昨夜の後輩のレッスンで、久しぶりにシューマンの「子供の情景」を聞いた。
「子供の情景」は我々の指揮法教室で必ず経験する曲で、ここからようやく「音楽」することを教わるといっても過言ではないだろう。
それだけにこの曲集は特別なのだ。僕が教わったときもそうだったけれど、指揮という芸術はこんなことが出来るのか、と感動せざるを得ない。
87歳となった師がこの曲をどう教えるのか出来るだけ近いところで見ていたくて、師の横で譜めくりをしながらレッスンを見ていた。
最初から最後まで、溢れてくる涙を止めるのに必死だった。
あと何回、師の指揮するこの音楽を聞く事が出来るのだろう。第一曲目のVon fremden Ländern und Menschen(見知らぬ国々と人々について)を
振りながら、「目にするもの全てが見知らぬもの、目新しいもの。そんな地に足を踏み入れた子供はどう思う?」と語る師を、あるいは
第二曲目のKuriose Geschichte(珍しいお話)で「君の振っている音楽だと珍しくないねえ。もっと珍しくしてごらんよ」と笑う師を、あと何度見る事が出来るのだろう。
そして第四曲目のBittendes Kind(おねだり)を愛おしそうに紡いで行く皺の刻まれた師の大きな手。
音が包まれていくように、あるべき場所にあるべきスピードと情緒でふわりと到着するのを霞む目で見ながら、今まで過ごして来た時間を振り返った。
この曲集を教わってからもう三年が経つ。
ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク…たくさんの曲を、そして巨大な曲を振るようになるにつれ、
自分の手から溢れてしまう苦しさや、リハーサルで上手く音楽を作れなかった悔しさを味わった。
どうして僕は指揮をしているのだろう、と自問したことも何度もあった。
けれどもやはり。音楽を、指揮をすることは感動的で、楽しくて、温かい。
指揮という営みの楽しさと限りない可能性。「子供の情景」は、そのことを痛切に味合わせてくれる。
おそらく何十年先になっても、子供の情景は僕にとって立ち返るべき原点としてあり続けるだろう。
棒の一振りで音楽が息づき、色とりどりの宝石のように輝き始める。
夢見るようなロマンを湛えて詩人が語る。
全てはここから始まったし、全てはここにあった。