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Hills Breakfast Vol.14

 

六本木ヒルズにて行われているHills Breakfastというイベントで少しだけお話をさせて頂きました。

登壇者は主に社会人中心のイベントのようでしたが、東京大学より推薦を頂き、

その上で幸運なことに森ビルさまより選んで頂きましたので、貴重な機会と思い、出させて頂きました。

 

「指揮という芸術、何だか分からないもの」と題して、休学したこの一年で打ち込んだもの、

そして指揮がどういう芸術なのかを、ピアノによる実演(「運命」や「子供の情景」、「月の光」など)を交えながら

今の僕に出来る範囲で手短に説明してみました。時間制限が結構厳しいものでしたので

上手く伝わったか分かりませんが、終わってから沢山の人に「面白かった!!」とお声をかけて頂き嬉しかったです。

 

僕が思っていたよりも遥かに沢山の方々がいらっしゃっており、その熱気に、こんなに早い時間から200名もの方々が

集まるイベントというのは凄いなあ、と本当に驚きました。(ヒルズ・カフェがぎっしりと奥まで埋まり、立ち見も

沢山出ていました!)そのぶん一番後ろの方々は指揮の実演が見づらいかなと思ったので、講演者用の壇を降りて

スライドを映し出しているプロジェクターとスクリーンの間に敢えて入り、指揮姿や指揮棒の軌跡を影絵のように拡大することで

後ろの方まで見えるように即興でやってみました。(ちょっと眩しかったですけど、本番の舞台での照明に比べれば!)

 

 

拙い話になりましたが、もしご興味を持って頂けた方がいらっしゃったならば、

その日に話したことのフルバージョンのようなものが書いてあるこちらのインタビューもお読み頂ければと思います。

(http://gapyear.jp/archives/1082)

 

企画して下さった森ビルの方々、僕のような若輩者を推薦して下さった東京大学の先生方、

伴奏してくださったピアニストの清水さん、そして朝早くからお越し頂きました皆様、貴重な機会をありがとうございました。

東京大学を休学して自らの信ずるものに打ち込んだ一年間の締めくくりとしてこれ以上ない、記憶に残る一日となりました。

 

講演を終え、動き出したばかりの朝の街をふらふらと歩きながら、柔らかく緩んだ空気に春の訪れを思い、

新しい一年が始まることを肌で感じました。あっという間に過ぎ去った一年でしたが、

どの一年間よりも刺激的で彩りに満ちた日々だったと笑顔で言うことが出来そうです。

 

休学の終わりに-HIll's breakfast -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十一回「千の会」

 

また今年もプロ・オーケストラを指揮させて頂く事になりました。

昨年はモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とプロコフィエフの「古典交響曲」を振りましたが、今年は

ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」に挑みます。そして最後に、師匠がブラームスの交響曲第四番を。

二十四歳の僕にとっては初めてのブラームス、八十六歳を迎えた師匠にとっては生涯最後のブラームス第四番になることでしょう。

 

 

昨年も素敵な演奏者の方々に恵まれましたが、今年もまた、国内で名を馳せるプロの方々が集まって下さいました。

コンサート・マスターにはなんと、東京交響楽団でコンサート・マスターを務めていらっしゃる高木和弘さんがあたって下さることが決まり、

駆け出しの僕などが振らせて頂くには恐れ多いほどですが、同時に、物凄く楽しみでもあります。沢山勉強させて頂こうと思います。

 

またこうして師と同じステージに立つ事が出来る日がやってくるとは思いもしませんでした。

大学を一年間休学して学んだ成果をこのハイドン・バリエーションに全て凝縮し、精一杯振ります。

どうか皆様、今年もまたお越し頂ければ幸いです。

 

 

………..

<第十一回「千の会」村方千之と門下によるジョイント・コンサート>

5/5(土・祝)13:00開場 13:30開演

於:練馬文化センター小ホール 全席自由・3000円

 

★金澤詩乃
ウェーバー:「オベロン」序曲

★萩野慎
シベリウス:交響詩「フィンランディア」
シベリウス:「悲しきワルツ」

★木許裕介
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

★高橋淳二(ソリスト:渡邉 みな子)
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 二楽章・三楽章

★村方千之
ブラームス:交響曲第四番ホ短調

 

 

チケットのお求めはお名前と枚数を添えてinfo[at]ut-dominant.orgまでご連絡下さいませ。

あまり広いホールではありませんので、お早めにご予約頂いたほうが安全かもしれません。

TwitterやFacebookでリプライを頂く形でもお取り置きさせて頂きます。お気軽にどうぞ!

