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明けましておめでとうございます。

 

お久しぶりです、そしてあけましておめでとうございます。

ドイツ・フランス・ベルギー・ルクセンブルク・ヴェトナムを旅して、音楽と語学と国際政治の勉強を目一杯して、無事に帰ってまいりました。

本当はもっともっと早くに帰って来ていたのですが、ゆっくりと文章を書く時間が取れなかったこともあり、更新はTwitterだけになって

おりました。大学の友人から「親がブログの更新を楽しみにしているのですが…。」という嬉しいメールを頂いたので、

またこちらも更新していこうと思います。

 

11月から今年の1月に至るまで数えきれないくらい沢山のことがあったので、一つ一つ記事を改めて書いていきます。

こんなことを書くつもりです。

・ヨーロッパ滞在記

・東京大学×南京大学のウェルカム・パーティで指揮したこと

・銀座のBVLGARIで指揮させて頂いたこと

・昨年夏に設立したクリエイティブ・チーム「ドミナント」で忘年会&演奏会をしたこと

・所属する立花隆ゼミナールで文藝春秋から『二十歳の君へ』という書籍を出版したこと

・週刊読書人でウェブ・デザインと書評のお仕事をさせて頂くようになったこと

・今年の五月に、プロのオーケストラを振る機会を得たこと

 

などなど。日付などは適当にいじっているので、気にせずお読みください。

 

フランス・ドイツへ行ってきます。

 

長らく更新が滞ってしまいました。ちゃんと生きています。

いきなりですが、本日より三週間ほどフランスとドイツへ行ってきます。フランスでは語学と音楽をちょっとだけ勉強しつつ、パリをぐるぐる。

さきほど(直前までホテルをとらなかったので、現地へ直接電話して空き室確認などする羽目になりました。かなり大変でした。)ホテルが

決まり、ムーラン・ルージュの近くに泊ることにしました。パリを巡ったり、パリにいる友達と演奏したりと充実した時間になりそうです。

 

ドイツでは、ヨーロッパの財団主催の国際セミナーに参加してきます。というのは、運良く、東京大学大学院の修士課程を

主な対象とした “The European Union under the Lisbon Treaty: Past Experiences and Future Challenges” という

2010年度の派遣プログラムに選抜して頂きました。見て頂ければ分かるように、このプログラムは「欧州研究」それも社会科学的な

性格の強いものなので、人文科学を主なフィールドにしている僕にとっては、少し慣れない部分の多い領域になることと思います。

僕以外の参加メンバーの所属を見てみますと公共政策の大学院や国際関係論専攻の院生の方々が多い様子。

自己紹介タイムで「フランス現代思想や生命倫理が主な興味です。」とはちょっと言いづらいかもしれませんね(笑)

 

ともあれ、選抜して頂き、しかもEuropean Fall Academyという財団から約30万円もの支給を頂いたからには、出来る限りのことは

やらなければなりません。プログラムとしては、今年の冬に参加してきた「〈身体論〉南京大学特別講義」と同じように、各国の

学生たちと共に講義を聞き、ディスカッションなどしてくることになるでしょう。EUの機関へのショート・トリップもプログラムに組まれて

いますので、座学だけでなく、自分の足を使って色々と見聞を深める機会になりそうです。

もちろん全て英語なので大変ではありますが、学部三年の時点で、しかも人文・社会の両方の分野で海外へと派遣して頂けるのは

本当に嬉しい限り。精一杯やってきます。

 

三週間ほど音信が途絶えることと思いますが、パリにはWi-Fiが飛び交っているようですしiPadとVaio-Pは持っていきますので

パソコンのメールチェックやTwitterの@チェック、スカイプなどは出来るはず。御用の方は携帯ではなくこちらの方へ連絡を

入れておいてください。よろしくお願いします。

では、行ってきます!

 

 

「こまば夏の音楽祭 -口笛・ピアノ・オーケストラ」

 

2010.8.10(火)、東京大学駒場キャンパスで行われます「夏の音楽祭」で指揮することになりました。

詳細は以下のポスター(僕が主宰している「ドミナント」というデザインチームの後輩、伏見くんが作ってくれました。ありがとう!)

