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ボウリング・インテンシブと『渓流 雪たより』(遠藤酒造)

 

  投げまくった一日だった。まず、朝から大会で4ゲーム。

センターで一番上手い人と総支配人と同じボックスでちょっと緊張しつつ、無難に190ぐらいでスタート。

右のレーンは4ゲーム通じてほぼパーフェクトだったのだが、左のレーンがなかなか読めない。アングルを次々に変えていっても

7ピンが残ってしまう。ポケットには簡単に入っていくのに、あと一本が倒れない。かといって大胆なラインチェンジをしてしまうと

スプリットの危険性があったので、3ゲーム目まで左のレーンはスペアで耐える展開になった。4ゲーム目になってようやく左のレーンが

読めてくる。右でストライク、左でストライク、右でストライク、左でスト・・・ジャストに入ったのに8番が立ち尽くす(泣)

気を取り直してスペア。また右でストライク、左で今度こそスト・・・強烈にジャスト入って9番残り(泣) ひえー。

同じボックスの一番上手い人も左レーンでジャスト8番を連発しており、二人で「これはピンのオフセットだ。そうに違いない。」

ということにして自分を納得させておいた。たまにはこういう日もある。アベレージ180ぐらいで終了。

 

 夜、高校の後輩(今は大学のボウリング部に入っている)とセンターのスタッフの方から一緒に投げようとのお誘いを頂いたので、

再びボウリング場へ。もうすぐ日が変わろうかというような時間だったので、一般客はほとんどおらず、ほぼ貸切状態。

というわけでみんなでテンションを上げて思いっきり騒ぎながら投げる。

ストライクを続けてはジョジョっぽい叫び声を上げるスタッフの方や摩訶不思議なガッツポーズを繰り出す後輩に爆笑しつつ、

僕もストライクが続き始めると四レーン分ぐらいアプローチをスライディングしてみたり。(やりすぎて膝が摩擦熱で熱かった。)

もはやアプローチ上のショーである。勤務中のスタッフの方も客がいないのをいいことに僕らが投げている所へ集まって来ていて、

大変盛り上がる展開になった。テンションの高さゆえかどうか分からないが、三人ともバカ打ちしていて、200を切ると最下位決定

というかなりレベルの高い戦いに。割ってしまうとやばそうだったので、15枚ちょい出しラインでSolarisを使って狭く強く投げる。

205-169-215-170-220-235-223-211-212-180で10ゲームに及ぶ激しい試合は終了した。アベレージは204。

200を三回切ってしまったのは心残り(しかもカバーミスだった)だが、10ゲーム中にノーミスを三回含んでいたので少し満足。

200アベレージを超えるためには、1. 打ち上げること 2. 大きなマイナスゲームを出さないこと の二つが要求されるのだが

今日はバカ打ちこそしなかったものの、大体は210前後を打ち続けることが出来たので2の条件は満たせたように思う。

ここに250ぐらいのバカ打ちゲームが加わればきっと220アベレージぐらいになるのだろう。先は長い。

 

 日が変わるのもお構いなしに、最初から最後まで腹筋が崩壊するぐらいみんなで笑いながら投げた。

スランプ気味だった後輩もちょっとしたアドバイスで立ち直ってくれたし、ここ数か月で一番楽しいボウリングだったかもしれない。

やっぱりスポーツは楽しんでやるのが一番です。

 

 なお、帰宅後に遠藤酒造の『渓流 雪たより』を口開け。

東京へ引っ越して最初に友人と飲んだ酒がこれと同じ遠藤酒造の『渓流 春限定吟醸』だったため、渓流シリーズにはひときわ

思い入れがある。(ちなみに、この春限定吟醸は最高に美味しい。口の中でふわーっと華やかに味が開けてゆく。ボトルも綺麗で、

僕にとっては春の風物詩の一本だ。) 今回の『渓流 雪だより』は濁り酒で、おちょこに注いでも底が見えないぐらい濁っている。

口に含むとトロリとした舌触りと軽い酸味。そしてほんのり甘い後味。なんとなく小さい頃お祭りの日に頂いた甘酒を思い出す。

体に優しく染み込んできてとても美味しい。

これとポン酢をかけたオクラの相性が抜群で、一杯だけと決めていたのについつい何杯か呑んでしまった。

ボウリングも楽しかったしお酒も美味しかったしで幸せな一日だった。明日からも頑張って勉強しよう。

 

『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎,講談社現代新書 2008) &カオス呑み

 

