モーツァルトのKv.136とベートーヴェンの「コリオラン」、そしてブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。
普通はレッスンでは一曲だけしか見てもらえるものではないし、そもそも三曲も準備していくのは至難の業なのだが、
夜を徹して勉強して、三曲どれを振れと言われても大丈夫なようにして持って行った。結果、三曲を一気にレッスンで振ることになった。
そしてどれも一発で合格を頂いた。未熟なところは山のようにあったと思うが、今までで一番、気持ちが乗ったように思う。
師はもうすぐ86歳の誕生日を迎える。少し体調を崩していらっしゃったが、無事にまたレッスンの場へお姿を見せて下さったことに
僕は心から感動し、一秒たりとも無駄にしまいと改めて心に刻んだ。
最初のKv.136。師の師であった斎藤秀雄が亡くなる直前に愛奏していた曲として知られる。その曲を、病み上がりの師の前で
振っているうちに、今まで味わった事のない感情が溢れ出してくるのを強く感じた。二楽章、あの優しくもしなやかな音楽。
振りながら師のことを考えた。「祈り」としか表現する事のできない気持ちが湧き出てくる。涙をこらえるのが必死だった。
続くコリオラン。壮絶な悲劇、嵐のような音楽。
この曲のフルスコアを買ったのは浪人中、つまりもう五年前になる。あの頃は指揮なんてしたこともなかったけれど
カルロス・クライバーがこのコリオランを指揮している動画にふと巡り会って、なんと劇的な音楽なのだろうと感動して
はじめてオーケストラのスコアを買ってみたのだった。まさかこの曲を振る日がやってくるとは想いもしなかった。
やりたいことが沢山有るのに何もすることが出来なかったあの浪人中の感情をぶつけるように、感情を剥き出しにして
振った。剥き出しになった、というのが正しいかもしれない。先程とはまた違う種類の涙が溢れそうになった。
最後、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。
この曲は祈りだ。聖なる祝祭、あるいは官能的な高まり。印象的なテーマが次々と変奏されてゆき、
紆余曲折を得て最後に絡み合いながら戻ってくる。この曲は一度耳にして以来僕にとって憧れの曲のひとつで、
木細工のように精密に作られたオーケストレーションと変奏の性格の切り替えの鮮やかさの虜になった曲だった。
今の僕にどこまで表現できたかは分からないが、今日のレッスンの最初から気持ちの中に溢れていた「祈り」が
この変奏曲に少なからず宿ったような気がしている。最終変奏で、「先生、どうかいつまでもお元気で」という思いが心を駆け巡り、
深い深い打ち込むような落ち着きある音符が老齢の師に、駆け上がる細かな音符が若い自分のように思われて、師と二人で
会話をしているような錯覚すら感じた。
最後の到着点である長い長い和音が消えたあと、師は何とも言えない笑顔でこちらを見て下さっていた。
今もまだ焼き付いて離れない。充実感と高揚感が交互に押し寄せる。僕の祈りは通じただろうか。