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Jeder für sich und Gott gegen alle  「カスパー・ハウザーの謎」 試論

 

  「カスパー・ハウザーの謎」という映画がある。昨年、僕はこの映画を表象文化論のある教授に見せて頂き、レポートを書いた。

枚数制限もあったし書くのに使える時間もそう長くはなかったのでたいしたものではないが、せっかくなのでここにあげてみようと思う。

レポートのタイトルは、「カスパー・ハウザー、絶対の孤独」という。

 

【1】異質なものへの距離

 言葉にしがたい後味を残すこの映画は、カスパー・ハウザーという一人の「純粋な」人間を通して、階級やジェンダー、論理や

宗教といった既存の常識や社会への批判を投げかけるものである。その中でも宗教に投げかける懐疑や皮肉の強さは特筆される

だろう。カスパーが体を洗ってもらって「見なさるのは神様だけ」と言われる時、外の動物がしっかりとカスパーを見ているし、話が少し

進むと「とにかく信じるんだ!疑うことよりまず信じる事が大切だ!」とカスパーに信仰を押し付けようとする牧師が登場したりする。

その直後のシーン「賢いリンゴ」はエデンの園の話を踏まえた皮肉のように思われるし、「聖歌が恐ろしい叫びに聞こえた」とカスパーが

言うシーンも存在する。何よりもJeder für sich und Gott gegen alleという原題がそもそも宗教批判ではないか。

とはいえ批判を投げかけるだけではない。人間という存在とは一体何か、自分自身の問題として考えてみよというのが監督である

ヘルツォークの問題提起であろう。ラスト近く、カスパーが水面に自らを映し、水面を波立たせることで水面に映った自身の姿を揺らす

シーンはそのことを表しているのではないだろうか。それにしても、異質なものに対する人間の醜さは凄まじいものがある。

見世物小屋のシーンで世界四大神秘なるものを見に来る観客は、次第に身を乗り出して好奇と侮蔑の眼差しを注ぐ。

(注:見世物にされる4人には共通点がある。それは言葉から疎外されているということだ。 一人目のプント王国の王様なる人物は、

そもそも話す機会を与えられない。 二人目の穴(ドン・ジョヴァンニが最後に落ちる地獄の事か)に思いを馳せるモ少年は読み書きを

覚えられなかった。 三人目の笛を吹く男は先住民の言葉以外話せないうえ、先住民の言語を観客の目の前で話すよう強制され実際

に発話する事で、言葉からの疎外を一層明らかにする。 四人目のカスパーは言うまでもなく言語を自由に操ることができない。)

調書を取る人物は、終始一貫してカスパーを記述できる形に収めようとし、解剖を経ては

「ハウザーに異常が発見された、ついにあの奇妙な人間に証明がついた、これ以上見事な解明はない」

と言って喜んで帰路に着く。彼らだけでは無く、カスパーを取り巻く人物は、どんなにカスパーを大切に思っているように見えても、

ふとした拍子にカスパーとの距離を見せてしまうことになる。例えば、

 

 1.言葉を教える子供ユリウス・・・救貧事業に取り組んだカエサル(=ユリウス)と同名なのがまず面白い。女の子が歌を教えるとき、

彼は窓際の高い所からカスパーと少女(とカメラ)を見下ろして、「単語しか知らないから歌はまだ無理だよ。」と切り捨てる。

 

 2.ダウマー・・・いつもカスパーを大切にしているように見えるが、全面的にカスパーを大切にしているのではない。

早世した若者たちの名前を読み上げるシーンで彼が単なる慈善家であることがわかる。決定的なのはラスト近く、カスパーが

刺されて血みどろでやってくるシーンでの彼の行動だ。彼は手に持っていた本を開けたまま閉じようとも置こうともしない。

では、本を置くのはいつか?それはカスパーを、襲われた現場のベンチにもたせかけた時だ。ダウマーはここで、カスパーを

支えるためではなく、ただポーチを拾い上げるためにようやく本を置くのだ。そして、カスパーが血まみれでいるにもかかわらず、

ダウマーはこう言う。 「まず包みをみてみなきゃな。」

 

【2】音楽

さて、次に本映画における音楽に少しばかり考察を加えてみたい。この映画では、音楽がとても印象的に使われるだけではなく、

ストーリー的にも重要な意味を持つ。たとえば、カスパーは貴族に紹介されるシーンで「音楽は我々を道徳的に高めるとともに人格形成

に役立つ」と言われたことを受けて、モーツァルトのへ長調ワルツを弾く。音をはずし、リズムもアクセントもめちゃくちゃに。

このめちゃくちゃなモーツァルトの演奏は、カスパーの人格形成が周囲の期待したようなものでは無い事を表象する。

最も印象的なのはやはり、映画のはじまりと終わりで流れるモーツァルト「魔笛」中の「なんと美しい絵姿」のアリアだろう。

なぜ、この変ホ長調のアリアがここで使われているのか。このアリアの歌詞を見る事でその理由が明らかになる。

オープニングで流れる歌詞は、このアリアの最初、すなわち Dies Bildnis ist bezaubernd schonから始まり、

Wie noch kein Auge je geseh’n! Ich fuhl’ es, wie dies Gotterbild. Mein Herz mit neuer Regung fullt.までである。