 駒場の生協で著者の名前が目に入り、即座に購入。

著者は講談社現代新書で10年近く前に『ゲーデルの哲学』を書いており、これを高校時代に読んでハマった覚えがあったからだ。

JR大阪駅を出てすぐ、ヤンマーディーゼルの看板が窓から見える辺りで読み終えたということまで覚えている。それほど印象的だった。

 

 今回の『理性の限界』もまた、読み終えた瞬間を覚えていられるほど刺激的な内容。

最初から最後まで「シンポジウムにおける対話」という形式を取っているので、内容は決して簡単ではないものの、楽しんで読める。

テーマは大きく分けて「選択の限界」「科学の限界」「知識の限界」の三つであり、それぞれに関連する主要な理論が

仮想シンポジウム参加者の対話によって説明されてゆく。

「数理経済学者」がコンドルセのパラドックスを説明したかと思うと、「情報経済学者」がアクセルロッドのTFT戦略について

説明してくれるし、それに絡める形で再び「数理経済学者」がミニマックス理論やナッシュ均衡に話を広げていく。

「科学主義者」はラプラスの悪魔や相対性理論を噛み砕いて説明するし、「相補主義者」は二重スリット実験を紹介してくれる。

(二重スリット実験は何度読んでも感動する。この現象を目の当たりにした科学者は最初どれほど驚いただろう。)

お約束とも言えるクーンのパラダイム論については「科学社会主義者」なる人が概略を語ってくれる。

それに対して「方法論的虚無主義者」なる人がファイヤアーベントの哲学を持ち出して来て、Anything Goes ! という極端な

科学哲学を紹介してくれたりもする。(このファイヤアーベントの哲学は本当に面白いと思う。これから読んでみたい。)

 

 ところどころ登場人物に不自然なところがある(「ロマン主義者」とか「フランス国粋主義者」とか)が、それもまたこの本の面白さ。

著者は、幅広い参加者たちに託して対話の中に様々な知識(たとえば、フランスの「コアビタシオン」と呼ばれる政策についての

説明や、マーヴィン・ミンスキーの「心社会論」についての説明など)を練り込んでくれている。その一方で、「カント主義者」が

「要するにだね、カントによればだね、君の意志の格律がいつでも同時に・・・」と言いかけては「司会者」に

「はいはい、今はカントの話ではないのでまた後日にお願いしますね。」と流されているのがちょっと哀れで笑えたりもして、

最初から最後まで読んでいて飽きない。後半で紹介される「ぬきうちテストのパラドックス」なんかには「むむむ・・・。」と

悩まされること請け合いである。悩みながら楽しみながら、『ゲーデルの哲学』同様に買ってすぐに一気に読み通してしまった。

数ある新書の中でも非常に充実感の高い一冊。おすすめです。

 

(参考:【抜き打ちテストのパラドックス】

1.月曜日から金曜日まで、いずれかの日にテストを行う。

2.どの日にテストを行うかどうかは、当日にならなければ分からない。

という講義要項があったとする。これを見たA氏は「テストは実施されえない」と判断した。というのは、この講義要項1に基づけば、

まず木曜日の時点でテストが行われなかった時点で「テストは金曜日だ」と予想されるが、予想された時点で講義要項2に反するので

金曜日にはテストは行われえない。これより、金曜日にテストが無いならば、木曜日にテストを行う場合、先ほどと同様にして水曜日

まででテストが行われなかった場合「テストは木曜日だ」と予想され、これは講義要項2に反するので木曜日にテストは行われえない。

これを繰り返していくと、月曜日から金曜日までで「抜き打ち」テストを行うことはできない。よって抜き打ちテストは無い。

このようにAは判断したのである。しかし、実際には金曜日にテストが実施された。

「おかしい!上の理由により、テストは行われないはずだ!」とAが主張すると、教授は笑いながら

「でも、君はテストが今日行われないと思っていたんだろう?それならば、抜き打ちテストは成立しているじゃないか!」と返した。)

 

 なお、これを読んだあとにクラスの友達数人で高尾山のビアガーデンにて「カオス呑み」をしてきた。

「カオス呑み」とは名前の通り、秩序に縛られず酒を楽しむ会のこと。簡単に言うと呑みまくっているだけである。

いつもは下北沢などで開催され、最終的には結構カオスな事になるのだが、今回は高尾山ということもあって

非常に穏やかな展開になった。今回はみんな『理性の限界』を破らずお酒と高尾山から見る夜景を楽しんでいたようだ。

 

韓国料理を楽しむ会 Part2

 

