端的に言って、年が明けてからずっと、「祈り」ということを考え続けている。
久しぶりに高熱を出した前夜も、うなされながらずっとそのことを考えた。
翌日ふらつく頭で「展覧会の絵」とバーバーのアダージョを振りにいったときも、頭の中ではずっとこの問題が流れていた。
何か特定の宗教に関することではなく、行為としての「祈り」。彼岸の領域を超えるもの、生と死を繋ぐもの。
演奏するときに、指揮するときに特別な時間が訪れるのは、内面からこの「祈り」と言うほかない感情が溢れてくるときだと気付くのだ。
だとすれば祈りとは何か。祈りの宛先はどこか。いまだ言葉にはならないけれども、考えは徐々に形を取り始めている。
「指揮者としての私は、ただ音楽に奉仕する存在なのです」というカルロ・マリア・ジュリーニの言葉と、小林康夫の一文が重なり合う。
「祈りが目指している出来事に対して、祈る者は非力であるのでなければならない。
激しくそれを願うが、しかし願い祈る以外のいかなる世界内的可能性も絶たれている者にとってのみ、はじめて祈りは可能になる。」
物を書くとき、話すとき。それから指揮するとき。おそらくは何かしらの出来事を呼び込むという点において、「祈り」という身振りは全てに共通する。
だからこそ、この身振りに対して、僕は自分の人生を賭けようと思う。
…
新幹線の車窓から「天使の梯子」がふと見える。その中を舞い上がる飛行機の姿に感動する。
気付かないだけで、身の回りには奇跡的な出来事がたくさん宿っている。
今年一年は「祈り」という問題を考え続けながら、日常の奇跡に敏感でありたいと思う。
さあ、今から奈良でリハーサル。新しく沢山の人たちに会うだろう。
音楽に関わることが出来るということもまた、僕にとっては一つの奇跡なのだ。