シベリウスのヴァイオリン協奏曲のリハーサルを終えた翌日の早朝、
いまだ鳴り響く三楽章をリフレインしながら、日が昇る前に出発して友人たちと三人で千葉までドライブ&プール&温泉に行ってきた。
早朝の「海ほたる」で珈琲を飲みながら作品とタイトルをめぐる議論。
水の中で散々笑ったのちに真面目な話を少し。駆け出しながらも表現に携わる人間として、どうやって生きて行くのか。
それぞれジャンルは違えども、表現することに限りなく魅かれて止まない。
美学と志を分かち合える良い友に恵まれた、としみじみ思う。
日が沈むころ、千葉の温泉から新木場まで送って頂いてリハーサルに直行。
僕がいない間の分奏では気心知れた奏者のお二人が素晴らしいリードを取って下さっていて本当に助かった。
指揮したのは芥川也寸志のトリプティークと真島俊夫の三つのジャポニスム。
温泉宿で芥川也寸志を指揮する、という体験を昨年にしたのだが、温泉に行ったその足で芥川也寸志を振るという体験を今年早々にするとは思わなかった。
ジャポニスムのリハーサルでは、鳥肌が立つ瞬間を味わう。
一つのイマージュを共有することで音の質が(身体の使い方も含めて)がらりと変わるのだ。
音符が詩情を得て活き活きと響き始める。 その瞬間の感動に震えるばかり…。
翌日、月曜日。
もう長い付き合いになるヴィオラの友人と二人で、ピアニストのグルダの命日にしてモーツァルトの誕生日を祝って飲む。
リハーサルでもっとコミュニケーションできるはずだ、という彼の言葉に深く頷く。
いちばん良い棒を振ることは当然ながら、棒以外の手法を加えて、たとえば三時間のリハーサルをもっと充実した三時間にすることができる。
飛び交うコミュニケーションを逃さないようにしよう。指摘する事を躊躇していては前に進めない。
良い意味で遠慮を捨てることも時に必要なのだ。
一緒に過ごしてくれる人、力になってくれる人、指摘してくれる人…たくさんの人に支えられて今があることを思う。
一人でいる時間無くして僕は生きて行けないが、一人で生きて行けるわけではない。
孤独の中で強靭に練り上げつつ、場を共にしてくれる人たちとその場で即興的に柔軟に作り上げる。
音楽(に限らず多くの表現行為)の難しさと楽しさはたぶん、火と水を同居させるような、こうした試みの中に宿っているのだろう。
空気から鋭さが消えた。
一月がもうすぐ終わる。春だ。