 図書館で勉強しようと思い、自転車で駒場へ行った。

正門を入ってすぐのところで某先生に遭遇。「暇?」と言われ、つい「ええ、まあ」などと答えてしまったため、捕獲されることになった。

これから動こうとしているある企画についてちょっとした話し合いをしたのち、夕方から「韓国料理を楽しむ会 part2」が行われる事を

聞いた。前回は韓国風焼き肉だったが、今回はキムチ鍋だという。星の王子様カレーを美味しいと信じて疑わない僕には

キムチ鍋なんてどう考えても辛そうな食べ物は天敵なのだが、前回も雰囲気が楽しかったし参加することに。いざとなったら

チシャ菜などの葉っぱとご飯だけ食べる(まさに草食系)つもりである。というわけで、準備は熟練の方々に申し訳ないけどお任せして、

御飯が出来るまでハイドンのカデンツァ制作を進めておいた。ある程度の音が取れたので、その辺に散らばっていた紙にザッと書きつけ

音楽室を借りてグランドピアノで音合わせをやってみた。グランドで弾いてみると電子ピアノなんかよりもずっと音が取り易い。

強弱記号もつけやすいし、今まで「なんかおかしいなあ・・・。」と思っていた部分がスッキリ解決した。あとはこれを記譜すれば完成だ。

 

 音楽室を出ると美味しそうな香りが廊下まで漂っていて、思わず小走りで階段を上がった。

キムチ鍋だけかと思っていたら前回の韓国風焼肉(サムギョプサル)もあって一安心。鍋を食べれない分呑もうと思って

用意されていた三種類のビールを堪能。ビールとサムギョプサル、そして米の相性は最高だ。合間にマッコリなんかも呑んだりして

韓国からの留学生の先輩が作る本場の韓国料理を堪能させて頂いた。そうそう、料理だけでなく韓国語の乾杯の音頭も教わった。

乾杯は「おつかれさまでしたー。」という意味で「スゴハショッスムニダ」と言うそうだ。韓国語は「~ジュセヨ」(=please)と

「ハナ・ドゥル・セ」(=one,two,three)、「アンニョンハセヨ」(=Hello)、「モルゲッスムニダ」(=I don’t know)ぐらいしか知らなかった

ので、「スゴハショスムニダ」もレパートリーに加えようと思う。

また、食事の席ではロシア語の数の数え方も教えて頂いた。

one,two,threeが「アジン・ドゥヴェ・トゥリ」(表記がこれで合っているのか分からないが、先生の発音を聞く限りではこんな感じ)

らしい。ロシア語といえばゴルゴ13で学んだ「ダスビダーニャ」(=See you)と「ズドラーストヴィーチェ」(=初回に使う挨拶だったような)

しか知らなかったので、これもまたレパートリーに追加。もちろん、使う機会は限りなく無いと思われる。何かの言葉から広がって

Roe対Wade事件判決についてS先生と話したりもして、そんなこんなで韓国料理を楽しむ会の夕べは更けていった。

先日外食をした関係で今日は家で粗食で済まそうと思っていたのに、思いがけず贅沢な食事をしてしまった。

シェフ及び先生方ごちそうさまです。

 

 なお、帰宅してから先日読み残していた三浦雅士『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読了。

Joseph S.Nye Jrの” The Paradox of American Power ” をキリ良さげな部分(【SOFT POWER】の項)まで読んで寝ることにします。

 

 

東京へ戻って来ました。

 

 二週間ちょっとの帰省を終えて東京へ戻って来ました。

新幹線(もちろん自由席)に乗ってハイドンのスコアを広げて勉強していると、隣に二人組の高校生が乗って来ました。

「一番の要約はたぶん半分で、英作それなりにとってリスニングもがんばって長文死んで・・・60あるかないかぐらいだと思う。」

などという会話をしていたので、内容と順番から考えて、東大の英語の問題についてだったと思います。時期的に東大実戦か何かの

話をしていたのでしょう。横で「実戦の長文は難しいもんなー。」などと思いつつ品川で降りようと席を立つと、

「あのひと音大生かなー。音大生は英語とか世界史とかしなくていいから羨ましいよな。」と話す声が聞こえてしまい、思わず振り返って

「要約半分ではマズいぞ。過去問繰り返して慣れるべし。」なんて言おうかと思いましたが、自重しておきました(笑)

 

 東京についてみると、やっぱり人の多さに驚きます。それから街中に微妙な警戒心が漂っているような気がします。

人同士が打ち解けていないというか言葉にはならないギスギスした空気を感じました。まあそれも東京の面白さの一つかもしれません。

 

