大学院に進学して、最初の半年間はボードレールを集中的に勉強しようと思っている。
卒業論文で十九世紀の感性史を扱って以来、ボードレールの及ぼした影響力というのが強烈であることを実感したし、結局のところ十九世紀後半の芸術は
何をやっていても(今レッスンで振っているドヴォルザークの九番「新世界より」を勉強していも!)ボードレールの影がどこかに現れてくることが分かった。
そういう思いで阿部良雄『群集の中の芸術家 -ボードレールと19世紀フランス絵画-』(中央公論社)を読み進めていたら、懐かしい絵に巡り会う。
ドラクロワの「シュヴィッテル男爵の肖像」。
右も左も分からぬ大学一年生の四月、最初の授業であった「基礎演習」でスーツに関する表象文化史に取り組んでいたころ出会った絵だ。
はからずも大学院一年生の四月にまたこの絵に出会った事には、不思議なものを感じずにはいられない。
コンテクストは違えど、五年という時間の中で自分の興味関心が一巡りしたのだろうか。
そして、同時に、種々の関心の底にあった関心(それはたぶん、「モデルヌ」の雰囲気への興味だ)が浮き上がって来た気がする。
それにしてもこの本は面白い。
「立ち居振る舞いの驚嘆すべき確実さとのびやかさ、それに加えて、この上もなくあたたかな人の好さから、まったく非の打ち所のない慇懃無礼に至るまで、
まるでプリズムのようにあらゆるニュアンスを使い分ける行儀の良さ」を獲得していたドラクロワに、ボードレールは憧れとダンディスムの理想を抱いていたという。
『現代生活の画家』に見られるように、ボードレールにとって
「ダンディスムとは、思慮の浅い多くの人々が思っているらしいような、身だしなみや、物質的な優雅を度外れに追求する心というのともまた違う。
そうしたものは、完璧なダンディにとっては、自分の精神の貴族的な優越性の一つの象徴にすぎない。」
のであり、情熱的で激しやすい魂を内に秘めながら、いかなる場合にも決して節度を失うことのない自己規律と自己統御、
いわば「精神的ダンディスム」であったという。
この言葉で言い表されるものは、現代においても「表現」に携わる者にとって極めて重要だろう。
少なくとも指揮を学んでいる身には、これほどまでに的確な言葉は無いのではとも思える。
かつては楽譜や音楽から感情を感じることが難しかったが、今は違う。
感情が湧き上がってきて、そこに飲み込まれてしまいそうになることがある。
そういう時に師は決まって「やりすぎだ」と指摘するように、感情に突き動かされながらも、しかし没入してはだめなのだ。
節度を失うことのない自己規律、三人称の視点をどこかに持つこと。
「精神的ダンディスム」という言葉は、こうした情熱と冷静のバランスのあり方を的確に表現しているように思われて、今の僕には鋭く響く。
四月、大学院生としての生活が始まる。
「学究の道はたいへんなことも多いものですが、険しい道をのぼった分だけ眺めの良い高みに到達することができます。」
そんな素敵な言葉を下さる学問上の師にも巡り会えた。指揮の師が文字通り命の炎を燃やして伝えて下さることも全身全霊で吸収せねばならない。
音楽と学問の間を彷徨う日々、とはもう言わないようにしよう。音楽と学問の間を往来し、触発できるように。
高邁な怠惰、精神を緊張させた日々の中で、精神的ダンディスムを少しでも獲得できるような一年にしたい。