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今年も志賀高原へ。

 

ドミナント・デザインチーム&オーケストラのメンバーと共に、今年もまた志賀高原へスキーへ行ってきます。

僕にとってスキーと言えば志賀高原で、一年に一回は必ず、山々が連なるあの雄大な景色に身を置いてみたくなるのです。

雲の上までリフトで運ばれ横手山の山頂から遠くを見渡すとき、広大な風景を臨みつつ焼額山から一気に麓まで滑り降りるとき、

「自分は今ここで確かに生きている」ということに幸せを感じずにはいられません。

 

 

サーフィンと同じく、自然に遊んでもらっているということを忘れないようにして、

気心の知れた仲間たちと共に、白銀の世界へ行ってきます。

 

 

鮮やかな静寂

 

春の気配が少しずつ忍び寄る二月の夜。

ひとりで街を歩いていたら、辛棄疾の「青玉案 元夕」という漢詩を思い出した。

 

東風夜放花千樹

更吹落星如雨

寳馬雕車香滿路

風簫聲動

玉壺光轉

一夜魚龍舞

蛾兒雪柳黃金縷,

笑語盈盈暗香去。

衆裏尋他千百度,

驀然回首

那人却在

燈火闌珊處

 

「春風が夜に限りなき光の花を咲かす。風はさらに吹き散らす。夜空の星を雨のように。」と灯籠を描写した冒頭、

「白粉の香りが道に溢れる」と続け、「密かな香りとともに去って行った多くの美女のうち、或る一人を追いかけて何度無く大通りを行き交う」

という心の揺れ動きが示されたあと、「でも見失ってしまった。がっかりして振り向く。するとその人は静かにそこに佇んでいた。灯火の届きにくい、目立たぬ暗闇に。」

 

スビト・ピアノ。こうして陰影と静寂へと一気に情景を変える。

暗闇に息を呑む。遠ざかって行った白粉の香りが、途端に鼻元に立ちこめる。

風の肌触り、揺れる灯籠の光、聞こえる喧噪、流れてくる女性の香り…。

想像力に溢れ、五感を刺激する。何という世界の豊かさ。その鮮やかな静寂に絶句する。

 

 

 

 

ささやかな幸せに寄す

 

書き散らした文章を読んで、あなたの文章が好きだと言ってくれる人がいること。

珈琲を淹れる相手がいるということ。音楽を出来る場所があるということ。

 

 

 

 

常に基礎に立ち返る。

 

ベートーヴェンの交響曲、一番・二番と終えて今日から四番に入った。

四番は僕がクラシックの世界に再び足を踏み入れるきっかけになった思い出の曲。

この曲を今こうして教わり指揮することになるなんて、当時は夢にも思わなかった。

四番のスコアを開き、神聖な序奏の部分を目にするたび、名状しがたい幸せを感じる。なんて良い曲なんだろう…。

 

 

師匠に「君なら暗譜出来るだろう。暗譜でやってごらんよ。」と言われてから、一番、二番ともに暗譜で全楽章通してきた。

暗譜の必要は決してないのだけれど、暗譜することで(言い換えれば、暗譜したと言えるぐらい勉強することで)

確かに楽譜から自由になれる。師匠はそういうことを教えようとして下さったのだな、と気付く。

もとより本を写真のように読むタイプなので、楽譜を暗譜することには抵抗を感じない。

本と同じように映像として頭の中に落とし込んで、最終的にはそれを「忘れて」指揮台に立つ。振るのは音楽であって音符でないからだ。

果たして九番まで全て暗譜で振れるかどうかは分からないが、全曲暗譜するぐらいの心づもりと気迫で臨まなければならない。

 

 

二月に入って、自分に残された時間が限られている事を知っている。

だからぐいぐいと曲を進めて行くけれど、時には自分から立ち止まり、立ち戻らなければらない。

ベートーヴェンの交響曲に入ってから楽譜研究に割く時間が多くなったぶん、

そしてベートーヴェンに必要な「力」を伝えようと苦心するぶん、基礎が乱れつつあるはずだ。

たとえば棒の持ち方、叩きの圧の入れ方。エネルギーは必要だが余計な力は必要ない。

弱拍で叩きの力を逃がしても手首を使わないことだ。文字通り「小手先」はやるべきではない。

 

指揮棒はまずもって腕の延長としての動きを為さなければならない。

常に腕でコントロールするものであって、手首は最終手段、あるいはここぞという場面で使うべきなのだ。

腕の力だけでシンプルに、自然な落下速度とその音に必要な圧をもってセンターで確実に叩く。

 

奏者がアンブシュアを鏡で確認し、スケールやロングトーンを必ず練習するように、

指揮者も鏡で棒の持ち方をきちんと確認し、各拍子の叩きとか平均運動をちゃんと練習しないといけない。

いかに色々表現しようとしていても、奏者に「伝わる」棒を振らなければ意味がない。

「音楽は深く、指揮は明解に!」という師がその生涯を通して大切にし続けている言葉の通り、

応用になればなるほど、基礎に立ち返らなければならぬ。

今日からまた寝る前の叩き100本を再開していこう。スポーツも音楽も同じ、基本がいつも大切!

 

 

 

 

 

 

The Place Where We Are Right.

 

From the place where we are right Flowers will never grow In the spring.

The place where we are right Is hard and trampled Like a yard.

But doubts and loves Dig up the world Like a mole, a plow. And a whisper will be heard in the place Where the ruined House once stood.

 

 

 

J'ai simplement voulu dire…

 

おべっかでも政治力でも焦りでもない。そこにあるのは敬意だけだ。

 

Beethoven Sym No.2 -2nd movement

 

ベートーヴェンの交響曲のレッスンに入り、はやくも一番を終えて二番に取り組んでいる。

この曲の二楽章が僕は心から大好きで、ベートーヴェンのあらゆる交響曲の二楽章の中でも特別な思いを抱いている。

 

Larghettoという「モーツァルトが最高に美しい緩徐楽章のためにとっておいたテンポ」で描かれるこの音楽は、

あのベルリオーズが「若干の憂鬱な響きがあるにしても、ほとんど曇ることのないような純粋無垢な幸福な描写だ」と

書き残したように、まるで夏の夕暮れに広い景色を前にして歌い上げるような幸せに満ちている。

いつしか陽は沈み、雲がやってきて温かい雨を大地に降らす。

けれども朝には雨は上がり、穏やかに昇る太陽が草木の上に零れた滴を照らすだろう。

夏の朝、生命力に満ちて世界が輝く。

 

 

ランボーの『イリュミナシオン』に所収されたL’aubeという詩を思い出す。

 

J’ai embrassé l’aube d’été.

Rien ne bougeait encore au front des palais.

L’eau était morte.  Les camps d’ombres ne quittaient pas la route du bois.

J’ai marché, réveillant les haleines vives et tièdes, et les pierreries regardèrent, et les ailes se levèrent sans bruit.

 

僕は夏の黎明を抱きしめた。

宮閣の奥ではまだ何物も動かなかった。

水は死んでいた。陰の畑は森の道を離れなかった。

僕は歩いた、鮮やかな暖かい呼吸を呼びさましながら。

すると宝石たちが目をみはった。そして翼が音なく起きいでた。……..

(「黎明」 訳は岩波文庫、堀口大學によるもの)

 

 

あるいは、同じくランボーのSensationを。

 

Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,

Picoté par les blés, fouler [...]