 朝、そのまま駒場に行ってハイドンのピアノ協奏曲の三楽章をコンマスとソリストと合わせて来ました。

夏休みの間に300回ぐらい読んで和声や構成を分析し、自分でもある程度弾いたこともあって、大体は上手くいったと思うのですが

睡眠時間が足りていなかったせいかニカ所ほどキューを出し忘れてしまい、コンマスが入りづらそうにしていたのが申し訳なかったです。

次回は忘れないようにしっかりマークしておきました。また、このコンサートについては本業のポスターデザインを頼まれていたため

そちらの完成稿も渡すことができました。ポスターについては記事を改めて触れたいと思います。

そういえば途中でオジサン達が写真を撮りに乱入してきて、「撮られたくなかったら顔見えないようにしておいてね。」と

言われたのですが、指揮の都合上そういうわけにもいかず、撮られるがままになっていました。

写真を何の用途に使うのか謎なのが怖いところですね。

 

 「たまには外食もいいか。」ということで、昼には連れと美登里寿司へ行き、大漁セットなるものを注文してみました。

昼から寿司かよ、と思われるかもしれませんが、このセットは何と950円程度。絶品のお寿司8貫に加えて、

茶碗蒸しやサラダ、デザートまでついているので素晴らしくお徳感があります。特に炙りものが美味しかったです。

自宅に帰ってからは再びハイドンの勉強。先日から二楽章のカデンツァを書いていたのでその続きを。

書いていると言ってしまうと少し大げさで、実際にはアルゲリッチが弾いているランドフスカのカデンツァを楽譜に起こしているだけです。

聴音と書きとりは久しぶりだったので、たった二分程度の部分なのになかなか進みません。

書いては弾き、弾いてはSONARに打ち込み、打ち込んでは再生して「なんか音足りない・・・。」と悩みの繰り返しです。

そんなわけで今日は8小節書いただけに留まりました。衰えを痛感したので、『音大受験生のためのパーフェクトソルフェージュ』を

9月は毎日やることにします。

そのあとで三島由紀夫の『午後の曳航』(新潮文庫)を読了。三島の作品群の中ではさほど優れた作品ではないように感じますが、

「父」という存在を巡る少年たちの会話の深みや、最後に置かれた印象的な一節(三島の文体ならではの一節)は結構好きです。

 

「正しい父親なんてものはありえない。なぜって、父親という役割そのものが悪の形だからさ。・・・(中略)・・・父親というのは真実を

隠蔽する機関で、子供に嘘を供給する機関で、それだけならまだしも、一番わるいことは、自分が人知れず真実を代表していると

信じていることだ。」(P.126)

「竜ニはなお、夢想に浸りながら、熱からぬ紅茶を、ぞんざいに一気に飲んだ。飲んでから、ひどく苦かったような気がした。

誰も知るように、栄光の味は苦い。」(P.168) 

 

 読書のあとはアイスコーヒーを淹れてネットサーフィン。

ニコ動で、京大の友達から教えてもらった「新世界エヴァンゲリオン ~関西弁で台無しにしてみた~」という動画を見ました。

エヴァについてはあまり詳しくないのですが、それでも死ぬほど笑わせてもらいました。関西弁の恐ろしさを実感できます。

ところどころに入れてくるネタがまた秀逸。これは相当時間かかってるんじゃないでしょうか。

女の声の部分では、投稿者である男の方の声のピッチを上げて女っぽくしているのですが、そのあたりにも作者の苦労が忍ばれます。

とりあえずエヴァ好きの人は一度は見るべきです。(ただし、原作の印象が完全に破壊されるのを覚悟の上で)

そのあと、youtubeでボウリングの新作ボールの軌道動画を見ました。

といっても、現在のラインナップ(Solaris-Cell Pearl-Black Peal-Widow Bite)に満足しているため、ただ見ているだけで

買うつもりは全くありません。買うとしたら現在のラインナップと同じ、あるいは極めて近いタイプのボールを買うつもりです。

投げ過ぎによってSolarisの動きが大分落ちてきたため、新作のepicenterに変えてみようかとは思っていますが、ホームにしている

センターのコンディションでは動きが大人しくなったSolarisがピッタリハマるので、変える必要はないかもしれません。

youtube上で良さげな動きをしていたのが、StormのREIGN。立ちあがりの加速感が強いため、投げていて楽しそうなボールでした。

 

 夜には、近くの知る人ぞ知るダイニングで和食。一日二度の外食は東京で生活するようになって初めてかもしれません。

里芋と牛挽肉の手作りコロッケが絶品でした。これにつけるタレがレモン醤油というのも最高です。「やまなか」という今まで呑んだ事の

無い泡盛を発見したので呑もうかと思いましたが、出費し過ぎなので我慢。そのかわり家に帰ってから、実家で栽培したライムを絞って

ジン・リッキーを作って美味しく頂きました。自分で作って呑むのがやはり圧倒的に安上がりですね。

これを呑みながら三浦雅士 『身体の零度 何が近代を成立させたか』を読み、第六章と第七章を明日に残して寝る事にします。

充実した一日でした。

 