映画の終わりではこの次の歌詞からアリアが歌いだされる。つまり、 Diess Etwas kann ich zwar nicht nennen! から始まり、

Doch fuhl’ ichs hier wie Feuer brennen. Soll die Empfindung Liebe seyn? Ja, ja! [...]

La jeunesse, c'est la passion pour l'inutile.(Jean Giono)

 

 しばらく映画の紹介や本の紹介が続いたので、日記めいた記事も書いておこうと思う。今日は二限がハンドボール。

前日はピストン/デヴォート『和声法』P.453,454の実習課題(半音階的変異和音の導入)を書いているうちに朝三時ぐらいに

なってしまったうえ、ラジオ講座でドイツ語、フランス語の勉強をしようと早起きしたため、時々眠気に襲われつつ試合に臨んだ。

しかし、試合が素晴らしい内容(みんなの動きが本当に良かった。パス回しもサイドの使い方も。)になったため、自然と目が覚めて

ゴールを守ることに集中。サイドからのシュートを防ぐポジショニングを見つけ、シュート一本のみに抑えて勝利したので、

かなり充足感を味わうことが出来た。最初の授業で気分が良くなると一日幸せになれる気がする。

 

 三限は英語二列。前回訳を当てられたのでしばらく回ってくることはないだろう、と踏んで、授業を聴きつつ

購入したばかりの隈研吾『反オブジェクト  建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫,2009)を読みまくる。またレビューはあげるが、

目次だけ見ても相当面白い本である。表紙の装丁に使われた写真はどこかマグリットの絵を思い起こさせる。

 

 四限は表象文化論。この学会に所属している身として毎回真剣に聞いている。この講義ではバレエやコンテンポラリーダンスを

切り口にして、精神分析や身体論に射程を広げた内容が話されている。毎回予定とは違う方向に脱線しているようだが、

脱線していく方向が面白くて(今日は「薔薇の精」からセクシュアリティの話に広がった。)そのアドリブを楽しんでいる。

バレエを見ていると、カルロス・クライバーの指揮姿がバレエの動きに極めて近い事に毎回気づく。レポートのテーマにしてみたい。

 

 授業終了後、勁草書房のフェアを自分への言い訳にして、ずっと欲しかった『生命科学の近現代史』を生協で購入。

そののちイタリアン・トマトにて三時間ほどドイツ語をやった。フランス語ばかりやっていると、中性名詞に違和感を感じる。

je(ドイツ語では「イェ」と読む)を文中で見つけても「ジュ」(フランス語の「私=I」に相当する)としか読めない体になってしまった。

早急にドイツ語に頭を戻すべく、6月はドイツ語自主インテンシブ期間に決めた。どこまで続くか分からないが。

 

 ひとしきり勉強すると体を動かしたくなるので、いつものように経堂ボウルへ練習に出かける。今日はフォーム自体に大きな問題は

無かったように思うが、ライン取りに迷ってしまった。ソラリスで狭く攻めようとすると珍しくタップの嵐。ならばとブラックパールで

大きく出して戻すラインを選択すると、鋭くキレて裏側へ。ラインの引き出しは結構ある方だと思うので色々試してみたのだが

どれもしっくり来ない。今はストライクになったけど次は残りそうな不安感が消えないピンアクションが多くて悩まされた。

結局、縦回転メインにしてソラリスを5枚目まっすぐでスピード上げて投げるラインがベストだったようだ。レフティの王道ラインである。

スコアは最後まで200前後をうろうろしてビッグゲームに繋がらなかったが、今日はビッグフォーをカバー出来たのでそれで満足

することにしよう。明日朝一の基礎演習TAもどきに備えてそろそろ寝なければ。今日も実り多い一日だった。

 

「その他」であるということ

 

 周りから見ていると分からないかもしれないが、進振りが迫ってきたいま、僕は真剣に進路を悩んでいる。

やりたいことが多すぎる。ずっと前から分かってはいたことだが、おそらく進振りの直前まで悩み続けることになるのだろう。

 

