今抱えているデザインの仕事やレポート作成に詰まったので、FRESH STARTの同窓会の前に、
個人的な癒しの場所に行ってきた。それは渋谷の、最も怪しげな街並み(だと一般的に思われているはずだ)の一角にある。
道玄坂をまっすぐ上がって百軒店通りへ入る。ネオンに輝くイカガワしい看板、辺りに立ち込める濃いラーメンの匂い。
少し歩くと、時代を超越したように古びた喫茶店が突如現れる。「名曲喫茶ライオン」がその店名だ。
知っている人はきっと中まで良く知っているし、知らない人は絶対に足を踏み入れようとする事は無いような外装。
レトロ、などという言葉では足りない。何せ創業は昭和元年だ。触るのが憚られるような入口の扉の前で耳を澄ますと、
何やらクラシックが大音量で流れているような気配を感じることが出来るだろう。
そう、ここは日本でもかなりの歴史と愛好者を持つクラシック喫茶である。クラシック喫茶とは何か?
簡単に言えば、クラシックをバカでかいスピーカーでもって良質な音で聞かしてくれる喫茶店だ。
曲はオーナーが気分で選ぶ事もあれば客がリクエストを出したりもする。喫茶店だけあって珈琲も紅茶も注文できる。
(ここのアイスコーヒーは最初から甘みがついているが、ほっとする甘みなので無糖派でも満足できるものだと思う。)
この「ライオン」の面白いところは、何と言っても「私語厳禁」の空気が辺りに流れていること。
少しぐらいの会話なら許されるだろうが、それをさせない雰囲気がある。皆が思い思いに、本に目をやり、あるいは音楽に集中し、
背もたれに頭を預けて眠りの世界に入っている。注文を取る店員さんも最小限の音しか出さない。
それだけではなく、「ライオン」は内装も凄い。圧倒されるほど巨大なスピーカーに、木の机と椅子。天井からぶら下がるシャンデリア。
照明は薄暗く、水が青白く見えるほど。眼が慣れるまでは本を読むのにも難儀するかもしれない。
空間を時間と音楽だけが支配している。ここを訪れた人や、過ぎた時間の重みがこの信じられないような場所を作っている。
ここにいると時間の感覚が失われ、代わりに時間の単位は「一曲」になる。
予定の時間が迫っていても、音楽が終わらなければ立ち上がる気にならない。
再び眼を本に落とす。万年筆のペン先が控えめに輝いて美しい。
何となく、ここで文章を書いている作家志望の青年が過去に、あるいは今も、絶対にいるだろうと思った。
リクエストで、ショパンのポロネーズがかかる。凄いルバートをかける演奏だ。思わずスピーカーを見上げてしまう。
僕はタバコは吸わないが、このような空間にいて音楽に耳を澄ませていると、タバコを吸いたくなる人の気持ちが分からないでもない。
左前に座った年配の男性が書類に目をやりながら紫煙をくゆらせる姿は、この空間にとても似合っていて素敵である。
続いてブラームスの二番。テンポはゆっくり目で、内声部を丁寧におさえた指揮だが、神経質な感じではない。
音楽が進むにつれ、コンサート会場で感じる、音の渦に巻き込まれていくような感覚を味わう事が出来た。
扉を開けて外に出る。ここが東京、しかも渋谷であったことを思い出す。
神戸で浪人していたころにお世話になっていたクラシック喫茶「アマデウス」は、神戸の町外れにあったが、この「ライオン」は
文字通りの繁華街のど真ん中にある。街は光や声や広告で溢れているが、その中で「ライオン」は情報の波にビクともせず佇む。
だからこそ、無言の中に自身の時間を楽しむため、様々な年齢層の人たちがこの特異な場所を訪れる。
入口は一見すると気難しいイメージがあるかもしれないが、実際に入ってみれば時間も場所も忘れ去って気楽になれる場所が
この「ライオン」である。東京にいる限り、僕はここへ足を運び続けるだろう。