 

 

第十一回「千の会」フライヤー

 

 

 

常に基礎に立ち返る。

 

ベートーヴェンの交響曲、一番・二番と終えて今日から四番に入った。

四番は僕がクラシックの世界に再び足を踏み入れるきっかけになった思い出の曲。

この曲を今こうして教わり指揮することになるなんて、当時は夢にも思わなかった。

四番のスコアを開き、神聖な序奏の部分を目にするたび、名状しがたい幸せを感じる。なんて良い曲なんだろう…。

 

 

師匠に「君なら暗譜出来るだろう。暗譜でやってごらんよ。」と言われてから、一番、二番ともに暗譜で全楽章通してきた。

暗譜の必要は決してないのだけれど、暗譜することで(言い換えれば、暗譜したと言えるぐらい勉強することで)

確かに楽譜から自由になれる。師匠はそういうことを教えようとして下さったのだな、と気付く。

もとより本を写真のように読むタイプなので、楽譜を暗譜することには抵抗を感じない。

本と同じように映像として頭の中に落とし込んで、最終的にはそれを「忘れて」指揮台に立つ。振るのは音楽であって音符でないからだ。

果たして九番まで全て暗譜で振れるかどうかは分からないが、全曲暗譜するぐらいの心づもりと気迫で臨まなければならない。

 

 

二月に入って、自分に残された時間が限られている事を知っている。

だからぐいぐいと曲を進めて行くけれど、時には自分から立ち止まり、立ち戻らなければらない。

ベートーヴェンの交響曲に入ってから楽譜研究に割く時間が多くなったぶん、

そしてベートーヴェンに必要な「力」を伝えようと苦心するぶん、基礎が乱れつつあるはずだ。

たとえば棒の持ち方、叩きの圧の入れ方。エネルギーは必要だが余計な力は必要ない。

弱拍で叩きの力を逃がしても手首を使わないことだ。文字通り「小手先」はやるべきではない。

 

指揮棒はまずもって腕の延長としての動きを為さなければならない。

常に腕でコントロールするものであって、手首は最終手段、あるいはここぞという場面で使うべきなのだ。

腕の力だけでシンプルに、自然な落下速度とその音に必要な圧をもってセンターで確実に叩く。

 

奏者がアンブシュアを鏡で確認し、スケールやロングトーンを必ず練習するように、

指揮者も鏡で棒の持ち方をきちんと確認し、各拍子の叩きとか平均運動をちゃんと練習しないといけない。

いかに色々表現しようとしていても、奏者に「伝わる」棒を振らなければ意味がない。

「音楽は深く、指揮は明解に!」という師がその生涯を通して大切にし続けている言葉の通り、

応用になればなるほど、基礎に立ち返らなければならぬ。

今日からまた寝る前の叩き100本を再開していこう。スポーツも音楽も同じ、基本がいつも大切!

 

 

 

 

 

 

Beethoven Sym No.2 -2nd movement

 

ベートーヴェンの交響曲のレッスンに入り、はやくも一番を終えて二番に取り組んでいる。

この曲の二楽章が僕は心から大好きで、ベートーヴェンのあらゆる交響曲の二楽章の中でも特別な思いを抱いている。

 

Larghettoという「モーツァルトが最高に美しい緩徐楽章のためにとっておいたテンポ」で描かれるこの音楽は、

あのベルリオーズが「若干の憂鬱な響きがあるにしても、ほとんど曇ることのないような純粋無垢な幸福な描写だ」と

書き残したように、まるで夏の夕暮れに広い景色を前にして歌い上げるような幸せに満ちている。

いつしか陽は沈み、雲がやってきて温かい雨を大地に降らす。

けれども朝には雨は上がり、穏やかに昇る太陽が草木の上に零れた滴を照らすだろう。

夏の朝、生命力に満ちて世界が輝く。

 

 

ランボーの『イリュミナシオン』に所収されたL’aubeという詩を思い出す。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais.

L’eau était morte.  Les camps d’ombres ne quittaient pas la route du bois.

J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit.

 

僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。

水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。……..

(「黎明」 訳は岩波文庫、堀口大學によるもの)

 

 

あるいは、同じくランボーのSensationを。

 

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,

Picoté par les blés, fouler [...]

