シューマンの曲集に『子供の情景』というものがあります。
ピアノをある程度習っていた方なら一度は弾いたことがあるはず。子供の情景、と言われてピンとこない方でもこの曲集の中に
収められている「トロイメライ」を聞けば「ああ、聞いたことある!」と思われることでしょう。どれも夢見るような、風景や情景が浮かぶような
曲ばかりで、シューマンいわく「子供心を描いた、大人のための作品」とのこと。技巧的にはさほど難しくはありませんし音もそんなに
多くはないのですが、これを「音楽」として表現しようとするとかなり深い読みが必要とされてきます。
このように「子供の情景」には演奏者が表現する余地がたっぷりと残されているので、コルトーやアルゲリッチ、エッシェンバッハと
新旧を問わず様々な大ピアニストたちが独自の表現を展開して録音を残してきました。
僕もかつてこれを一通り弾いた(というか今振り返ってみると、「音を鳴らした」だけでした。)経験があるのですが、今度は
弾くのではなく、振っています。というのは、僕が所属している門下では、斉藤秀雄の指揮法教程の練習題が終了するとこの
「子供の情景」を振る練習をするのです。弾くのも難しいのですから、振る(=自分で音を鳴らさず、引き出す。)のはその何倍も
難しい。そして音が少ないからごまかしは効きません。テンポの微妙な揺れ、音楽の膨らみ、そして情景。そういったものを細かく細かく
棒の動きの中に込めて演奏者に伝達していかねば、「子供の情景」は真の意味で《音楽》にならないのです。
師匠に「ほら振ってごらん。」と言われるままに、一曲目のVon fremden Ländern und Menschen「見知らぬ国々と人々」を
振ってみて愕然としました。流れてくる音楽の何と平坦で面白くないこと!聞くに堪えないただの音の羅列!
それに対して、師匠が笑いながら「それじゃ駄目だね。こうだよ。」といって振ってくださったときに流れてくる音楽のとんでもない美しさ!
指揮台の上で文字通り言葉を失いました。夢見るようで、どこか違う世界に入ってしまったようで、繊細で詩的。振り方を見なければ
いけないはずなのに、思わず目を閉じて音楽を聞いていたくなる。こんなに素敵な曲だったのだ、と我を忘れてしまう。
振りを見ていても、ただの一瞬も同じ振り方をする小節はありません。たっぷりと余裕を持ちながら曲の中に入り込み、
しっかりと間を取りながら細かく自然にテンポや音量を動かしていくその様子は、指揮棒と生まれてくる音が見えない糸で
繋げられているように感じられるほどです。そしてこうした境地には、頭や手先の技術を用いて調整したとしても達しえないでしょう。
こうした表現の核には「自然さ」が必然的に要求されるからであり、師匠が述べるとおり、「究極的には、音楽をどう感じるかだ。」という
《感じ方》の問題なのです。
目を閉じれば情景が浮かぶ。そんな生ぬるいものではありません。そこで展開される音楽は、強制的に人をその情景の世界に
連れてゆく。二曲目のKuriose Geschichte「珍しい話」の冒頭のリズムが聞こえ、Träumerei「トロイメライ」の和音が空間を満たし、
Fürchtenmachen「こわがらせ」の四小節が耳に届いた瞬間、聞くものは別の世界に投げ込まれる。それほどまでに吸引力のある
音楽が、たった棒一本から生まれ出るのです。その様子は衝撃的なものであり、師匠のお手本を目の当たりにするたびに
感動のあまり何故か笑いが込み上げてきます。誇張抜きに、フレーズが変わるたびに教室の空気の温度が変わるように感じられます。
そんなレベルに僕はまだ達することが出来ませんが、とにかくも『子供の情景』がこれほどまでに深い曲であることを、振っているうちに
痛感しました。とはいえ、悪戦苦闘しながら朝から夜までこの曲のことで頭が一杯になる三週間を過ごしたおかげで、いくらか表現力が
身に着いたのは確かでしょう。「表現力」―そう、指揮者は表現力と伝達力をフルに発揮することが重要なのであり、そのためには型から
脱しなければなりません。つまり、型はとても重要だけれども、型にはまっている限りは音楽は音楽にならないということです。
「《型に則りながら型を脱する》なんてまるで禅問答みたい。」と思われるかもしれませんが、指揮というのはそうした抽象的な技術と
思考の積み重ね、そしてその不断の実践によって成り立つ芸術なのだと思います。こうした「分からなさ」が、ある意味では指揮の
魅力の一つであり、この「分からなさ」が生みだす面白さに、僕はどうやらすっかり取り憑かれてしまっているようです。