をご参照下さい。口笛の世界大会優勝者と藝大院のピアニストという、とても豪華なゲストを招いての音楽祭、

全身全霊を込めて指揮します。どうぞお楽しみに!

 

「こまば夏の音楽祭2010」

 

 

3日で10000Hit

 

昨日掲載した、「花火の後に。」という掌編が、ものすごい勢いでページビューされているそうで、びっくりしています。

Twitterの方に書いて纏められたもの http://togetter.com/li/37528 が、3日ちょっとで10000ヒットを突破しました。

筋は単純だし、よくある展開と言えばその通りなのですが、これだけのアクセスがあるというのは何か人の心に触れる部分が

あったのかもしれません。おそらくそれは、この掌編が、Twitterという短い枠内での表現だったことにあるのではないかと思います。

短い文字数で書かれた文章は、人にどのような印象を与えるか。それは第一に読みやすさであり、簡潔さであり、歯切れの良さでしょう。

一方で、短い文字数だと冗長な形容や描写を避けざるを得ないので、自然と表現が切り詰められてきます。

 

僕は小学校の頃から作文や小説、エッセイなどを書いてきましたし、物書きという職業にも漠然と憧れを抱き続けてきましたが、

140字を積み重ねてこのような掌編を書いたのはこれが初めてでした。140字はとても短いように思えるし、事実短いのですが、

いざ書いて見ると、結構な情報量を詰め込むことが出来ます。書きながらふと、東大の入試問題を解いている時を思い出しました。

140字。東大の解答欄、とくに歴史系では5行足らずの文字数で、ちょうど世界史の中論述や日本史の論述問題に多く見られる

文字数なのです。余計な事を書いているとあっという間に字数がオーバーしてしまいます。つまり、狭い枠の中に必要なことを簡潔に

盛り込んで述べる必要があり、また、表現を変えたり句読点や漢字変換を工夫したり、「削る」技術を活用せねばならないという点では、

Twitterで記述することとと東大現代文や世界史・日本史を解くことの間には、共通した感覚があると言えるかもしれません。

 

今回の一万ヒットオーバーはとても驚きでしたが、「これからも文章を書いて何かを発信して行こう。」と思える、

とても良い刺激になりました。お読み頂いた方々、ありがとうございます。

短い言葉とセンテンスを積み重ねつつ、それでいて息の長いフレーズ。スピード感と浸透力。

読んだ都度、映像に変換されていくような文章。練りに練った言葉のデッサン。

拙いながら、そういう文章をこれからも書いてゆきたいと思います。

花火の夜に。

 

Twitterでまとめて呟いたところ、異常に評判が良かったのでブログにも掲載します。Twitterに載せたままの文体は「とぅぎゃったー」

というものでゼミ生の後輩(伏見くん)が http://togetter.com/li/37528 に纏めてくれたので、ここにはブログ用にやや手を加えて

掲載しておくことにします。ある花火大会の夜、指揮法のレッスンの帰りに起こった出来事でした。

・・・・・・・・・・

 

混雑した車内、僕の前に浴衣の若い女性が立った。なぜか目の周りのメイクが崩れている。

泣いた後なのだろうか、疲れ切っているように見えた。大変だな、と思って席を譲るつもりで立ち上がる。女性は一瞬驚いた表情を向け、

「ありがとうございます。」と小さくお辞儀してくれた。少しは楽になるだろうか、と安堵したその瞬間、横からおっさんが割り込んで

席にどっかりとお座りになる。これには真剣に殺意が湧いた。ちょうどレッスン帰りでタクトを持っていたので、

「このおっさん指揮棒で刺したろか・・・。」と思ったぐらいである。(なんとか辛抱して目線で鋭く刺すに留めておいた。)

 

