しばらく、指揮のレッスンではこの三曲を振っていました。
どれもベートーヴェンのよく知られたソナタ。そして、かつて自分でも弾いたことのある曲ばかり。しかし、これを指揮するとなると、
「こんなもんどうやって振るんや!」と突っ込んでしまいたくなるほどの難易度と密度を持った曲たちです。
ただ拍子を刻んでいるだけでは全く音楽にならないし、イメージに頼っているだけでは全く形にならないもので、
(ベートーヴェンの曲はどれもそうであるように)全てが有機的に結びついているため、どの一音も蔑ろにすることが許されない
厳格な曲ばかりです。
「じゃあ次までに勉強しておいで」師匠に言われて、帰ってさっそく悲愴の第一楽章を開けてみた時は正直絶望しました。
Grave、すなわち「荘重に、重々しく」という指示とともに書かれた和音。弾くというなら、それなりに音は出せます。(あくまでも「それなり」)
しかし、この重々しい和音のニュアンスを棒一本で果たして引き出せるのか?基本の動きは「叩き」です。しかし、Graveでしばらく持続
するこの和音を、どうやって出すのか。答えの出ないまま次回のレッスンに赴き、裂帛の気合を込めて振りおろした僕の棒が引き出した
音は、ただ音量が大きなだけで、重みもなく、残響にも乏しいものでした。
「違う違う。力任せではGraveの音は出せない。これは難しいから、よく見ておくように。」
笑顔でそう語ったあと、真剣な顔へと一転。そして80歳を優に超える師匠の、ゆっくりと上げられた腕から引き出された音は、
とんでもなく重く、分厚く、そして豊かな響きを持った音。空間にその音が響き渡り、場の温度や色が明らかに変わりました。
その一音だけで、感動から涙が溢れるのを止めることができず、身体の深いところにズザーン!とあの和音が浸透してきてじわじわと
広がってくるのを感じました。家に帰ってからもその音が頭を離れず、僕にしては珍しく、布団に入ってもしばらく眠りにつくことが
できないほどでした。
そうして四回のレッスンを終えて三楽章まで無事に進み、悲愴ソナタを何とか振り切ることが出来ましたが、師匠のあの鉛のような
和音には程遠かったと感じています。力も俊敏さも僕のほうが遥かに持っているはずなのに、四倍も歳の離れた師匠の出す
Graveのffには全く及ばない。指揮の不思議さと奥深さを改めて痛感することになったという点で、悲愴、そしてあの和音は
僕にとって忘れられないものになりました。