 だが、誤解を恐れず言ってしまえば、どこの学部に行くかというのは大した問題ではないと思っている。

「東大なんたら学科卒」という看板を外しても、社会でしっかりと生きれるような人間になりたい。

校内を歩いていると目に入る、ドリームネットというサークルが主催している交流会のポスター、自分-東大=?というキャッチコピー。

もう少し目立つようにデザインすればいいのに、と残念になるぐらい、このコピーは重要な意味を持つものだと思う。

自分から東大という名前を取ったときに何が残るか。今、たとえばここで突然東大が消滅し、自らの所属が無になるような状況が

生まれたとき、自分は何を拠り所にして生きるか。

大学という所属を持っていると、所属しているというだけで安心感が生まれる。

そして、次第にそれに依拠してしまいがちである。(五月病なんてのもその一種だと考えられるかもしれない。)

 

 予備校に所属する事もなく、自習室を借りて二浪していた時、とても貴重な経験をした。

どこにも属していなかったから、何かの証明書に記入する時には、高校生でも大学生でも社会人でも学生でもない

「その他」に丸をつけることになる。この恐怖といったら!!

宙ぶらりんの恐ろしさ、当り前のように踏んでいた足場を外されたときの言葉にしがたい恐怖。

自分は何者でもない。学んでいるわけでも働いているわけでもない単なる「その他」である。

だが、「その他」でしかないのか、と気づいたとき、「最強のその他」になろう、という目標が生まれた。

失うものは何もない。どこかを除籍されることもなければ、呼び出されることもない。誰にも何にも所属しない中でも自信を持って

自己を確立できるように、どこにも属さない貴重な時間を使って出来る限りのことをしなければならない。

ひとまず大学に所属するようになった今でも、その気持ちは変わっていない。

どこに進学するにせよ、究極的には東大が突然あした消滅したとしても、社会で逞しく生きていける人間になりたい。

 

 

数か月後の進振りで些末な事象に拘泥して道を見失ってしまわないよう、数か月後の自分に向けて書いておいた。

マスクと視線の生政治

 

 今日は法Ⅰが休講になったので出席すべき授業がほとんど無くなった。

家で一日ゆっくりしていようかと思ったが、宇宙科学のレポートを返却してもらう必要があるのを思い出して学校へ行く。

帰ってきた宇宙科学のレポートはA++で、妙に満足感を味わった。

 

 休講、と書いて思い出したが、関西では休講及び休校が相次いでいると言う。原因はもちろん豚インフルエンザの流行だ。

(個人的に豚インフルをTONFULと呼んでいる。TOEFULと掛かっている感じが気に入っている。草食系男子、などという無理やりな

ネーミングよりもよっぽどいい名前ではないかと思うのだが、いかがでしょう。)

僕の母校もどうやらしばらく休校になった様子。休校になった高校生たちがカラオケに殺到して大行列、などというニュースを

耳にしたが、自分も休校になったらついつい遊びに出たくなるような気がして、あまり批判できたものではない。

さらに、この未曽有のTONFUL事件に対応して、マスクの売り上げが前代未聞なことになっていると聞く。

ヤフオクで10倍ぐらいの値段で取引されているそうだ。値段の跳ね上がり方にもビックリしてしまうが、そもそもオークションで

マスクを買う、という行いが為されていること自体驚きである。

大学でいくつかの授業を受けている限りで言えば、教授たちは今回のTONFUL騒動に懐疑的というか「メディアが騒ぎすぎ。」

という意見を持っていらっしゃる方が多いように感じている。病理学の知識が無い僕にはTONFULの実際の危険性が分からないので

果たしてメディアが騒ぎすぎなのかどうかは何とも言えないが、この機会にちょっとばかりこの事件について考察を加えてみたい。

 

 それは、今回のTONFUL事件は、まさにフーコー的な視点で分析してみる価値のある事件ではないか、ということだ。

少し前に『チフスのメアリー』という本を紹介したが、TONFUL事件はこの本で描かれていることと極めて近い状況にあるようにも思われる。

TONFULが発病している関西でマスクをしている人たちは

「マスクをしても防げないのは分かっている。でもマスクをしていないと他人から嫌な目で見られるからマスクをしている。」

と話しているらしい。つまり、菌を避けるのではなく、他者からの視線を回避するためにマスクを着用しているのである。

「自分が保菌しているか分からんけど、何にせよとりあえず他人に移さないように努力しています。」

ということを表象しようとしているのだ。(断わっておくが、マスクをつけるべきだという論調を非難している訳ではない。)

このように他者からの視線によって埋まれる「権力」、それはまさにフーコー的な「権力」の図式の最たる例ではないか。

フーコーが述べた権力の図式とは、La Volonté de Savoir 知への意思 によれば、

 

1.権力は無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能する。

  揺れ動く諸関係の中でそのつど創り出されるものである。

 

2.権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出している諸関係の外にあるものではなく、

    そうした諸関係の中に創り出されている。あらゆる社会現象の中に権力関係が存在するのである。

 