とはいえ、困るのはこの状況だ。立ちあがった僕には居場所がない。そして、座ろうとした浴衣の女性も所在ない。

困ったなあ、と女性と眼を合わせて苦笑する。真横かつ至近距離で黙っているのもお互い何となく居心地が悪くて、若干慌てつつ

「花火ですか。」と話しかけてみることにした。冷静に考えてみればアホな質問だ。浴衣で花火でなくて何だと言うのか。

これで「ええ、ちょっとルミネへ買い物に。」とか、「試着室で試着したまま帰ってきました。」だったら、びっくりである。

 

もちろんそんな予想外の展開ではなく、やはり花火大会帰りとのことである。

どうやら新宿まで一緒の様子だったので、車内で、それから乗り換えに歩きつつ、その人としばらく話すことになった。

彼女はずいぶん大人っぽく見えたが大学一年生だった。聞けば、好きな人と一緒に花火へ行って告白したけど駄目だったらしい。

 

「好きじゃないなら花火なんて誘わなきゃいいのに。そう思いませんか?」と彼女が僕を見上げて、言う。

その真剣な眼差しと、否定を許さない厳しさを持った口調に対して何も言えなくて、「うん・・・まあ。」と曖昧な言葉を返した。

生返事をしながら、見上げる顔を横目で見て、「結構泣いたんだな・・・。」と思う。多分、ほんとにその男の子のことが好きだったんだろう。

新宿駅の雑踏。華やかな浴衣姿と笑顔ばかり目に入ってくるが、悲しい気持ちで浴衣を着て、こうして帰路に着く人もいるのだ。

 

華やかな浴衣を着て、光の当たらない場所でひとり泣くのはどんな気持ちなのだろう。

もしかしたら花火大会の途中で帰ってきたのかもしれない。闇に描かれるカラフルな明滅に背を向けて、ドン・ドンと低く身体の中にまで

響き渡る音を後ろに聞きながら、花火のことを考えないで済む場所まで走って逃げる。

だが、走ることは、自分が花火大会に来ていたことを逆に思い起こさせてしまう。

履き慣れない下駄、着慣れない浴衣。走ろうとすればするほど、浴衣が、花火が邪魔をする・・・。

そんなことを想像するだけでとても寂しい気持ちになる。だが、こういう時にはどんな言葉をかけてあげたらいいか僕には分からなくて、

初対面なのにとめどなく話す彼女に、ただ相槌を打ち続けた。

 

あっという間に改札が近づいてくる。ここでお別れだ。僕は左に、彼女は右へ。

「気をつけてね。」と声をかけると、一生懸命に作ったような笑顔で、「喋ってばっかりでごめんなさい。でも、ありがとうございました。」と

丁寧にお辞儀をする。お辞儀の拍子に彼女の小さな頭の向こう側がふと見える。ころころと揺れるガラス玉のついた髪止めが

外れそうになっていることに僕は気付く。だが、今の僕にはそれを直してあげることはできないし、する必要もたぶんないだろう。

 

「じゃあ、さようなら。」

そう告げて別れようとした瞬間、彼女はすっと顔を上げ、泣いた跡の残る明るい笑顔でこう言った。

「あの・・・あたし、今日やっぱり五反田の友達んち泊まります!愚痴り足りないから!」

唖然とする僕に踵を返し、そうして彼女は再び山手線のホームへと向かう。

 

夏の雑踏に浴衣姿が溶けて ゆく。

女は、強い。

 

 

 

『カルメン』@新国立劇場

 

今月はカルメンを観てきました。

カルメンを知らない人は多分いないはず。あの「闘牛士の歌」を始め、どこかで一度は聞いたことがある音楽が全編に溢れています。

シナリオ的には典型的なファム・ファタル(運命の女)系のものであり、「愛 L’amour 」と「自由 La liberté」の二点を巡って

二人の男(ホセとエスカミニョーラ)と二人の女(カルメンとミカエラ)の交差する感情を描いた悲劇だといえるでしょう。

 

