ベートーヴェンの交響曲、一番・二番と終えて今日から四番に入った。
四番は僕がクラシックの世界に再び足を踏み入れるきっかけになった思い出の曲。
この曲を今こうして教わり指揮することになるなんて、当時は夢にも思わなかった。
四番のスコアを開き、神聖な序奏の部分を目にするたび、名状しがたい幸せを感じる。なんて良い曲なんだろう…。
師匠に「君なら暗譜出来るだろう。暗譜でやってごらんよ。」と言われてから、一番、二番ともに暗譜で全楽章通してきた。
暗譜の必要は決してないのだけれど、暗譜することで(言い換えれば、暗譜したと言えるぐらい勉強することで)
確かに楽譜から自由になれる。師匠はそういうことを教えようとして下さったのだな、と気付く。
もとより本を写真のように読むタイプなので、楽譜を暗譜することには抵抗を感じない。
本と同じように映像として頭の中に落とし込んで、最終的にはそれを「忘れて」指揮台に立つ。振るのは音楽であって音符でないからだ。
果たして九番まで全て暗譜で振れるかどうかは分からないが、全曲暗譜するぐらいの心づもりと気迫で臨まなければならない。
二月に入って、自分に残された時間が限られている事を知っている。
だからぐいぐいと曲を進めて行くけれど、時には自分から立ち止まり、立ち戻らなければらない。
ベートーヴェンの交響曲に入ってから楽譜研究に割く時間が多くなったぶん、
そしてベートーヴェンに必要な「力」を伝えようと苦心するぶん、基礎が乱れつつあるはずだ。
たとえば棒の持ち方、叩きの圧の入れ方。エネルギーは必要だが余計な力は必要ない。
弱拍で叩きの力を逃がしても手首を使わないことだ。文字通り「小手先」はやるべきではない。
指揮棒はまずもって腕の延長としての動きを為さなければならない。
常に腕でコントロールするものであって、手首は最終手段、あるいはここぞという場面で使うべきなのだ。
腕の力だけでシンプルに、自然な落下速度とその音に必要な圧をもってセンターで確実に叩く。
奏者がアンブシュアを鏡で確認し、スケールやロングトーンを必ず練習するように、
指揮者も鏡で棒の持ち方をきちんと確認し、各拍子の叩きとか平均運動をちゃんと練習しないといけない。
いかに色々表現しようとしていても、奏者に「伝わる」棒を振らなければ意味がない。
「音楽は深く、指揮は明解に!」という師がその生涯を通して大切にし続けている言葉の通り、
応用になればなるほど、基礎に立ち返らなければならぬ。
今日からまた寝る前の叩き100本を再開していこう。スポーツも音楽も同じ、基本がいつも大切!