この間のレッスンで見た、ブラームスの交響曲第一番三楽章、第二括弧からの師匠の振りが頭から離れない。
ある小節で、本来あるはずの場所から手が消えた。シンプルなその動きのまま、ふっと風に吹かれたかのようにワープした。
筋目の入った時間からすり抜けて、滑らかな時間へとその身を移し、時間が追いつくのを悠々と待っていた。
その動きに対応して、音があとから吸い付いてくるのが見える。リタルダンドでもパウゼでもない、フレーズの絶妙な収まりと始まり。
四小節の中での支配―非支配の関係が、基礎的な拍感に対応していた。強を支配し、弱を任せ、強のために懐を開けて待ち構える。
縛られている感覚は一切ない。モノが自然の理に従って本来辿り着くべき所にふわりと落ちるような、これ以外ありえないと思える心地よさ。
一小節、いや、一拍たりとも同じ振りは無いが、余剰は無い。これは削りの芸術、削りの至芸だ。
何かを付け加えるのではなく、基本の動きを徹底的に削り続け、磨き続けた結果、些細な変化が際立つ。
飾り立てるのではない。押し付けるのでもない。
磨き、削ることによって生まれる、大吟醸の香りのような豊穣な美しさだった。
「そういえば、指揮を教え始めて五十二年になるんだなあ。半世紀だ。」と八十六歳の師は笑って語る。
半世紀ものあいだ、一つのことを追い求め続けて生きることの難しさはどれほどか。
ましてや一本の棒と自らの身体だけで臨む、指揮という形の見えぬ芸術を。
その一振りに半世紀の歳月が宿る。衰えるどころか、さらに深まる削りの美。
巡り会ったからには、師が人生を賭して磨き続けるものを全身全霊で学ばねばならぬ。