はじめてオペラを観に行く方にもおすすめできる分かりやすいシナリオ。そして、そこにつけられたビゼーの曲が本当に天才的なのです。

指揮者見習いとしては、いつか指揮してみたい!と思うオペラの一つ。明るいメロディにも明るさだけでなくどこか官能的な艶があり、

その一方で金管楽器の ff などは破滅的なものを予感させます。一幕の最初、弦がトレモロで入ってきてバスが「ボン・ボン!」と

低音の楔を打ち込むあたりはいつまでも忘れられない音楽ですし、二幕の最後、La liberté ! と何度も歌われる場面は本当に

何度聞いても素敵だなあと感じます。また、フルート吹きとしては三幕の前奏曲のソロも外せないところ。

挙げるとキリがありませんので全ては書きませんが、フルスコアも取り寄せて、とにかく相当に読みこんでから実演に臨みました。

 

今回はゼミ生およびフランス科の友達、私的な友達などに何人も声をかけていたので、十人ぐらいで一緒に会場へ。

アカデミックプランの恩恵を受けて今回もS席で鑑賞させてもらいました。照明が落ちて、あの前奏曲がどんなテンポで流れてくるのか

楽しみにしながら、スコアを頭に思い浮かべます。そしてやや間をとって始まった前奏曲。

・・・うーん、正直言ってイマイチです。早すぎる。カルロス・クライバーの演奏のようにゾクゾクするスリル満点の早さではなく、

ムラヴィンスキーのようにキレ味の良い早さでもなく、テンポがただ前のめりに早いだけで、しかも指揮が直線的すぎ&脱力が不十分

ゆえに、フレーズの語尾が窮屈になっていてなんとも聴きづらい。残響が次のフレーズに被さってしまっているし、休符の間にも

緊張感がない。そんなふうにとても平坦な演奏で、特に管楽器の方々は歌いづらそうにされていたこともあり、「これは大丈夫だろうか」と

かなり不安を覚えてしまいました。

 

残念ながら、一幕の子供たちの合唱(Chorus of Street Boys)では、音楽をやっていない人でも気付くほどオケと合唱がずれてしまい

ヒヤっとしましたし、工女たちの合唱(Chorus of Cigarette Girls)では、オケが歌に合わせるのが精いっぱいという感じで、La fumée

というフランス語ならではの響きを生かした空気感のある掛け合いは、あまり感じ取れませんでした。(合唱自体は結構良かったのに)

Allegro moderatoになってカルメンが入ってくるところの弦のffも平坦なffで、「カルメンがやったんだわ!」という緊迫感や切迫感、もっと

言えば狂気のようなものが一切伝わってこない。指揮者はこの部分に思い入れがないのではないか、どんどん進めて行きたいだけでは

ないのか、と首をかしげたくなります。(もちろんそんなことは無いと思いますが・・・。)カルメンの一幕での聞かせどころであるハバネラも

細かいテンポの揺らしがかえって不自然で、音色もついていっておらず、率直に言ってあまり面白くない演奏でした。面白くない、

というよりはむしろ違和感が残るといった方が正しいかもしれません。カルメンはねっとり歌おうとするのにオケの方はさっさと行こうと

するから、ぎくしゃくした感じが終始抜けていなかったように感じます。

 

一幕はそんなふうに、やや残念な演奏が全体として目立ちました。

指揮を学んでいると、指揮者の動きや振りひとつひとつが演奏者に与える効果がある程度分かります。

今回の指揮者は明らかに振り過ぎていました。緩やかで美しいフレーズを直線的な叩きや跳ね上げで振っていては、美しい音は

出るべくもありません。跳ね上げた時に手首をぐにゃぐにゃさせて調整しようとしていましたが、そんなことをやっても楽器は歌えない。

かえって分かりづらくなるだけです。指揮がいかに大切か、ということを目の当たりにさせて頂き、いい勉強になったと思っています。

 

ともあれ、ニ幕中盤~三幕になるとだいぶん落ち着いてきて、要所要所で迫力が出てきた感じを受けました。

今回いちばん凄かったのはミカエラ役の浜田理恵さん!ミカエラは立場的に微妙なキャラなのですが、ものすごい存在感を

放つ歌唱を聞かせて下さいました。この時ばかりはオケの音が明らかに変わっていましたね。

一人の演奏が全体の音を一気にがらっと変えてしまうというのは何度も見てもすごい。音だけでなく、会場の温度まで変わるのです。

 