友人たちと投げて呑みまくる@神戸

 

 このブログに時々コメントをくれるH氏とN氏と、神戸の三宮で再会してきた。

待ち合わせよりだいぶ早い時間に三宮に着く。というのは、どうしても会っておきたい人がいたからだ。

その人は中国整体のプロ。店も出しているが、人目にはつかない場所に小さくあるだけだし、宣伝もほとんどしていないから、

三宮に相当詳しい人でも存在を知ることがないだろう。だが、ここの先生の腕は本当に凄い。

 

 浪人中はじめて見てもらったとき、ベッドに寝転ぶなり体の歪みを指摘され、「毎日長い時間椅子に座っているね。」と言われた。

全くその通りだったから驚いた。浪人中は自習室でそれなりの時間机に向って座っていたし、ボウリングのせいで骨盤が歪んでいる事も

実感していた。「では」と言ってマッサージして頂いたのだが、これがまた強烈なもので、痛さを超えて感動すら覚える。ピンポイントに

指が入ってきてどんどんほぐされてゆく。痛いけど気持ちいいし、自分の体がどんな状況にあったのかを何となく理解することが出来る。

僕は小さい頃からツボや気功に興味があって、趣味でツボの名前を覚えたりしていたから、指圧されながら思わず

「あー隔兪めっちゃ入ってますイタタタタ!」などと口走ってしまい、それに反応した先生から更なるツボ講義を受ける事ができ、

体はほぐれるわ知識はつくわで最高だった。そうして身体の歪みも直して頂いたので、部屋を出るときは別人のように体が軽く

感じられたし、腕の可動域も格段に広くなっていた。感動のあまり、定期的この先生に見て頂こうと決心してしまった。

 

 そんな経緯があって二年ぶりに先生の所へお邪魔させて頂いた。飛び込みだったにも関わらず、先生は以前と同じく

優しく対応して下さり、じっくりと身体をほぐして下さった。棘下筋に僅かな痛みを感じていることと、肩甲骨辺りの可動域をもう少し

増やしてバックスイングを安定させたいことなどを伝えると、関連する部位を集中的に治療して下さり、ベッドから起き上がった時には

ウソみたいに棘下筋の痛みが取れていて、背中のハリも取れていた。相変わらず凄い・・・。これからも帰省するたび見て頂こうと思う。

 

 軽くなった身体で懐かしの神戸ボウリングクラブへ投げに行く。このボウリング場は日本でも有数の綺麗さだ。メンテナンスもしっかりと

行き届いているし、雰囲気も上品。おまけに、置いてあるソファーの座り心地は神クラス。浪人中何度このソファ‐で寝たことか・・・(笑)

思い出の沢山詰まったこのボウリング場で、今日のメインはH氏にレッスンすること。もちろん自分も投げながらである。

H氏はバックスイングが小さく窮屈になっており、せっかくの腕の長さを活かし切れていなかったので、ステップのリズムを変える事で

腕の振りを大きなものになるようアドバイスした。タータタタ・タンッ!のリズムである。このリズムにしてからはH氏のピン飛びが

格段に良くなった。もともとピンアクションには定評のあるアクティベーター系カバーストックのボールを使っているので、球の性能に

加えて体重が乗った球を投げれば一瞬でピンを消し去るような激しいピンアクションを見る事が出来る。良かった良かった。

二人一緒に9ゲームを投げて終了。僕も整体の効果あってか最後に245-223-208と中々のシリーズに纏めることができて満足した。

H氏、それにN氏とはあす土曜日にも場所を変えて投げるので、また一緒に投げるのが楽しみだ。

 

 ひとしきり運動して、十番という焼肉丼屋でお腹を満たしたあと、酒だけを目的にして、あるダイニングバーに入った。

久し振りの再会がそうさせたのか神戸という町がそうさせたのか、はたまた単に全員重度の酒好きなせいか分からないが、かなりの

量を飲んだと思う。白ワインのボトルにはじまり、スパークリングワインのボトル、梅酒、焼酎、梅酒、カクテル、バーボン・・・。

気づくと周りに誰も客がいなくなっていた(笑) じゃあそろそろ、ということで店を出て、そのまま駅へ向って解散。

やっぱり気心の知れた友達と飲む酒はおいしい。神戸の街で幸せな時間を過ごさせてもらった。

 