心が満ちるまで。

 

一度コンサートを終えると、その準備にかかった時間や諸々の雑事などに疲れて、

あるいは自らの未熟さを痛感し、しばらく間を空けようと思う。

 

だが、それも一ヶ月経つと限界。

僕はもう、うずうずしている。また指揮がしたい。みんなの音が聞きたい。

指揮をするのは壮絶にエネルギーを必要とする。演奏者集めから曲選に始まり、自分の精神状況の準備に至るまで、

どれ一つとして簡単に済ましてしまえるものはない。けれども、自分が尊敬する、大好きな奏者たちがそれぞれの音を一つに集めようと

してくれているのを感じるとき、すべての苦労を超える幸せを噛み締めずにはいられない。

 

本番前の言葉にならぬ高揚、幕間のざわめき、すべてを終えた後の虚脱感と充実感。

後日、演奏を聞いて下さった方が言葉にして感想を綴って下さったものを目にする時の幸せ。

今までの人生の中で、これほどまでに感情を揺さぶってくれるものを僕は音楽以外に知らないし、

おそらくこれからもそうであり続けることだろう。ドミナント室内管弦楽団のみんなと

ストラヴィンスキーの終曲を本番にしか生まれ得ぬ熱気の中で演奏しているとき、

あるいはヴィラ=ロボスを心から溢れるような思いで演奏しているとき、

痺れる頭で、自分は今ここで確かに生きているのだと気付いた。

 

もっと指揮がしたい。もっと本番を振りたい。もっとステージに立ちたい。

休息は終わりだ。日々を淡々とこなしながら、次に向けて動き出さなければならぬ。

 

 

 

音の「密度」

 

レオノーレ三番を終え、いよいよベートーヴェンの交響曲第一番に取り組んでいる。

ベートーヴェンに入ってみて明確に分かったことが一つある。それは音の「密度」の問題だ。

そして音の「密度」こそがテンポやダイナミクスの限界レンジを決定づけているように思う。

 

 

たとえばレオノーレ三番やベートーヴェン一番冒頭のAdagioの部分。

フルトヴェングラーぐらいのじっくりしたテンポで僕が振るとその重さに耐えきれず、流れが消えて鈍重になってしまう。

しかし同じテンポであっても先生が振って下さると、流れが見え、緊張感を放ちつつ悠々として音楽が進み始める。

重さに意味がある、と言えばよいのか。一つ一つの音の中身がぎっしり詰まっていて

(まるで一つの音符・和音の中に無数の小さな音符がぎっしり充填されたような!)音と音の合間に隙間が見えない。

だからあのテンポに耐えきれる。耐えきれるどころか雄弁になる。

そこにはもちろん、86という年齢を迎える師匠の深い深い呼吸も影響しているのだろうが、それだけではなく

引き出されている一つ一つの音の「密度」が全く違うのだ。

師の棒でブラジル風バッハ四番前奏曲を弾いたあるヴィオラ奏者がこう言っていたことを思い出す。

「今まで出したことのないような音が楽器から出た。伸ばしの音を弾いている間に水墨画のような空間が見えた。」

 

棒だけで音の密度を高めうる。

どうしてそんなことが起こるのか、感覚的には分かりつつあるのだが、まだ上手く言葉にすることは出来ない。

ベートーヴェンの偉大な九曲の交響曲をレッスンで見て頂く過程で師から何としても学ばなければ(盗まなければ)

ならないものの一つは、この「密度」の表現だろう。

 

ベートーヴェンの先にはブラームスの四曲が聳え立つ。

5月にはプロでブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」を振ることにもなった。

どれもベートーヴェン以上にこのことが問題になる曲ばかり。

2012年は音の「密度」をテーマに、指揮というこの底知れぬ芸術を学んでゆく。

 

 

 

 

 

祭りと孤独

 

12月の暮れ、久しぶりに戻ってきた街を歩きながらぼんやりと考える。

大晦日とあって街は人で溢れ、いつもとは違う景色を見せている。けれども思い出は確かにその街の至る所に刻まれていて

ひとりでに足が進み、次々と過去の記憶が蘇る。ひとしきり思い出に身を浸し、電車に乗り込んで現実へと戻ってくると、

この一年がもうすぐ終わることに改めて気付く。

 

振り返れば失ったものも得たものも大きい一年間で、同時に、今までで最も変化に富んだ一年間だった。

一年の中で中心にあったのはやはり音楽、指揮を学ぶことだっただろう。

あの頼りない一本の棒を握って、いくつもの曲とともに僕は2011年を過ごしてきた。

今年実際にステージで振った作曲家だけを挙げてもかなりの数になる。

モーツアルト、プロコフィエフ、チャイコフスキー、シベリウス、ストラヴィンスキー、ブリテン、ヴィラ=ロボス…etc.