演出はニ幕の薄暗い中に光がまたたくセットは良かったですね。あとカルメンの動きがセクシーすぎてビビりました。

あそこまでやるかという感じ。でもカルメンというファム・ファタルにはあれぐらいで丁度いいのかもしれませんね。楽しませてもらいました。

 

一幕の音楽の他にもう一点だけ残念なことがあって、それは観客の方々の拍手です。幕が閉まり始めたらとりあえず拍手する、という

お客さんが何人かいらっしゃって、余韻がかき消されてしまい、大変残念な思いを何度もしました。とくにラスト。カルメンが死んでホセが

Carmen adorée!と叫んだ後、ffでのTuttiから始まる三小節がホセの人生に、カルメンの人生に、そしてエスカミーリョの愛に

別れを告げて劇的に終わるところ。そのtuttiの部分の一小節前で幕が閉まり始めることもあって、なんとそこで拍手が入ってしまいました。

これはもはやテロです。最後が台無しになってしまいます。お願いだからあそこは我慢してほしかった・・・。

 

何だか僕には珍しく、ネガティブなレビューが多くなってしまいましたが、カルメンというオペラの楽しさを再認識することになりました。

とくに以前見た時はフランス語なんて全く分からない状態だったのですが、フランス科に進学してフランス語に日々接している

(といっても僕はドイツ語⇒フランス科なので、フランス語歴はまだ一年もありません)と、かなりの部分の単語が聴きとれて

嬉しい思いをしました。一緒に行ったフランス科の同期の友達も「けっこう余裕で聞ける。楽しすぎる。」と言っていたので、やはり

語学に触れておくと、こういう時に幸せな思いが出来るのです。連れて行ったゼミの後輩たちも語学へのモチベーションが湧いたことと

思います。みなさんがんばってくださいね。

 

なお、この「一緒にオペラを見に行く会」はこれからも大体毎月開催する予定です。

立花ゼミだけに限らず、フランス科の友達やクラスの友達など、僕の知り合いには積極的に声をかけていきます。みなさん一度オペラに

行くと抵抗が無くなる方が多いようなので、まず誰かに誘われて足を運んでみるのが大切だろうと思いますし、違うコミュニティ・学年の人

たちが顔を合わせるこうした機会は、お互いにとっていい刺激になるはずです。休憩時間にワインを呑みながら、今見たばかりの

カルメンの話を、今日会ったばかりの所属も学年も違う人とする。ちょっと文化的な時間を経験している気がしてきます。

学生割引の恩恵に預かれる間に、これからもみんなで沢山の演目を見に行きましょう!

 

 

Ninaと立花オケ(仮)

 

というイタリア古典歌曲をゼミの後輩が練習していたので、彼のコレペティをピアノでやりながら、時々フルートで参戦したりしてみました。

Ninaという曲は声楽をやる方の中ではとても有名なようで、聞くところによると音大の声楽科の課題曲にもなるらしいです。

歌詞はイタリア語で数行程度。

Tre giorni son che Nina , che Nina ,che Nina in letto se ne sta.

Pifferi, timpani, cembali, svegliate mia Ninetta ,svegliate mia Ninetta

acchio non dorma piu.

sveligate mia Ninetta, svegliate mia Ninetta, acchio non dorma piu.

というものです。「ニーナが布団からもう三日間起きてきません。どうしましょう助けて下さい!」という感じの内容なので、

実は結構深刻な歌詞だったりします。

 

楽譜は簡単ですが、この曲も結構深い!youtubeにあがっているパヴァロッティの演奏を聞いてみると、クレッシェンドのかかる部分

ではややテンポを上げて歌うことで前のめりになる気持ちを表現していますし、Pifferi,~と入るところでは休符を短く取って

畳みかけてきます。パヴァロッティの演奏を参考にして、色々とニュアンスをつけながら練習しているうちに、あっという間に三時間が

経過していました。工夫なしにやってしまうと退屈になるのはどんな曲でも同じで、色々考えて演奏することで見違えるように

曲が生き生きとしてきますね。ちなみに後日、指揮の師匠に少し見てもらったのですが、歌詞の内容を知らないにもかかわらず

師匠が振ったNinaは悲しげで、切々としていて訴えかけてくるような音であり、「どうしてニュアンスが分かるのですか?」と

聞いてみたところ「僕は歌詞を知らないけど、楽譜を見ればそう言ってるよ。」という答えが帰ってきて絶句してしまいました。

プロはやっぱりすごい。

 