3.権力は下部からくる。支配するもの、されるものという古典的二項図式は否定される。社会の基盤にある家族や社会、

    サークルなどの小集団のなかで生み出される力の関係が、全体を統括する権力関係の基礎となる。

4.権力をふるうのは特定の個人でも組織でもない。あくまでも諸関係の中で、その作用によって権力が行使される。

 

といったものである。

マスクをつけていない人に対して冷ややかな目を注ぎ、マスクをつけろよ、という視線の暴力で

個人の自由( 「マスクなんかつけなくてもいいのでは」 )を侵犯する。

それはまさに、上からの権力ではなく、集団の中で生み出された権力、生政治bio-politiqueではないだろうか。

 

 などと考えつつ、五月祭の模擬店の前売り券を作成した。前売り券はその場で使い捨てるようなものなので

デザインに凝る必要はないのだが、ついつい凝ってしまった。安田講堂前の大通りでやってるので皆さん是非来て下さい。

もしかしたら五月祭自体がTONFUL事件で中止になってしまうかもしれませんが。

なお、本日は山川出版社の『新体系日本史2  法社会史』と福島章『子どもの脳が危ない』(PHP新書,2000年)を読了。

詳しいレビューは、ゼミのページにある、『僕らはこんな本を読んでいる』企画の中に書こうと思っている。

アイデアが湧くのをひたすら待ちつつ、色々読む。

 

 昨夜からずっと、五月祭でクラスが出す模擬店の看板デザインを考えている。

以前Fresh Start用の立看板を作ったときにも感じたことだが、ディスプレイよりも遥かに形状が大きく、そして横長のものを作ろうと

するとイメージがなかなか湧かない。バランスなどを想像しづらいのである。

それだけではなく、今回は店名が非常に難しい。「焼き鳥屋 とぅるてるたうべ」と言うのだが、この「とぅるてるたうべ」という文字が

曲線だらけで、なかなかスタイリッシュにならない。カッコよく背景を作ったとしてもその上に「とぅるてる・・・」と載せると、どうしても

脱力感に襲われてしまう。かといって、曲線を生かした可愛らしいデザインにして、ついでに端に鳥のイラストでも載せようもんなら

「焼き鳥」の字と相まって、「・・・この鳥が今から焼かれるのか。」 と妙に生々しくなってしまう。どことなく吉田戦車っぽいシュールさ。

これは困った。いっそレトロな感じにしてみようかなあ・・・。

 

 看板の締切が迫っているので詳しく内容を書く余裕が無いが、とりあえず 『古代天皇制を考える』(講談社,2001)と、

唯川恵『ベター・ハーフ』(集英社文庫,2005) 、それから『国家史』(山川出版社,2006)を読了。この三冊を並べて書くと変な感じだ。

『国家史』の第二章で「陣定」について、「注意すべきなのは下位の人から順に全員が意見を述べる慣行である。上位の高次の権力を

もつ人から発言したとすれば、下位の者は当然それに影響されるだろう。下位の参議から順に全員が判断を述べ最後に大臣が発言

する形式は、民主的な会議の運営方式であり、公卿各人の自主判断を重んじる方式である。」との一文がとても印象深かった。

 

なお、昨日の金森ゼミでネグリの生政治論について学んだことから、三年前に読んでイマイチ理解できなかった

『帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社,2003)を再読しはじめた。

一年の間にフーコーとドゥルーズを集中的に読んだことで、浪人中よりはこの本を理解できるようになった気がしている。

 

 

風と陽射しの一日。 『王権を考える』(編:大津透 山川出版社 2006年)

 

今日は風がとても気持ちいい陽気だった。ただ、夕方ぐらいからちょっと風が強すぎるて自転車を漕ぐのに一苦労。

「坂道+向かい風+空気抜けたタイヤ」という奇跡のコラボレーションが出来上がってしまい、電車で行けば良かったとちょっと後悔。

 

 まず二限がハンドボール。ハンドボールは今学期から始めたのだが、なかなか面白い。

キーパーの動き方にもかなり慣れてきた。最初はサッカーでGKをやっていた時と同じ動きで動いていたのだが、

それでは不十分な対応しかできない。下からボールが浮いてくることの多いサッカーでは、ボールが上に浮いてくる力を流すように

して手のひらや指先に乗せればゴールの外に持って行ける。しかし、ハンドボールではそうにはいかない。

身長と手の長さに加えてジャンプが加わるから、自分の頭の上からボールが叩きつけられるようにしてシュートが来る。

サイドに流すことは可能なのだが、それは角度のついたシュートを処理するときにしか通用しない。上から来るシュートに対しては

自分の体に当ててはじく方法しか無いんじゃないだろうか。だからこそポジショニングが重要になってくる。幸いにしてサッカーよりも

ゴールが圧倒的に狭いから、シュートコースを切るポジショニングが比較的やりやすい。どこに立つか、をもっと意識して掴もうと思う。

 

