レオノーレ三番を終え、いよいよベートーヴェンの交響曲第一番に取り組んでいる。
ベートーヴェンに入ってみて明確に分かったことが一つある。それは音の「密度」の問題だ。
そして音の「密度」こそがテンポやダイナミクスの限界レンジを決定づけているように思う。
たとえばレオノーレ三番やベートーヴェン一番冒頭のAdagioの部分。
フルトヴェングラーぐらいのじっくりしたテンポで僕が振るとその重さに耐えきれず、流れが消えて鈍重になってしまう。
しかし同じテンポであっても先生が振って下さると、流れが見え、緊張感を放ちつつ悠々として音楽が進み始める。
重さに意味がある、と言えばよいのか。一つ一つの音の中身がぎっしり詰まっていて
(まるで一つの音符・和音の中に無数の小さな音符がぎっしり充填されたような!)音と音の合間に隙間が見えない。
だからあのテンポに耐えきれる。耐えきれるどころか雄弁になる。
そこにはもちろん、86という年齢を迎える師匠の深い深い呼吸も影響しているのだろうが、それだけではなく
引き出されている一つ一つの音の「密度」が全く違うのだ。
師の棒でブラジル風バッハ四番前奏曲を弾いたあるヴィオラ奏者がこう言っていたことを思い出す。
「今まで出したことのないような音が楽器から出た。伸ばしの音を弾いている間に水墨画のような空間が見えた。」
棒だけで音の密度を高めうる。
どうしてそんなことが起こるのか、感覚的には分かりつつあるのだが、まだ上手く言葉にすることは出来ない。
ベートーヴェンの偉大な九曲の交響曲をレッスンで見て頂く過程で師から何としても学ばなければ(盗まなければ)
ならないものの一つは、この「密度」の表現だろう。
ベートーヴェンの先にはブラームスの四曲が聳え立つ。
5月にはプロでブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」を振ることにもなった。
どれもベートーヴェン以上にこのことが問題になる曲ばかり。
2012年は音の「密度」をテーマに、指揮というこの底知れぬ芸術を学んでゆく。