それからこれを後輩と二人でやっているうちに、立花ゼミで楽器の出来る人を何人か集めて色々曲をやったら面白いのでは、

という話になったので、超小編成ではありますが、「立花オケ(仮)」を立ち上げる事にしました。ゼミ生で楽器が弾ける方、あるいは

弾きたい方はぜひ一緒にやりましょう。ゼミ生じゃないけど一緒に練習してくれるという心優しい知り合いも歓迎します。

当面の目標は、立花先生の前でお披露目することです!

DIALOG IN THE DARK に引率してきた。

 

このブログの記事の中でも、2009年6月19日に書いたものはアクセス数が常に結構ある。

「DIALOG IN THE DARKに行ってきた。」という記事がそれだ。DIALOG IN THE DARK、つまり見知らぬ人たちとグループを組んで、

視覚障害者の方にアテンドして頂いて完全な暗闇の中で一時間半過ごすイベントであり、それに行ってきた感想を書いたのが

この2009年6月19日の記事である。この記事にアクセスが多いのも当然といえば当然、なんとDialog in the darkとGoogleで検索する

と、驚いたことにオフィシャルホームページに続く順位でヒットする。僕の適当な文章がそんなに沢山の人に読まれているのかと考えると

「文章下手ですみません。」と平身低頭謝りたいぐらいだが、もしもあの記事がDialog in the darkに実際に足を運ぶきっかけに僅かでも

寄与できたならば、それはとても嬉しい事だ。それぐらい僕は、この暗闇のイベントが刺激と意義に満ちたものだと思っている。

 

立花ゼミの後輩たちにもこの衝撃を経験してほしかった。というわけで希望者を募り、集まった一年生・二年生を10人ほど連れて

再びこのイベントに行ってきた。昨年は確かカンカン照りの昼間、授業をいくつか休んで行った覚えがあるが、今年は五限の授業が

終わってから、日が沈みつつある中で外苑前に降り立った。そして熊野通り・キラー通りを抜けると、どこか神戸のような雰囲気のある

坂道に到着する。DIALOG IN THE DARKの会場はもうすぐそこだ。

 

坂道を下り、間接照明が上手く使われた地下への階段を降りながら、「ああ、もう一年経ったのか」とつい感慨に耽ってしまった。

一年なんて本当にあっという間に過ぎてしまうものなのだ。ヒトが一年間で出来る事はたかが知れているかもしれないけれど、

光のような速さで過ぎてゆく一年間の「密度」を高める事は出来るのであって、自身のことを振り返ってみても、人生を変えたと思えるような

出会いや出来事がこの一年で沢山あったし、考えてみればこのイベントもそうした衝撃的な経験の一つであったと言ってよいだろう。

入学したばかりの一年生や進学に悩む二年生にとっても、今から経験する暗闇の時間が忘れ難いものになればいいな。

 

そんなことをぼんやりと考えながら、先に部屋に入っていった彼らの背中を見届けて、僕も一年ぶりのドアをくぐる。

そこには昨年と同様、明るすぎず落ち着いた優しい空間が広がっていた。笑顔で迎えてくださる受付の方々に挨拶をして、

相変わらずふかふかのソファーに腰を下ろす。そして三グループに分かれて暗闇のツアーに向かうゼミ生たちを送り出す。

少し緊張した面持ちで、しかしどこかワクワクした表情で、彼・彼女たちは暗闇に吸い込まれていった。

 