 三限は英語二列。大して面白くはない。必修の授業とはそういうものだ。

四限は比較芸術の授業で、駒場美術館へ。矢内原忠雄の特設展を見たり、秘蔵の展覧会カタログ所蔵室に入らせてもらったり。

カタログ所蔵室はなかなか面白かったが、以前に国立新美術館のカタログ所蔵室に入らせてもらった経験があるため、

量・内容ともにやや物足りなかった。もちろん、大学の中に4000冊ものカタログが所蔵された場所があるのは凄い事だと思うのだが。

 

 授業終了後、テラスのベンチで五月祭で出す模擬店の看板デザインをラフスケッチする。

何個か案が浮かんだがどれも実現にとても手間のかかるものばかりだ。普通でいいのに、よく分からないコダワリが邪魔をする。

 

なお、本日は『王権を考える 前近代日本の天皇と権力』(編集:大津透 山川出版社 2006年) を読了。

2005年11月に開かれた史学会シンポジウムの内容を纏めたもの。様々な時代を対象に「王権」「権力」などをテーマに分析が

為されている。少し前に退官された五味文彦先生の東西王権論(今回は殆ど東の王権に関する議論だが)も読めて面白い。

なぜこのような本を読んだかと言うと、日本史の本を定期的に読むようにしていることに加え、先日紹介したマルク・ブロックの

『王の奇跡』を読んでいて、日本の王権はどうだったのか知りたくなったというのが主な理由である。

日本史を紐解いて王権を考えることは、必然的に天皇制について考えることに繋がるはずだ。

というわけで講談社の『古代天皇制を考える 日本の歴史8』も併せて手元に置くことにした。

これを読むために、長い夜を覚悟してミントジュレップを作る。

ミントジュレップは五月初旬に開かれるケンタッキー・ダービーの名物カクテルで、ミントの葉をソーダーとシュガーシロップを混ぜた中で

潰しておき、それをクラッシュドアイスを一杯に詰めたグラスにバーボンウイスキーと一緒に注いで作るカクテルである。

単純だが、とても美味しい。夏を感じる日差しになると飲みたくなる。とはいってもいちいちミントの葉を調達してなんかいられないので、

今回は既成のミントジュレップを使用した。ベースはアーリータイムズである。これを氷を入れたグラスに注いでステアするだけ。

ミントジュレップ、即席バージョン。とても美味しい。度数もそれなりに高いので、夜中の目覚ましにもなる。

 先述の本は中々読むのに難儀しそうだが、このお酒と一緒なら良い気分で読めるだろう。

 

下の画像はちょっと前に頂いた百合。つぼみだったものが綺麗に咲いた。

部屋の中が百合の良い香りで満たされていて幸せである。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。

夏日、それからプロとの試合

 

 今日はとても暑かった。

ニ限のソフトボールをやっている間なんて、もう夏が来たんではないかと思ってしまう暑さだった。

怪我防止のため長袖のアンダーアーマーを下に着ていたのだが、怪我云々の問題はさておき着たことを後悔した。

みんなの鉄壁の守備と好打によって圧勝したので良いとしよう。やっぱり試合に勝つと素直に嬉しい。

 

 三限の政治Ⅰの時間は機構で仕事という名のもと、かっぱが買ってきてくれたたこ焼きを食しつつ色々ミーティング。

四限の姜尚中の情報メディア伝達論は講義の内容よりも教官のトーク力に感心してしまう。講義というよりは講演会のように流暢で、

ニ階で授業を聴いている僕から見た限り、机の上にさしたる原稿もなさそうだった。原稿なしにあれだけ話せるというのは凄い。

ボイスレコーダーで録音しながら一生懸命ノートを取っている女の子がいた。きっとファンに違いない。

 

 五限は高等動物の比較生物学。前回の授業はイマイチ面白くなかったが、今日はめちゃくちゃ面白かった。

テーマは「天然毒の研究と創薬」で、獣医学専攻の教官による講義。

「毒」はギリシャ語でToxicon、「矢」がギリシャ語でToxonであることから、毒というのは矢に関係したものであったことが分かる。

(ギリシャ語で矢につける毒をToxicosという) このような語源の話から始まり、PoisonとToxinとVenomの違いなどの説明を

導入として、様々な毒を紹介して頂いた。カイメンから色々な毒がとれ、それは有効利用できる毒になるそうなのだが、

カ採れる毒の一つにホスファターゼ阻害剤として応用されるOkadiac acid、すなわちオカダ酸というものがあるらしい。

この名前がやたらツボに入って(分かる人は分かるだろう)、今度あの人に会ったらOkadiac acid先生と呼んでみようと決心した。

キノコから採れる毒としてのムスカリンの話からアセチルコリンやニコチン受容体の話に広がったり、ビンアルカロイドの話から

抗癌剤、さらにはチューブリンの話に拡がったり、全体として「毒」を切り口にして生物の体に迫ろうという意図が感じられた。

声が聞きとり易かったことも手伝ってとても面白く聴かせて頂いた。

 

