、弾力性のある情感。「運命」を凝縮したような音楽で、この序曲にいくつもの物語が詰まっている。

コリオランもそうだったが、エグモントは心の中をエグモントにしないと絶対に振れない。

波風立たぬ凪いだ気持ちではだめだ。だから感情の振れ幅が大きくないと指揮者なんてやっていられない。

冷静にもなれるし、時には信じられないほどの激情に突き動かされる事もあり、両者を自在に切り替えられないといけない。

 

それはもう、指揮法の問題ではなく「人間」の問題といっても良いだろう。

数ヶ月前のレッスンが終わってから下さった、「ここから先は君がどういう人間になるかだよ」という師の言葉が今になって蘇る。

あの言葉は誇張でも何でもなくその通りだった。僕はまだ所詮24歳で社会のことも人生のことも何にも知らない宙ぶらりんの学生かもしれないが、

自らの信ずるところを全うして最後まで揺るがず、最終的には堂々たる死を選んだエグモント伯爵のように、強い芯のある人間でいたいなと思う。

そして間違いなく師匠はそういう人だ。いわばエグモントにエグモントを習っている。ああ、日々が楽しくて仕方がない。

 

 

 

 

 

 

トゥーサン『愛しあう』再読

 

朝六時までベートーヴェンの「エグモント」序曲を勉強していたら目が冴えてしまったので、

珍しく浴槽にお湯を張って、ゆっくりと浸かりながらトゥーサンの『愛しあう』という小説を読んでいた。

原題はfaire l’amour、すなわちmake love というそのものズバリのような刺激的なタイトル。野崎先生はこれを『愛しあう』とギリギリのラインで

日本語にしたわけだが、この訳のセンスには本棚で背表紙を見るたびに感動してしまう。すごい。

 

ともあれ、邦訳で二・三回読んでいるとあって、これは原典でも辞書無しである程度の意味が分かる。

ペーパーバックは表紙が厚めのコート紙で出来ているのでこうした環境で読んでも湿気ないのが良い。久しぶりに読んでみると

「ここはこういう風に書いてあったんだな」と美しさに驚くところもあったので、覚え書きとして幾つかここに掲載しておこうと思う。

 

Le taxi nous déposa devant l’entrée de l’hôtel. A Paris, sept ans plut tôt, j’avais proposé à Marie d’aller boire un verre quelque part dans un endroit encore ouvert près de la Bastille, rue de Lappe, ou rue de la Roquette, ou rue Amelot, rue de Pas-de-la-Mule, je ne sais plus. Nos [...]

もういちど、コリオラン&ハイドン・バリエーション。

 

コリオラン&ハイドン・バリエーションをもう一度レッスンで振った。

昨夜があんまりにも上手く演奏できたのでまぐれだったのではないかと思ったことと、

いつかこの曲を一緒にやるであろう、僕のオーケストラのメンバーに見ていてほしかったからだ。

 

コリオランもハイドン・バリエーションを一気に通して指揮したあと、

師匠は「いいよ。何も言うことはない。」とだけ、声を詰まらせてぽつりと呟く。僕の見間違いでなければ、その目は少し赤くなっていた。

昨夜はまぐれではなかったのだ。祈る気持ちは昨夜のみ湧き出たものではなく、音楽に向き合った瞬間溢れ出してくる。

そして、ヴィラ=ロボスをやってから格段に自由にスコアの中で動き回れるようになった。間違いなく、見える世界が変わった。

 

終わってからしばらく、興奮と充実感とが襲って来て、そのあとしばらく放心していた。

日常生活に戻ることが困難なほど、ハイドン・バリエーションのあのテーマが頭の中に響き続ける。フィナーレの壮大さに肌がぴりぴりと

痺れた記憶が蘇る。今の僕に出来る限り、あるいはそれ以上のコリオランとハイドン・バリエーションをやったのかもしれない。

師匠や門下の方々、そして素敵なピアニストのお二人と奏者のみんなに育ててもらってここまで来たのだと感謝の気持ちでいっぱいになる。

後ろで見ていてくれたドミナントのヴィオラ奏者がこんな感想を書いてくれていた。彼は一年半前、僕がはじめてオーケストラを振ったときから

ずっと一緒に音楽をしてくれているだけに、そう思ってもらえたのは心の底から嬉しかったし、少しは成長したのだと思えた。

 

ピアノ連弾でこんなに人を感動させることができるのか。

僕は終始コリオランの最初の和音からなぜかわからない、涙が溢れるのを堪えるのに必死だった。

ダイナミクスと共に何度も打ち震えた。今日の木許裕介の姿を僕は一生忘れない。

 

 

コリオランとハイドン・バリエーションは僕にとっても永遠に忘れられない曲になった。

あの日・あの瞬間の空気、あの場にいた人の姿とともに、いつまでも鮮やかに響き続ける。

ここから先、ベートーヴェンやブラームスの交響曲に向かい合うことになるだろうが

いつも今日の感覚を忘れずに、心の底から湧き出るように音楽をしていきたい。

 

 

 

 

 

 

モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス。

 