中での出来事は、後輩たちが一人ひとり書いてくれる予定の記事に委ねよう。

僕がここに書くことは、終わってから全員でブレイン・ストーミングとディスカッションをしたことを付け加えておくぐらいだ。

(以下は我々オリジナルの楽しみ方なので、このイベントに組み込まれているプログラムではない。けれども、中々面白いものだと思う。)

 

実はツアーを体験する前の待ち時間で「《暗闇》にどのようなイメージを持っているか」というテーマで予め各自ブレイン・ストーミングを

してもらっておいた。《暗闇》から思いつく言葉やニュアンス・感情を自由に書き留めておいてもらったのである。

そしてツアーが終了してから再び、《暗闇》のイメージや暗闇で体験した中で印象的だったことをそれぞれ書き出しておいてもらった。

それをもとにして、近くのイタリアンでご飯を食べながら、各自が感じたことや他者との相違、気付きなどを巡ってディスカッションを

行った。一人ひとりの感じ方は当然異なっており、しかし共通するところも沢山あって、刺激的な議論が展開されていたように思う。

最後に、「暗闇の地図」を全員で描いた。90分過ごした暗闇がどのような構造になっていたのか、思いだせる範囲でそれぞれマップを

描いてもらったのだ。これがめちゃくちゃ面白くて、大きさ・方向・場所ともに他人の地図と情報があまり重ならない!

五感のうちのたった一つを遮断しただけでこれほどまでに人間の「共通」理解は崩れ去る。

なにが普通でなにが共通なのかなんてそこに絶対的な区切りは存在しないし、「世界」も決してたった一つではない。

人間は絶対的な存在ではなくて、偶然的なものや脆い基盤に立脚して《共通》や《ノーマル》といった概念を成立させているに過ぎない。

 

視覚以外の四感が研ぎ澄まされ、他者との精神的距離と時間が驚くほどに縮小される90分。

暗闇での時間は、人間という存在に様々な問いかけを投げる。そしてその問いが導き出す答えはつまるところ、「人間は面白い」という

シンプルでありながらも、無限の奥行きを持つ事実なのである。

 

 

リンク追加と文章を「書く」こと

 

右の「ブログロール」にリンクを二件追加しました。

立花ゼミ新入生の細川さんのブログ(Die Sonette an・・・?)と、 同じくゼミ新入生の青木さんのブログ(イディオット)です。

二人とも個性的でとても好奇心の強い方々ですので、東大での生活やゼミでの活動、趣味から論考まで、これから色々と

書いていってくれることと思います。楽しみにしています。(なお、リンクは常時募集していますので、興味がある方はぜひご連絡下さい。)

 

しばらく忙しくてこのブログの更新をサボっていましたが、新入生の方を見習って僕もまたどんどんと更新していくつもりです。

「日常的なことはTwitter、考察的なものはブログに書く」という形にしようかなと考えた時期もありましたが、人文系の学問分野に足を

突っ込んでいると、テーマによらず纏まった文章を書くことの重要性を痛感することが多いので、Twitterではなくやはりブログを自分の

発信ツールの基礎に置きたいと思います。Twitterはメモには最適だし人から刺激を受けるツールとしても素晴らしいのですが、

いかんせん文体を変えてしまう。それは140文字というTwitterならではの制限が、句読点の打ち方や語尾の表現などにある程度

鈍感であることを許してくれるからです。でも論文にしろ企画書にしろ、本当に人に何かを伝えようとすると纏まった文章を書く必要が

どうしても生じてくる(コピーだってそうです。コピー自体は短くても、その背景にある思考や狙いは決して短いものではないはず。)

のであって、そうした纏まった文章を一つ書こうとしてみると、表現から改行まで色々と敏感にならざるを得ません。

 

「この表現はさっき使ったから避けよう。」「ここは改行したほうが読みやすいかな。」「この言葉ってこんな使い方で合ってたかな?」

そんなふうに次々と疑問が湧いてきます。こうした所作には、Twitterの「つぶやく」ではなく、手紙や文章を「綴る」という言葉が

良く似合います。「つづる」、この言葉を聞いて、机に向かってスラスラと筆を動かし、時に頭を抱えて悩む人間の様子が

浮かぶのは僕だけではないはずです。それは言いかえれば、思考や感情を形ある「文字」「文章」に変換しながら変換した文字に悩み、

また文字に変換しきれなかった思考や感情との差異に苦しみ、文と文の繋がりが生みだす摩擦に心を砕く様子だと思うのです。

そういったことに敏感になり、生じた摩擦や疑問を一つ一つ消化していくことによって、なんとか文章が書けるようになっていくのでしょう。

 

