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三木清『語られざる哲学』(講談社学術文庫,1977)

 

なんとなく三木清を読んでいる。

西田幾太郎の弟子にしてドイツ語とフランス語を自在に操り、横断的な思索を巡らせ続けた三木清。

暗い時代に生きた彼は、48歳という若さで獄中にして非業の死を遂げる。

彼がじっくりと読むべき日本の偉大な哲学者のひとりである事は間違いないだろう。

 

全集を読み始めたばかりの僕が三木清の哲学についてあれこれと語ることは出来ない。

だが、三木清の文章はどれも美しく、強い言葉であって、漫然と生きている自分に強く刺さってくる。強靭な意志の力を感じずには

いられない。以下に三木清自身の文章を『語られざる哲学』(講談社学術文庫)より、四つほど引いておく。

 

 

「真の懐疑は柔弱ではなくて剛健な心、自分自身をも否定して恐れない心、ヘーゲルの言葉を用いるならば真理の勇気

(Der Mut der Wahrheit)をもった心において可能である。それは戦士のような心のことであって掏摸(すり)のような心のことではない。」

 

「私は樹から落ちる林檎を見て驚異を感ずる心よりも空に輝く星を眺めて畏敬の情を催す心をもって生まれた。

幸福なことには、私は美しき芸術を感じ、正しき真実に驚きよき行為を畏れる心を恵まれていた。私の哲学はこの心から出発するであろう。

そしてこの心が私をして子供のような無邪気さをもって闇の空にではなく大きな青空に夢み出させた。

また私の純粋さはこの夢において保たれて来た。」

 

 

「私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。

凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾っ てその中へ投げ込んでいる。

その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、

ある者は活快 に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。

彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に 限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は

気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠 が次第に満ちて来るのを感じたとき、

もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかな かったとき、

彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに検べ始める。検べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと

思って拾い上げた ものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを

発見して、一つとして取るに足るもの のないのに絶望する。しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、

破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に浚っ て 行くときは来ておる のである。

ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を

見出して拾い上げ ることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。

私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼 び、強い波を死と呼び慣わしておる。」

 

 

「個性の根柢は普遍的なるものにある。

しかして普遍的なるものは己れ自身に具えた力によって内面的に発展して特殊の形をとるのである。」

 

 

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