モーツァルトの41番、「ジュピター」を勉強している。
四楽章のあの有名な「ドレファミ」というジュピター音型(モーツァルトはこの音型を自身の最初の交響曲でも用いている!)
の神々しい美しさもさることながら、僕はこの二楽章を聞くたび、読むたびに心の中が掻き乱されるような思いを抱く。
楽譜を見るだけで涙が止まらなくなること、一度や二度ではない。
それはまるで舟上にいるような穏やかな陽射しに包まれた歌だ。
陽射しは燦々と注がない。雲の切れ間から柔らかく水面に反射しながら辺りを仄明るく照らす。
淡い平和、しかしその中に時折、「死」が顔を覗かせ、その冷たさに慟哭する。
モーツァルトに死が訪れるまで残り三年。この時すでに死を予感していたのか。
楽譜から、「まだ死にたくないよ、生きたいよ。」という心の奥底から溢れ出るような言葉が立ち上がってくる。
だが、その訴えはいつしかエネルギーを失い、最後には諦念が訪れる。
そして静かに死を受け入れ、空に吸い込まれ、消えゆく…。
だからジュピターを勉強しているといつも、キューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を思い出す。
一楽章は生と大地の音楽、二楽章は緩やかな死に至る歌。
三楽章のメヌエットは地上と天上の狭間、空へと連れてゆく天使たちの遊び。
四楽章はもう人間のものではない。天空、神々の音楽。
そういうふうに、「生と死」あるいは「大地と天空」を描いた曲のように思えるのだ。
そしてまた、陽射しではないのだけれど、二楽章を考えるたびに頭の中に浮かぶ光景に近い絵がある。
個人的に思い出深く、大切な絵の一つ。フェルディナント・エーメという画家の「サレルノ湾の月夜」(1827年)と題された絵がそれだ。
ドレスデン国立美術館に所蔵されたこの絵には、「生と死」「光と闇」「空と海」のように、矛盾あるいは背中合わせの何かが同居している。
ジュピターの二楽章、Andante Cantabileが描いているのはこういう世界だと僕は思う。