生命倫理会議

 

 という会議がある。東大でも教えていらっしゃる小松先生や、僕が師と仰ぐ金森先生らが所属している、

生命倫理に関する議論にコミットする団体である。特に臓器移植法に関して先日記者会見を行ったので、耳にされた方も多いだろう。

生命倫理会議の総意として、臓器移植法A案可決に対して反対の立場をとっており、この主張には僕個人としても全く賛同出来る。

臓器移植A案を端的に言えば、「脳死は人の死」と認定し、ゆえに「脳死になった際に臓器提供するかしないかをはっきりして

いなかった人からは家族の承諾があれば臓器提供を可能とする。以上より、臓器提供の年齢制限は撤廃される。」というものだ。

この案には多大な問題が含まれていることを生命倫理会議は主張している。詳しくはhttp://seimeirinrikaigi.blogspot.com/を

参照して貰えば良いと思うが、とりわけ、「人の生死の問題は多数決に委ねるべきではない」という小松先生の言葉は重い。

 

 また、このページから金森先生の記者会見動画を見る事が出来る。

わずか二分ほどの時間、慎重に言葉を選んでいつもの半分ぐらいのスピードで話される先生の頭にあったのは、

ジョルジョ・アガンベンが述べるビオスとゾーエーの議論、そしてフーコーのビオ・ポリティーク概念だったのではないか。

(アガンベンの「ホモ・サケル」第六節には、脳死に関する言及が見られることにも注目すべきだ)

A案は人の死生観や「最後の瞬間」への認識を変えてしまう可能性がある、という言葉には、ビオスにゾーエー的なものが

侵入してくること、生政治が強力に発動されることへの危機感があるように思う。

人はあくまでも「伝記の対象となる可能性」や「特定の質」を持った存在、ビオス的な存在である。

もちろん「カタカナのヒト」=「ヒトという種」というゾーエー的な意味合いを我々は内に含んでいるだろうが、我々がそれを意識することは

ほとんど無いと言ってよい。いわばゾーエーは悠久の大河であり、ビオスはそこに浮かぶ泡、一瞬一瞬周りの風景を映し、変化させ、

そしていつしか消える泡である。しかし、人の生の本質はこの泡、ビオスにこそある。

このようなビオスとゾーエーの概念を今回の臓器移植法A案に適用するならば、この案がある意味でゾーエー的な案である事が

分かる。個人の意思を勘案しないことはいわばビオスの排除であり、ゾーエーの管理ではないか。

脳死を一律に人の死と認定する事で、個人の意志とは無関係に臓器が提供されてしまう。この定義においてビオスを剥がれた

ゾーエーたる「脳死」は「生きるに値しない生命」という概念との距離を近づける。

誰かを「生かす」ための措置が、誰かを確実に「殺す」ことに繋がっている。

 

 

 このような事をぼんやりと考えながら、(僕の浅い理解では根本から間違っているかもしれない。だがいずれにせよ、臓器移植法を

巡る政府の行動が「生政治」そのものである事は確かだ。)獣医学のレポートを書いた。

取り上げたのは「動物の脳における性差」と「天然毒の研究と創薬」と「ペットとヒトとの新しい共存」の三つ。

書くうちに詰まってきたので、さっぱりしそうなBastide de Garille VdP d’Oc Chardonnay Cuvee Fruitee を飲んだ。

Bastide de Garille VdP d'Oc Chardonnay Cuvee Fruitee 2007。1000円ちょっとのクオリティとは思えない美味しさである。グラスはSCHOTT ZWEISEL 社のDIVAシリーズの白。何とも艶やかなフォルムだ。

 

合わせたのは意表をついて「そうめん」である。

氷をゴロゴロ入れてキンキンに冷やし、このワインに合うようにめんつゆを

作る。合わせて厚焼き卵を作り、これも一緒に食べる。ふわっと広がる砂糖の

甘みと、そうめんのさっぱりした味、そしてライチのようなフルーティーさと

まろやかな酸味のあるワインとがあいまって食が進む。

日本とフランスの素敵なマリアージュ、生きてて良かったと思う瞬間である。

 

時計を見るともう夜中の三時。週末に力を充填したので、また一週間

頑張れそうだ。とりあえずは明日のソフトボールに備えて寝るとしよう。

 

 

 

反抗的タッチパッド

 

