リンクさせて頂いている恩師の塚原先生のページを読んでいると、1月7日の記事に先生のご友人の方の言葉として
「大学受験で日本史を選択している生徒のほとんどが大学で日本史を専門的にやらない」という言葉が紹介されていました。
そして「受験生のほとんどは受験で必要だから,仕方なく日本史を選択し勉強している」のかもしれないこと、そして
日本史の知識は(受験生・大学生にとっては)「雑学的な小ネタ」にとどまるものなのか?という疑問が書かれていました。
以下は僕の狭い経験に基づくものでしかありませんが、元受験生・現大学生として、自分の思うところを少し書いてみたいと思います。
端的に言ってしまえば、「先生、そんなことはないですよ。」ということです。
日本史を選択している生徒の多くが日本史を専門的に学ばない、という指摘は、(「専門的」という言葉の定義にもよるとは思いますが)
確かかもしれません。東大の例で見ても、進振りで日本史を専門的に学ぶ必要のある学部(例えば教養学部の比較日本文化論や
地域研究科アジア分科、本郷の学部では文学部の国史や国文学、考古学などが挙げられるでしょう。)に行く学生は
人数的に多くはないでしょう。全部合わせて50人ぐらいでしょうか。東大で日本史を選択して受験する受験生が何人いるかは
分かりませんが、50人というこの数字を日本史選択の受験生の割合にと比べてみれば「そう多くない」比率になってしまうはずです。
それは進路の多様性を考えると当然の結果なのですが、かといって我々大学生の中で、日本史の知識が雑学的な小ネタ程度に
留まっているという感触は持っていません。これは僕に限ったことではなく、日本史を選択した受験生にとって、受験で学んだ
日本史の知識は自分が様々な論を進めていくうえでの土台の一つになっているでしょうし、それはまた、人の議論を聴き・理解するため
の共通の土壌にもなっているのではないでしょうか。なぜそんなことを言うかというと、「基礎演習」という授業を思い出したからです。
一年生時に履修していた必修の授業で「基礎演習」というのがあって、そこではクラスメイトが思い思いのテーマを設定して発表します。
発表を聞いているクラスメイトはそれに対して意見を様々に加えていくわけです。僕はテーマに「スーツの表象」を設定して、スーツを例に
取り上げてモードの表象文化論を展開したのですが、日本におけるスーツ受容の理由を考える際に受験で学んだ日本史の知識を
まず参考にし、そこから発展させていった記憶があります。また、あるクラスメイトは「沖縄戦の集団自決」というテーマで論じて
いましたし、別のクラスメイトは「五・四運動に見る学生のエネルギー」というテーマで発表をしていました。
そして、発表のあとには聞き手のクラスメイトと発表者の間で大変活発な議論が交わされていました。これらの発表はいずれも
日本史の知識に立脚したものであったし、発表を聞いている学生たちにとって、発表を理解し、また適切なコメントを挟んでいくことは、
聴き手側にある程度の日本史の知識が無ければ出来ないものであったでしょう。その意味で、(とりあえず本学の学生にとっては)
日本史の知識は、議論に参加する上での共通の土壌として有意義に働いているように思います。
それだけではなく、(たとえ受験レベルであっても)「日本史を学んだ」ことによって、「日本史に関する本が抵抗なく読める」という
恩恵にも預かっていますね。読むか読まないかはひとまず置いておいて、「読める」のです。読むか読まないかは単にやる気や興味の
問題ですが、読めるか読めないかは能力の問題なので、この差は大きいのではないでしょうか。
受験生時代には「仕方なく」日本史を勉強していたとしても、それは大学に入ってから、「土壌として地下深くで輝く」
(奇妙な表現ですが、これが一番良く状況を表している気がします)ことになるのだと思います。
離れて初めて気づく親のありがたさのように、入ってから初めて気づくありがたさを日本史の受験勉強は持っています。
(逆に言えば、そのありがたさや面白さを受験生時代に気づかせてやれるように教えることが大切なんじゃないかと思います。)
二年間大学生をやってみて、「日本史・世界史を一通り学んでおいて良かった!」と思ったことは数知れません。
特に東大の日本史・世界史に対応するために学んだ事項は本当に今も役立っています。基本的な用語の内容や文脈にはじまって
歴史の持つ通時的な軸と共時的な軸を学び、政策・施策の意図や背景を知り、史料から読み取る能力を磨き、そして自分の思考を
相手の要求に沿って文章化する技術と、日本史・世界史自体の「面白さ」を東大の日本史・世界史の勉強の中から学びました。
今、僕は何を研究するにしても、抵抗なく日本史の領域を参照することが出来ますし、世界史の領域へも横断することが出来ます。
マルク・ブロックを読みながら並行して網野善彦が読めるのです。(そして、読むうちに網野とアナール学派の手法の親和性にふと
気付いたりして、遠く離れているように見えた両者が一本の糸で繋がるような、刺激的な経験をしたりするのです。)
以上の理由から、僕の知る範囲においては、受験で学んだ日本史の知識は「雑学的な小ネタ」にとどまるものではありません。
大学生にとって日本史の知識は、論を立てるための土台であって、人の議論を聞く上での土壌です。
そしてそれは言うなれば、諸学の入口の扉に差し込むためのカギのようなものだと思います。
カギを開けるか開けないかは人それぞれ。でも、確かに、扉を開けることが「できる」カギを持っているのです。
だから決して無駄にはなりません。受験生の皆さん、安心して日本史や世界史の勉強を進めて下さい。
そして塚原先生、受験生の頃以上に先生には感謝しています。上に書いたように、先生から学んだことは今もしっかりと活きています。
先生のおかげで僕は日本史を、入試問題という「大学への招待状・大学からの挑戦状」を、目一杯楽しむことが出来ました。