昔から「広告」に興味があった。
心を動かし、コミュケーションを作り、欲望をコントロールするもの。
しかしある日からそうした広告、とりわけ広告の仕組みや広告を語る人たちの言説に違和感を感じるようになった。
この違和感は何なのだろう?言い方は良くないが、偽善的な、というかワザとらしい感じを受けるようになったのだ。
まるで、落とし穴にハメられたあと、落とし穴の作り方を上から得意気に解説されるような気持ち悪さ。
恋に落ちてゆく過程と仕組みを第三者に「ほら、このイベントがこういうふうに君の気持ちを動かしたからだよ。」と説明されるような居心地の悪さ。
この問題についてある人と話していて、朧げな答えが出た。端的に言えば、そうした心に訴えよう訴えようとする行為があざといのだ。
心に働きかけるという意味では広告と音楽は似ている。「move=動く、感動する」させるものだから。だが、心に働きかけるやり方が対極にある。
もちろん全てはないが、心に波を起こして(ボードリヤール風に言えば、欲望に働きかけ)行動へと繋げさせるその仕組みを作るのが広告だとすれば、
一方で音楽(これも全てではないが、少なくとも僕が目指す音楽)は、その正反対だ。心に訴えかけよう訴えかけようとする音楽はあざとく、下品だろう。
もっと自然で、自然と心に届く。その結果として感動がある。最初っから感動を狙ってやるものではない。
すなわち、広告と音楽は働きかける対象を同じにしながら、ある意味で正反対の性格を持つ。
それゆえに僕は広告に惹かれ、音楽を学び始めるのとほぼ軌を一にして広告に違和感を感じ始めたのだろう。
それだけではない。広告に関わる、というのはそれだけでメタな次元、一段階高い次元にその身を置きうる。
だからこそ、僕らと同年代の学生たちが、同年代の我々を引っ掛けて落とそうとする仕組みをしたり顔で書いていることにある種の醜さすら感じてしまう。
しかもその言説が有名な広告家の言葉を借りただけであったり、見るからに書き慣れない修辞やメタファーに満ちた文章であったりする!
その上から目線(がどうしても含まれてしまう)にどうしようもない違和感を覚えるのだ。
昔は広告が作り上げられて行く過程や分析に興味があった。
いまはむしろ、そういう背景を見たくないなと思う。欲望を掻き立てられるなら、自然と掻き立てられたように錯覚したままでいさせてほしい。
手書きの手紙を貰って感動した後に「やっぱり手書きだと濃密なコミュニケーションを作る事が可能だよね。」なんて言われたくないし、
モーツァルトが「ほら、ここにこの和声を入れたら聴衆は感動すると思うんだよね。」なんて得意顔で話しながら曲を作っていたとしたら、興醒めだ。