 授業終了後、急いで帰宅してボールバッグを取って経堂ボウルへ。今日はプロのレッスン&試合である。

レッスンでは、肘を入れるタイミングを一定にする(トップから一気に入れる)ことと、手の傾けによるアクシスローテーションの調整に

関するアドバイスを頂いた。気合が入ると更なる回転を求めて肘入れのタイミングが不安定になりがちであるのは意識していたので、

プロの指摘はこれを意識する上でとても役に立つものだった。プロの的確なアドバイスと練習の成果あって、追い求めてきた投げ方は

かなり完成形に近づいたように思われる。豪快なキックバックを見せてくれるような満足な球も高い頻度で投げられた。

しかしこのあとのプロとの勝負には1勝2敗、トータルで負けてしまった。アベレージは195.3。プロは210ぐらいだったか。

プロが6つストライクを続けてくるところでこちらはダブル‐スペア‐スペア‐ダブルとストライクを続ける事が出来なかったのが痛かった。

支配人さんがギャラリーにいたので、いいところを見せようとついつい力が入ってしまったのかもしれない。ナチュラルに投げねば。

それにしても一度見つけたラインに確実に同じ球を投げ込んでくるプロの技量はやはり凄い。次回こそリベンジしたいと思う。

 

 暑い日が続くだろうがボウリング場はいつも涼しい。強い日差しは無いし、飲み物も自由に飲めるし、座って休憩する事も出来る。

夏には良い競技かもしれないな、などと思いつつ、長谷部恭男『憲法学のフロンティア』(岩波書店、1999)を再読。

長谷部教授の本は新書でも単行本でも難しい事を分かりやすく説明してくれるので愛読している。

(岩波新書『憲法とは何か』や、ちくま新書『憲法と平和を問いなおす』など。他には杉田敦と共著の朝日新書『これが憲法だ!』)

この本では随所に設けられた「プロムナード」のコーナーが楽しい。

もしも法学部に進学することになったら、是非とも長谷部教授の下で勉強してみたい。

というわけで、とりあえずは明日の一限にある法Ⅰの授業に備えて寝ます。

 

益川先生講演会 その2

 

 さて、益川先生の講演会の内容について書くことにしよう。

最初に益川先生の為されたこと、および素粒子論の簡単な説明を東大の教官にしていただいたあと、

益川先生にお話をお願いするという運びであった。壇上にゆっくりと上がられた益川先生を見て、その舞台さばきに感動した。

沈黙、そしてゆっくり話し出す。まず、講演会を開催した関係者各位にお礼を述べられ、そして実際に頭を下げられた。

話の最初に関係者にお礼を言う人はたくさんいても、実際に頭を下げて静かにお礼をされる方を僕は初めて見た。

先生がこの講演で伝えられたことのうち、印象的だったことをいくつか挙げておく。

 

1. 21世紀中、それも前半に、ダイナミックなパラダイムチェンジがもう一度起こるのではないか。

  それは量子重力に関する新しい理論の登場によるものであろう。

 

2. 若い人は間違いを犯す勇気、大胆な説を唱える勇気を持っている。年を取ると安全に走ってしまう。

  新しい理論を大胆に唱えるような研究者は、みな20代から30代の若手の研究者である。

  「秀才の極限としての天才」であるハイゼンベルクも、「誰も認めないような仮説から誰も認めないような理論に達する天才」

  であるランダウも、「包括的に物事を見て定式化する天才」たるディラックも、みな20代から30代までに大きな仕事をしている。

  その意味では、大学生にはあと10年ちょっとしか残されていない。

 

3. 分からないから気になる。これが全てのスタート。研究は一番最初の着想が大事であるが、それを「続けるか/諦めるか」 

  の見極めが難しい。早々と「まずいぞ。」と考えて転身してしまっては、大魚を取り逃すことになる。

  その判断に際しては、共同研究者とのDiscussionが大事である。迷いやズレを正しい道に戻すのは共同研究者だと思う。

 

4. 先生や先輩に教えを乞うのは良いことだが、それでは最小限の知、無難な正解を得るのみだ。

  真に大切なのは、「同じぐらいの知、異なる志向を持つ友人と、一つの問題について夜を徹して話し合うこと」である。

  当初の問題から脱線しても全く構わない。自分とは違う道を歩くはずの友達と、一つの問題を巡って話し合うことで

  より広い視野を持つことが出来る。友達の経験を自身に取り込み、自分の経験を1.5倍ぐらいに拡張し得る。

 

 