モーツァルトのKv.136とベートーヴェンの「コリオラン」、そしてブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

普通はレッスンでは一曲だけしか見てもらえるものではないし、そもそも三曲も準備していくのは至難の業なのだが、

夜を徹して勉強して、三曲どれを振れと言われても大丈夫なようにして持って行った。結果、三曲を一気にレッスンで振ることになった。

そしてどれも一発で合格を頂いた。未熟なところは山のようにあったと思うが、今までで一番、気持ちが乗ったように思う。

 

師はもうすぐ86歳の誕生日を迎える。少し体調を崩していらっしゃったが、無事にまたレッスンの場へお姿を見せて下さったことに

僕は心から感動し、一秒たりとも無駄にしまいと改めて心に刻んだ。

最初のKv.136。師の師であった斎藤秀雄が亡くなる直前に愛奏していた曲として知られる。その曲を、病み上がりの師の前で

振っているうちに、今まで味わった事のない感情が溢れ出してくるのを強く感じた。二楽章、あの優しくもしなやかな音楽。

振りながら師のことを考えた。「祈り」としか表現する事のできない気持ちが湧き出てくる。涙をこらえるのが必死だった。

 

続くコリオラン。壮絶な悲劇、嵐のような音楽。

この曲のフルスコアを買ったのは浪人中、つまりもう五年前になる。あの頃は指揮なんてしたこともなかったけれど

カルロス・クライバーがこのコリオランを指揮している動画にふと巡り会って、なんと劇的な音楽なのだろうと感動して

はじめてオーケストラのスコアを買ってみたのだった。まさかこの曲を振る日がやってくるとは想いもしなかった。

やりたいことが沢山有るのに何もすることが出来なかったあの浪人中の感情をぶつけるように、感情を剥き出しにして

振った。剥き出しになった、というのが正しいかもしれない。先程とはまた違う種類の涙が溢れそうになった。

 

最後、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

この曲は祈りだ。聖なる祝祭、あるいは官能的な高まり。印象的なテーマが次々と変奏されてゆき、

紆余曲折を得て最後に絡み合いながら戻ってくる。この曲は一度耳にして以来僕にとって憧れの曲のひとつで、

木細工のように精密に作られたオーケストレーションと変奏の性格の切り替えの鮮やかさの虜になった曲だった。

今の僕にどこまで表現できたかは分からないが、今日のレッスンの最初から気持ちの中に溢れていた「祈り」が

この変奏曲に少なからず宿ったような気がしている。最終変奏で、「先生、どうかいつまでもお元気で」という思いが心を駆け巡り、

深い深い打ち込むような落ち着きある音符が老齢の師に、駆け上がる細かな音符が若い自分のように思われて、師と二人で

会話をしているような錯覚すら感じた。

 

最後の到着点である長い長い和音が消えたあと、師は何とも言えない笑顔でこちらを見て下さっていた。

今もまだ焼き付いて離れない。充実感と高揚感が交互に押し寄せる。僕の祈りは通じただろうか。

 

 

布団の国の王様

 

珍しく風邪を引いた。

38度という高熱を久しぶりに経験して、一日中ずっと家に籠っていた。

 

風邪を引いて布団に寝転んでいると、必ず思い出す小説がある。

「童謡」という小説がそれだ。これを初めて読んだのは確か小学二年生の頃だったと思う。

やることを全て放棄して寝転んでいると、作中に出てくる「高い熱はじき下がる。微熱はいいぞ。君は布団の国の王様になれる」

という一節が強烈に蘇るのだ。

 

この小説、しばらく後にはこう続く。

 

「布団の国は楽しくないぞ」「うんそうだろう。ずいぶん痩せたな」

少年の目には友人が若々しい生命力に溢れているように見えた。生きている人間の世界からずり落ちかけている自分を感じた。

(中略)

それから二十日ほど経って、少年はこの土地を離れた。少年の躯は以前の形に戻っていた。久しぶりに学校へ いった。

「すっかりよくなったね。今だから言えるけれど、見舞いに行ったときはびっくりしたよ。君とは思えなかった」「うん」

校庭の砂場では高く跳ぶ練習 をしていた。少年は、不意に勢いよく走り出し跳躍の姿勢にはいった。しかし、横木は、少年の腰にあたって、落ちた。

「前は高く跳べたのに」友人はささやい た。少年は「もう高く跳ぶことはできないだろう」と思った。

そして、自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきり形の分からぬもの。

そういうものがあるのを、少年は感じていた。

(「童謡」より抜粋)

 

簡潔にしてキレのある文章。鋭いながら豊かな余韻を失わぬ筆致。

この「童謡」という作品が僕の一番好きな作家、吉行淳之介によるものであったのを知ったのは、つい最近のことだった。

 

 

 

 

時間のすきま。

 

時間は等速に流れるものかもしれないけれど、時間から脱出したような感覚を稀に味わえることがある。

サッカーのキーパーをしていて横に飛ぶとき、ボウリングのバックスウィングの頂点、サーフボードが滑り出す瞬間、

そして音と音との間に身を滑り込ませるあの一瞬。共通するのはどれも、物や身体の「重さ」が無くなることだ。