 人口論にまつわる議論をパソコンで整理しなおそうと思って、愛用のVAIO SZ-95Sを立ち上げた。

いつもどおり指紋認証をしてログインし、デスクトップ画面が表示される。

が、しかし。なぜかポインタの挙動がおかしい。タッチパッドを右に動かすとポインタが左に、左に動かすと右に動く。

左右だけではない。上に動かすとポインタが下へ、そして下に動かすと上に動く。なんという反骨精神だ。

これは使いづらい。何度か再起動しているうちに自然治療されたのだが、また起動しなおすと元通り、革命的な動きを見せてくれる。

どうしようかなあと思っていじっているうちに、実は上下左右逆でもそう不便でないことに気づいた。

慣れてしまえばどうという事は無い。もとより左利きな事が関係しているのか、かなり早い段階でこの動きに慣れた。

ちょっと面白いので、あえて直さずにこのまま使ってみようと思う。フランク・ミューラーのCrazy Hourのような動きになってしまうと

使用困難だが、今のままなら全然問題ない。実際には修理するのが面倒なだけだ(笑)

 

 ついでに、暑い夜を快適に過ごすべくブロードウェイ・ブルー・マティーニを作ってみた。

ブロードウェイ・ブルー・マティーニと「月夜」 ボトルから透けて見えるインクの色とブルーキュラソーの色が合っていて美しい。

 

 

名前から分かるように、ブロードウェイ・マティーニのレシピを

ベースにしたオリジナルのカクテルである。

レシピは、タンカレーNo.10ジンを40ml、ピーチ・ツリーを

10ml、CHARLES  VANOTのブルーキュラソーを10mlで

シェークして、最後に細かく刻んだミントリーフを浮かべる。

ピーチツリーの甘みとジンの鋭さをこのミントがキリッと

絞めてくれる。ミントの味を強調したいときにはミントリーフを

入れた上でシェークしても良いだろう。

爽やかで美味しいのでどうぞやってみてください。

 

 

 

 

 

 

 

風と陽射しの一日。 『王権を考える』(編:大津透 山川出版社 2006年)

 

今日は風がとても気持ちいい陽気だった。ただ、夕方ぐらいからちょっと風が強すぎるて自転車を漕ぐのに一苦労。

「坂道+向かい風+空気抜けたタイヤ」という奇跡のコラボレーションが出来上がってしまい、電車で行けば良かったとちょっと後悔。

 

 まず二限がハンドボール。ハンドボールは今学期から始めたのだが、なかなか面白い。

キーパーの動き方にもかなり慣れてきた。最初はサッカーでGKをやっていた時と同じ動きで動いていたのだが、

それでは不十分な対応しかできない。下からボールが浮いてくることの多いサッカーでは、ボールが上に浮いてくる力を流すように

して手のひらや指先に乗せればゴールの外に持って行ける。しかし、ハンドボールではそうにはいかない。

身長と手の長さに加えてジャンプが加わるから、自分の頭の上からボールが叩きつけられるようにしてシュートが来る。

サイドに流すことは可能なのだが、それは角度のついたシュートを処理するときにしか通用しない。上から来るシュートに対しては

自分の体に当ててはじく方法しか無いんじゃないだろうか。だからこそポジショニングが重要になってくる。幸いにしてサッカーよりも

ゴールが圧倒的に狭いから、シュートコースを切るポジショニングが比較的やりやすい。どこに立つか、をもっと意識して掴もうと思う。

 

 三限は英語二列。大して面白くはない。必修の授業とはそういうものだ。

四限は比較芸術の授業で、駒場美術館へ。矢内原忠雄の特設展を見たり、秘蔵の展覧会カタログ所蔵室に入らせてもらったり。

カタログ所蔵室はなかなか面白かったが、以前に国立新美術館のカタログ所蔵室に入らせてもらった経験があるため、

量・内容ともにやや物足りなかった。もちろん、大学の中に4000冊ものカタログが所蔵された場所があるのは凄い事だと思うのだが。

 

 授業終了後、テラスのベンチで五月祭で出す模擬店の看板デザインをラフスケッチする。

何個か案が浮かんだがどれも実現にとても手間のかかるものばかりだ。普通でいいのに、よく分からないコダワリが邪魔をする。

 