 講演会後、レセプションにも参加して、御飯を食べたりお酒を呑んだりしてきた。

赤ワインが結構美味しくてついつい4杯ぐらい飲んだ気がするが、周りも結構呑んでいたのでまあいいだろう。

想像していたより気楽な雰囲気だったので、関西人仲間と一緒になって益川先生に京都トークを振ってみたり、

果ては学部生を代表して益川先生及び居並ぶ駒場の先生方の前でスピーチをしてみたり、貴重な経験をさせていただいた。

ちなみに学部生代表スピーチ(というほどのものではないけれど)は、M君と僕とS君の三人でやったのだが、三人とも全員関西人で

あったことを付け加えておく。こういうときのアドリブ性の高さは関西人の強みかもしれない。単なる「無謀」とも言えるだろうが、

講演会で、「若い人は大胆に走る勇気を持っている」と先生がおっしゃっていたので良いことにしよう。

 

 最後に写真を沢山撮って頂いて解散。 写真に映った益川先生は、とても穏やかな笑顔をされていた。

       

   

裏返しのニット帽とTCK

 

 昨夜、北田暁大「広告の誕生」を読んでいたらいつのまにか4時になってしまった。

三時間寝てNHKラジオのオープニングテーマでいつも通り目覚める。

物凄い雨で外に出る気を失いかけたが、基礎演習のTAもどきをやらねばならないので用意して出発。

久し振りに電車で学校に向かう。車内でニット帽を裏返しに被っているお姉さんを発見。

わざとなのだろうか。「ポリエステル80%」「レーヨン20%」、ニット帽の材質が公に曝されているのだが・・・。

 

 とりあえず今日の基礎演習は面白かった。TCK (Third Culture Kids)についてのプレゼンを聞いたが、とても興味深いものだった。

『越境の声』という越境文学の対談集を最近読んだばかりだったこともあり、リービ英雄や水村美苗など、

越境文学の担い手たちが頭に浮かんだ。(リービ英雄の「星条旗の聞こえない部屋」は東大の現代文でも出題されたことがある)

越境文学の担い手たちの一つの核心は、「母国語でない言語で小説を書く」ことにあると思う。つまり「その言語への違和感」が

作品を書く動機の違和感になっていると言える。文学とTCKの関係について発表者の女性はちらっと触れたが、

TCKというよりは「越境」をキーにして調べていけば面白い研究が沢山見つかるのではないだろうか。とはいえ、

質疑応答でも述べられたように、TCKという区分は「誰にとってTCKなのか」という認識の問題を含んでいるため、定義が難しい。

昨年の基礎演習でも経験した「用語を定義することの難しさ」を再び味わっている。

 

 基礎演習後、アフター基礎演習のために初年次教育センター(通称:水族館あるいは動物園)へ。

今日のテーマはPowerPointの使い方の実習である。ちょこちょこ一年生にアドバイスしながら、スクリーンを自由に使っていいとの

ことだったのでMotion Dive Tokyoを使って「Power Pointの使い方」という動画をその場で作って映してみた。

それなりにウケたようなのでちょっと満足。Motion Dive は使い方次第で最強のプレゼンソフトになると思う。

昼、機構へ向かう。かっぱがまたもやお茶を淹れてくれる。昨日より味に厚みが出て、さらに美味しくなった。

口に含むと柔らかい苦さを感じ、喉を通るころにはふんわりとした甘さに変化する。かっぱやるなあ。

 

 四限の歴史はマルク・ブロックについての授業だが、ほとんど誰も聞いていない。

マルク・ブロックを自分で読んだり、仏語の勉強の時間に充てている。しかし、今日は一点とても面白い所があった。

ブロックの著書に「王の奇跡」というのがある。大体の骨子を以下に書いてみると、

「王の奇跡」とは、「王に触れてもらうと病気や怪我が治癒する」という俗信の事を指す。

中世において王の権威は不動のものと言う程ではなかったが、この「奇跡」のように呪術的権威は王のみが保持する権威であった。

王は「奇跡」という呪術的権威に依拠することで、人間的な観点ではなく神的な観点からその権威を強化していったのである。

奇跡を行う事が出来る、というのは、「他の一切の権力に優越するだけでなく、全く別個の次元に属する権力」の表れに他ならない。

  

というような感じである。重要なのは、この本を書くに至ったブロックの問題意識だ。彼の問題意識とは、

「王に触ってもらえば病気が治る、などという一見取るに足りない慣習が何故民衆に浸透していったか。」というものだ。

レジスタンスとして最後まで抵抗活動を続けた(最後はドイツ軍に捕まり銃殺刑に終わる)彼のアクチュアリティから考えたとき、

その問題意識は、

「どうしてナチスのような全体主義、一種の〈信仰〉に、民衆が惹きつけられていったか。」というところから来たものだと考えられる。

ブロックはその問題意識を、直接にナチスの全体主義を論考するのではなく、「中世に時代をずらす」ことで明らかにしようとした。

その結実がこの「王の奇跡」なのである。

 