昔から言い古された「文章は《書くこと》と《読むこと》によってしか磨かれない。」というフレーズは、今もって至言だと感じています。

五月も今日で終わり。拙い文章ではありますが、これからも日々書きまくり、そして沢山の本を読んでゆきたいと思う次第です。

 

 

「夜景」とは何か -体験不可能な景色-

 

Twitter上で「夜景がデートにもたらす効用」についてゼミ生が議論していたので、それをきっかけに「夜景」とは何か考えてみた。

夜景のキーポイントは、ただ光が暗闇に飛び散っているだけでなく、それが「人の暮らし」を意味するものであるという点だ。

車のライト、高速道路のネオン、マンションの明かり…どれも人が生活しているという実感を伴う。つまり夜景を見ているとき我々は、

「人の暮らし」を外部 から見る立場に自己を置くことになる。闇を彩る色とりどりの光を通じて、この世界に沢山の他者が暮らしている事や

世界が人間の営みで加工されている事を目撃する。静止した夜景は存在しない。車が動いていたり家の電気が消えたりするように、

夜景はいつも動いている。それを見るたび、人間の暮らしの匂いを夜景に感じるはずだ。たとえば超超高層ビルから夜景を見て、

動いている光を見つけた時、「あれは何だろう?車かな?だとするとあのあたり高速道路かな?」と思考するだろう。

つまり、人が見えなくても結果的に人や人の生活を想像してしまう効果を持つ光景が、夜景なのである。

 

問題は、夜景が「人の暮らし」で成立しているものでありながら、夜景の担い手である「暮らしている人」と絶対的な距離を持っている

ことだと思う。眼前に広がる光に満ちた世界は、「人の暮らし」という身近なものの反映でありながら、圧倒的に「遠い」のだ。

あくまでも景色。交わることの ない他者の生活。しかしそんなふうにどこまでも遠い夜景を見るとき、自分のすぐそばに、同じ光景に目を

やる「誰か」がいたらどうだろう。必 然的に、側にいる人との「距離の近さ」を感じることになる。夜景はどこまでも遠い、しかし側にいる人

とはコミュニケーション可能な距離にいる。それを実感するはずだ。つまり夜景は、「交わることのない他者/側にいてコミュニケーションの

とれる距離にいる選ばれた他者」という対比を成立させる。かくして、夜景を媒介にすることで、側にいる他者との近さが、その距離以上に

接近する。こうした意味で夜景はデートに一定の効用を持つのではないか。

「そんな難しい事は考えていないし意識していない。夜景はただ綺麗なだけだ。」と言う反論が予想されるが、確かにその通りで、

夜景は最終的には「あー綺麗」という一言に帰着可能な光景だという特質を持っている。

「綺麗な夜景だね」→「車が走ってるよ」→「あのへん新宿かな、まだ沢山電気ついてる。」→「まあとにかく、綺麗だね。うふふ。」と

最終的には「夜景」という抽象的総体に帰着される、つまり鈍感を許す光景でもあり、まさにそれこそが、デートスポットとして不動の

地位を占める理由であるだろう。

 

そしてまた、夜景の特異は、自然との対比によって明らかになる。夕日や星といった「自然の光」と、夜景、すなわち「人工の光」とは

何が違うのか。それはこうだ。没入できる自然と異なり、夜景は窓枠やガラスなどを通して「外部」から見る事を必要とする。満点の星空

の下に身を置くのと、光に満ちた東京の夜景を六本木ヒルズの上から見るのとでは、根本的に主体の占める位置が異なる。

つまり言うなれば、夜景は鑑賞するものであるけれども、「体験できないもの」なのである。

(おわり)