なお、本日は『王権を考える 前近代日本の天皇と権力』(編集:大津透 山川出版社 2006年) を読了。

2005年11月に開かれた史学会シンポジウムの内容を纏めたもの。様々な時代を対象に「王権」「権力」などをテーマに分析が

為されている。少し前に退官された五味文彦先生の東西王権論(今回は殆ど東の王権に関する議論だが)も読めて面白い。

なぜこのような本を読んだかと言うと、日本史の本を定期的に読むようにしていることに加え、先日紹介したマルク・ブロックの

『王の奇跡』を読んでいて、日本の王権はどうだったのか知りたくなったというのが主な理由である。

日本史を紐解いて王権を考えることは、必然的に天皇制について考えることに繋がるはずだ。

というわけで講談社の『古代天皇制を考える 日本の歴史8』も併せて手元に置くことにした。

これを読むために、長い夜を覚悟してミントジュレップを作る。

ミントジュレップは五月初旬に開かれるケンタッキー・ダービーの名物カクテルで、ミントの葉をソーダーとシュガーシロップを混ぜた中で

潰しておき、それをクラッシュドアイスを一杯に詰めたグラスにバーボンウイスキーと一緒に注いで作るカクテルである。

単純だが、とても美味しい。夏を感じる日差しになると飲みたくなる。とはいってもいちいちミントの葉を調達してなんかいられないので、

今回は既成のミントジュレップを使用した。ベースはアーリータイムズである。これを氷を入れたグラスに注いでステアするだけ。

ミントジュレップ、即席バージョン。とても美味しい。度数もそれなりに高いので、夜中の目覚ましにもなる。

 先述の本は中々読むのに難儀しそうだが、このお酒と一緒なら良い気分で読めるだろう。

 

下の画像はちょっと前に頂いた百合。つぼみだったものが綺麗に咲いた。

部屋の中が百合の良い香りで満たされていて幸せである。

頂き物の百合。とても綺麗に咲いた。

珈琲礼賛

 

 

「コーヒー。ブラックで。」

 

 

 この台詞を違和感なく言えるようになったのはいつだっただろうか。

 

 中学の頃には、ブラックコーヒーなんて苦いタールみたいだと思っていた。

中学の頃の僕は紅茶派でしかも甘党だったから、多い目のミルクと砂糖、それに濃い目に淹れた紅茶の組み合わせで紅茶を飲むのが好きだった。

時々コーヒーを飲むことがあっても、ミルクと砂糖の大量投入は欠かせなかった。

とはいえ「ブラックで飲む」という行為は僕にとって大人な行為に映っていたし、正直言えばブラックで飲むことに多少の憧れを抱いていた。

女の子と喫茶店に行った時にはやはりシブい顔をして「コーヒー。ブラックで。」と頼むのがクールに違いない、とか真剣に考えていた。

残念ながら男子校の僕にそんな機会は訪れなかったが、たまに気取ってブラックを頼んでみるうちに、いつしか苦さへの抵抗は薄れていった。

 

 高二になって生徒会誌作成の激務に追われるようになってからはただ目覚ましの為だけにブラックコーヒーが必須になった。

カフェイン含有量はミルクを入れようが変わらない。しかし、ブラック特有のあの香りと、口に残る鋭さが頭を覚醒させてくれるように感じた。

 

 本当にブラックコーヒーを美味いと思えた瞬間と場所を、僕ははっきりと覚えている。

 

 それは、通い詰めていた出版社の近くにあった一軒の喫茶店だ。

薄暗くとても古風な佇まいで、表の看板には「コーヒー、褐色の魔女。」と書いてあった。一人だけで店を切り盛りするマスターが、

今ではあまり目にしないサイフォン式のドリップでコーヒーを出してくれる。(ケーキセットにすれば絶品の自家製フルーツタルトもついてきた。)

初めてこの店を訪れたとき、僕は史上最強に悩んでいた。いくら考えても表紙のデザインが思いつかない。

ぼんやりとは浮かぶのだけど、あっという間に拡散してしまう。そんなことを愚痴って時間を潰していた。

迷惑な客だったに違いないが、マスターは話を親身に聞いてくれたし、何時間でも居座らせてくれた。

途切れた会話の合間に飲む珈琲は美味しかった。

 

 そんな日が何日か続いた。

 

 転機は、ある平日の午後にやってきた。

その日は台風が過ぎた翌日で空が本当に綺麗だった。あんまり綺麗だから、いつものカウンターとは違う小窓の近くに席を取って、

いつも通りのコーヒーを頼んで表紙のデザインを考えていた。返却されたばかりの物理のテストにラフスケッチを書きまくる。

相変わらず僕は晩年のピカソが左足で書いたような絵しか書けない。絵心の無さに泣けてくる。

アイデアにも煮詰まってコーヒーに手をやったその時、褐色の珈琲の表面に青い空が映っているのが見えた。幻影だったかもしれない。

ともかく僕は慌ててコーヒーを流し込んだ。

この空を飲み干せば何かが閃きそうな気がしたからだ。

 

 

 青い空を浮かべたコーヒーは最高に美味しかった。

                                

                                        (つづく・・・?)