 五限は金森先生のゼミ。今日はハンナ・アレントについて。これに関してはまた記事を改めて書くことにしよう。

なかなか密度の濃い一日だった。

  

 

『病魔という悪の物語』(金森修 ちくまプリマー新書,2006)

  
 実在したチフスキャリア(健康な保菌者)であるメアリーを巡る話。
メアリーが隔離されたのは、彼女がチフスキャリアであったからだけではなく、社会的な背景があった事を説く。
ここにフーコーの議論を重ねたとき、すぐさま生権力論が想起される。
「正常」という状態を作り上げ、個人を「正常」な方向へ生かし、時に「正常でない」個人を排除する力学。
bio-politiqueあるいはbio-pouvoirを説明するための導入には最適な一冊であろう。
著者がゼミの教科書に指定したのも頷ける。

  
 僕は今、この本の筆者である金森先生のゼミに参加している。このゼミ(というより授業に近いが)は本当に良い。
今まで受けた授業の中で最も知的興奮を覚える。ニ時間あまりノンストップで手を動かしたくなる
(「動かさねばならない」、ではない。「動かしたくなる」のだ。)授業は、現実問題として大学においては珍しいだろう。
それは扱う内容が個人的に関心のあるフーコーやアガンベンといった思想家の思想にまつわるからだけではなく、
金森先生の語りが絶妙であるからだ。知識がとめどなく溢れ出す。しかもきちんと論理立っている。

 前回のゼミでは、フーコーの生権力論が応用された例としてナチスにまつわる問題を扱った。
書き始めると凄い量になってしまうから詳しくは別の機会に譲るとして、一つだけ前回の授業で学んだ事を書くにとどめる。
 

 なぜ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たか。それには、虐殺の手法の変化を直視する事が必要である。

 
【当初】
突撃隊EinsatzGlupenにユダヤ人を集めさせ、森の方に連れて行き、先に掘っておいた穴の前に座らせて後頭部を打ちぬく。
そして穴に落とす。この方法で一日300人あまりのユダヤ人を虐殺した。しかし、これはまだ原始的な手法である。

 
【ポーランド侵攻期】
T4(ティーアガルテン四番地)作戦あるいは動物園作戦と呼ばれる手法が取られた。
ポーランドの重度の精神障害者を集めてきて収容する。夜中に患者の就寝している病室に一酸化炭素ガスを充満させて殺す。

ここで「安楽死」という概念が生まれる。つまり、重度の精神障害者は「生きるに値しない命」だと考えられ、生きるに値しない命は
「人道的理由から」奪ってもよいものと考えられた。これがいわゆる「Mercy Killing/Gradentod 慈悲的な殺し」の思想的基盤となる。
 
(1895  Adolf Jost “Das Recht auf den Tod” 「治療し得ない精神障害者は国家によって殺しうる」)
(2001 Adolf Hoche, “Die Freigabe der vernichtung lebensunwerten Lebens”  
直訳では、「生きるに値しない命を殺すということについての解除」。邦訳は「生きるに値しない命とは誰のことか」2001年)

 
ここに至って、ナチスは原始的な手法で殺していた初期と異なり大量殺害のノウハウを獲得するに至る。

 
【ユダヤ人へのT4作戦転用】
T4作戦で用いた手法、すなわち毒ガスを用いた大量殺害の手法をユダヤ人に転用する。
この手法では、「人が人を目の前で撃つ=その手で殺す」という作業が必要ではなくなる。集めて、部屋の外からスイッチを押す。
これは極めて合理的、系統的に殺しを行う手法である。ここに、銃で命を奪っていた頃とは決定的に異なる状況が生まれる。
すなわち、人を「平常心に限りなく近い状態」で殺すことが出来るようになった。極限状態になることなく、平常心に近い状態で殺しを行う。
いわば「事務的」に殺しを行う事が可能になったからこそ、ナチスはあれほどまでのユダヤ人を殺し得たのである。
(これがナチスの行った事で一番許し難い事である、と金森先生はおっしゃった。平常心で殺す状況が生まれたことから、ナチスの中には
「死体から金歯を抜きとる」という行為までが起こる。これが如何に酷い行いであるか。人を人とは見ていない!)
 
 
 他には
「ナチスに医者があれほどまでに協力したのは何故か。」
「ナチスの健康論とは何か。(決してナチスの時期は知的停滞期ではなかった。)
「ナチスの〈血〉と〈水〉に根ざした大地の思想と肉食への敵意の関連はどこにあるか」
「人種衛生学Rassenhygieneとは何なのか」などを学んだ。
近日中に理解したところを纏めてみたい。昨年より精読を続けている佐々木中 『夜戦と永遠』(以文社、2008)と合わせて、
フーコーに関する知識と理解をニ年の間に小論として組み立てる事が出来れば、と考えている。