そして師からレッスンで教わった曲を数えればこの二倍どころではないだろう。

プロオケを振り、チェロ・オーケストラを立ち上げて指揮し、一年前に原型を作ったドミナント室内管弦楽団はコンサートを開けるまでの

形になった。至らない所は数限りなくあるけれども、とにかく沢山の人と、言葉や音で話した日々だった。

 

 

でも、一番話した相手は他でもない「自分」だったはずだ。

オーケストラの前にいる時間以外は、孤独に自分と向かい合う時間を作ろうとしていた。

浪人時代のようにひとり静かに読み、書き、思考し、出口の無い空間で立ち止まり、

一日を勝手気ままに自分の思うように使った。経済的にではなく、精神的に豊かであろうとした。

何かに運ばれて生きるのではなく、混沌の中で揺れ続け、自分で自分を運びながら生きようとした。

浪人中に書き付けて今もなお飾ったままにしてあるこの言葉のように。

 

Man muss noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können.“

(You need chaos in your soul to give birth to a dancing star.) — F.Nietzsche: Also sprach Zarathustra

 

 

2011年が終わる。

いくつもの出会いと別れを経験し、祭りと孤独の中にあった一年だった。

この一年間に出会って下さった方々、支えて下さった方々、そして一緒に演奏して下さった方々に心からの感謝を。

どうぞ良いお年をお迎え下さい。

 

 

祈り(Yusuke Kimoto / Photo by Y.Eida)

 

 

 

実家にて。

 

半年ぶりの帰省。

家族はいつもあたたかく、犬は平和そうに炬燵に潜り込む。

母の何気ない一品に、そこに込められた時間と経験を思う。

 

みんなが寝静まった中、黙々と譜読みに取りかかる。

ついにベートーヴェンの交響曲に取り組む時が来た。2012年はこの偉大な九つのシンフォニーとじっくり向き合う。

この楽譜を贈って下さった方の気持ちに恥じないように。

 

Beethoven&Brahms

 

中学校の音楽教室で指揮してきました。

 

中学校の音楽教室として、プロの奏者の方々から成る弦楽アンサンブルを指揮してきました。

お仕事としてプロを指揮させて頂くのはこれがはじめて。奏者の方々は僕が日頃楽器を教わる「先生」のような方ばかりで、

駆け出しの僕にとっては恐れ多いぐらいでしたが、幸せな機会を頂いたことに感謝しています。

 

場所は足立区の某中学校の体育館。

普通に壇上で演奏して生徒達がずらっと並んで聞く、といった形式はあまり面白いと思えなかったので、

オーケストラを床に降ろして、その周りを中学生達に囲んでもらう形式を取りました。プルトの一部になってもらうイメージです。

これは師匠が明日館でのコンサートで実践していたスタイルで、それが素敵だなあとずっと思い続けていたので真似してみました。

やっぱり近くで聞いて/見て/入り込んでこその楽しさがありますよね。

 

プログラムはシベリウスのAndante Festivo、ブリテンのSimple Symphony、モーツァルトのアイネ・クライネ一楽章で

「指揮者体験コーナー」(大盛り上がりでした!)、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ一楽章、そしてクリスマス・ソングという普通の音楽教室とは

一風異なったものにしてみました。アイネ・クライネの一楽章は、僕がはじめてオーケストラの前に立って振った曲でもあります。

その一年半後にこんな場でこの曲を指揮するようになるとは想像もしませんでした。緊張した面持ちの生徒五人に「こうだよ」と振り方を教え、振ってもらって、

最後に「お手本」として僕が一楽章を最後まで指揮しましたが、自分がオーケストラの前に立って初めてコンサートを開いた一年半前のことが蘇ってきて、

色々と込み上げてくるものがありました。

 

そして終演後、指揮者体験コーナーにも登場した生徒会の会長さんからの挨拶で、

「木許先生みたいに分かりやすく・かっこよい指揮が出来るようになりたいです」という言葉とともに大きな花束を頂きました。

師匠には「あんなのじゃ全然ダメだよ」と一喝されてしまうでしょうが、それでも嬉しかったです。

と同時に、もっともっと精進しなければと気持ちを新たにしました。

 

これにて2011年度のステージはすべて終わり!

プロのオーケストラを二度、チェロ・オーケストラとドミナント室内管の大きなコンサートとサロンコンサートと…沢山の指揮の機会に恵まれた一年でした。

拙い棒に付き合って弾いてくれる方々がいるからこそ、ということに心から感謝して、また師匠の元で勉強に励みたいと思います。

この一年間で一緒に演奏してくださったみなさん、本当にありがとうございました。来年もどうぞよろしく!

 

 

 

 

ドミナント・クリスマスコンサート前日

 

いよいよ明日、ドミナント室内管弦楽団のクリスマス・コンサート本番を迎える。

ドミナント室内管弦楽団を立ち上げてから一年半。こんなに大きくなるとは思ってもいなかったし、

まさかストラヴィンスキーをやることになるなんて考えもしなかった。

 

指揮しているだけでなく、このオーケストラを一から作ってきた身として凄く感慨深いものがある。

緊張はしない。このメンバーと音楽が出来ることを心から楽しみながら、今の僕に出来る限りの演奏をしようと思う。

 

Dominant Christmas Concert2011(Designed by S.Sekine)