November 2012
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砂原伽音さんのバレエレッスン

 

モスクワで学び、日本をはじめ世界で活躍するバレリーナ、砂原さんのバレエレッスンを見学させて頂きました。

砂原さんとは僕が指揮した「ブラジル風バッハ四番」を聞いて下さった(そして、なんとそれに振り付けを付けて下さった!)ことから

知り合いました。人の縁とは本当に不思議なものだと思わずにはいられません。

 

そして夕食をご一緒させて頂いた際に、11月25日の駒場祭にてチェロ・オーケストラで「ブラジル風バッハ一番」をやります、とお伝えしたところ

そのリハーサルの見学に砂原さんが来て下さり、こんな感想を下さいました。

 

木許さんの音で、ブラジル風バッハのリハーサルを聴いてきた。惚れてしまって、振付してしまったほどに、だいすきな曲。思わず涙が…。リハーサルでこんなにも生き生きと演奏できるのは指揮者が持っている魅力にあるのか、奏者全員が指揮者を信じて、彼の動きや表情を見て、奏者は揃えて音を出していて…。バレエのリハ(コールドの場合)では、このようなモチベーションでいられるのはありえないので新鮮だったし素敵だった。指揮者の指示ひとつひとつに反抗せず、自分への貴重な言葉だと受け止めて、指揮者を納得させてやる!では無く、良い音を出したいという気持ちで、心からの音を出す奏者達は素敵だった。

 

駆け出しながらも指揮者としてこのような感想を頂けるのはこれ以上無い幸せの一つで、

苦しいことは沢山あれど、これからも頑張って音楽と向き合っていこうと身が引き締まる思いをしました。

 

では僕は、バレエから、砂原さんのバレエレッスンから何を学ぶ事が出来るか。

バレエの曲をいくつかレッスンで見て頂いたことはありますが、バレエの実際の所については恥ずかしながら全くの無知。

けれども指揮とバレエに共通点が沢山あるだろうという予感は以前から抱いていたため、限りなくワクワクしながらスタジオに向かい、

いざレッスンが始まると夢中になってメモを取っていました。

 

 

まず全体に思ったのは、バレエは「合理的で自然な美」だということ。

一つ一つの動きが計算されていて、観客の視線を受け止めるに耐えうる美の強度が目指されている。

肩甲骨、背面、アキレス腱、指の先(指を見よ!と何度も指導されていました)、足指の人差し指の側面…

軸から先端に至るまで、身体の隅々まで意識が巡らされています。

このように書くと何だか「ややこしい」もののように思えてしまいますが、砂原さんがお手本を見せて下さるとそれが自然で、

この手は・この指先はここに無ければならないという納得や確信を与えてくれる。

指揮の師匠がいつもおっしゃる「技術を忘れた所に本物が宿る」という言葉と同じものを見た気がしました。

 

 

何より、バレエは佇まいと軌道が美しい。

肩甲骨を洗濯バサミで引っ張られるように/内股の筋肉を合わせてその軌道を通るように/骨盤を呼吸させよ/と指導されていたのが印象的でしたが、

そうしたイメージによって身体を構築しながら、先端だけで動かすのではなく、付け根から動かしにかかることが大切にされていたように思います。

動きの中には確かな「アクセント」があって、全てをがしゃがしゃと動かすのではなく、固定すべきところを固定し、動く所を限定して「魅せる」。

くるりと回る「ピルエット」を間近で見たのは初めてだったのですが、まるで風に吹かれたように回るその動きは、

軸がぶれずに動きの中で動かない場所が明確であったという点で美しいもので、

自分の軸を中心とした円空間が「支配している領域」として可視化されるような錯覚を覚えました。

身体を回したときや足を大きく回したときの軌道はもちろん、残像すら美しい。

次々と展開される動きに、過ぎ去った軌道の残像がオーバーラップする。

過去と現在(そして未来)が眼前で交錯して行くその鮮やかさに息を呑みます。

 

一方で、動の中に静を取り入れることと並行して、静の中に動を含ませることの必要を感じました。

たとえば「アラベスク」のようにピタリと「静止」した姿勢にあっても、静止の要素が入り込みすぎるとダメで、

静止の中でも次の動きへの予感が含まれていないと動きが死んでしまう。

脱力の中で「動性を静性の中に混じらせる」=「静の中に動を予感させる」というのは

今年の七月から今に至るまで、指揮する上で意識していることでもあったので、とりわけ興味深いものがありました。

 

そしてまた、「滑らかな時間」がその動きの中に混じっている事も発見しました。

「滑らかな時間」というのは、フランスの哲学者・ドゥルーズや作曲家・指揮者のブーレーズが使っている言葉で、

個人的に共感出来るところが多く、(少し変形してしまっているとは思いますが)音楽やスポーツをやる際には僕も好んでこの言葉を使っています。

簡単に纏めてしまえば、拍通り・メトロノーム通りの時間(=「条理の刻まれた時間」)に対してパーソナルな時間のことで、

規則正しく流れている時間からの逸脱だと言えます。逸脱ではあるがしかし、拍通りの時間の中でこの逸脱を展開することによって「自然な」伸縮が生まれる。

本来無いはずの「一瞬」を生成し、掴み、異なる時間を定められた枠の中で展開させることによって、

「いまのは何だったのか?」という、宙づりにされたような感覚が生じるのです。

プリエで生んだ時間・空間を使ってピルエットを仕掛けるところはまさにそういう瞬間で、

いち、にい、さん。という規則正しい時間の中にいくつもの速度や時間感覚が含まれていました。

 

 

帰り道、丁寧に子供達を指導し、時々お手本を見せて下さる様子を思い出しながら、

そういえば砂原さんがお手本を見せて下さる時には身体の「重さ」を感じなかったなと気付きます。

しっかりと足は地についているのに、重さを感じない。重力を使いつつ重力から自由で、

この瞬間に地面が消えたとしてもそのままふわりと浮いてしまいそうな鳥のような軽さ……。

それはとても不思議で、美しい時間でした。

 

 

空を見上げたくなるような秋晴れの一日、バレエという芸術の面白さと共に、

異なる芸術から学び・比較し・重ね合わせ・応用する楽しみをまた一つ味わいました。

お誘い頂いたことに心から感謝します。砂原さん、本当にありがとう。これからもご活躍を!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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