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内田樹さんに会ってきた


8.学者としての苦しみ―オリジナリティーやニーズについて

L 材料と包丁とが揃っていても、やっぱり試行錯誤はなされたのですか。

内田 (笑) そうね、いろいろね、しましたけれど。やっぱりその、これから学者をやろうっていう人全員に課せられた苦しみなんだけれどさ。ある程度評価されないと、一人前の学者、研究者として自立できないわけですよね。でも評価されるためには、すでにこういうのがよくてこういうのがよくない、っていうスケールがきちんとできあがっている、評価の枠組みができているところで勝負するしかないわけだよね。極端に言えば、みんながやっていることを一緒にやらなきゃいけない。みんながやっていることを一緒にやって、他の条件を全部一緒にしてはじめて差がみえるわけで。そこでまぁ、一人前の研究者として扱ってもらえるけれども。これって、オリジナリティーの発揮のしようがないんだよね。

みんなとおんなじ条件で、百メートル走ります、よーいドン、みたいな感じでほかは全部条件同じで走っていって。で鼻一つ出ました、じゃあ君が一位ね、っていう感じ。じゃ、先に進んでよろしいって感じになるんだけど。そもそもこういうのに何の意味があるの? 意味ねーじゃん、見たいな事をいう人はもう参加できないわけですよ。次のトーナメントに進めないわけですよね。でも、本当に必要なクリエイティブなセンスっていうのはさ、競争をくだらない、何でこんなことするんだろう、っていう風に、つまんないっていう風に感じること。これが凄くきわどいところなんだけど、いい学者になるっていう人はやっぱり、若いどこかの段階で、自分たちに課せられていることに関して、くだらないなぁ、っていう感懐を持つはずなんだよ。でも、すごく頭のいいやつは、くだらないなぁと思うけど、すぐにできちゃう。くだらないなぁと思いながらも、すぐにできちゃうから、別に問題なく一位通過して先に進んでいって、で、途中からオリジナリティーを発揮していいですよ、って言われたら発揮して立派な学者になる。なかなかそうもいかない人間にとっては大変だけどね。

くだらない、って思うところで、でもここ勝ち抜けないと先に進めないからって言って頑張るしかない。受験勉強と一緒だよね。受験勉強はくだらないと思っていても、やらないと東大に入れないから、っていうのがあって勉強する。大学院出ても、そのあとに同じゲームが続くわけですね。例えば僕なんか、ドクターに入った後、学会発表する時に、レヴィナスの発表したいって言ったらみんなが、だめだ、みたいなことを言う。そりゃいかんと。なんで、って言ったら誰も知らないから、って(笑) 学会誌の編集委員が誰も読んでないから、君が発表しても評価されないよ、って。分からないって言うんだから。誰もやってないことやると、僕が発表して、あぁ面白いなと思っても、みんなとしては、面白かったんだけどもこいつが発表した話っていうのはオリジナルなのか、誰かのパクリなのかっていうことがわからない。レヴィナス研究においてはみんなが知っている常識的なことを掻い摘んで10分喋っただけなのかって、そういうことが分からないわけだよね。

そうするとね、何やってるかわからない人間はバツなわけだ。みんなが知っているものをやると分かるわけ。こいつは5段階の3ぐらいだな、とかわかるわけだけど、誰も知らないことをやるといかに面白い発表をしても、逆に、「おもしろかったねぇ、これ、本当にオリジナル??パクリじゃなぇかなぁ。面白すぎるもん。」「だよなぁ」なんてなる(笑) だからペケがついたりするわけ。怖いから。すごく面白かったっていうんで学会誌にのせたら、どこかの学会論文丸写しだった、みたいなことが学会発表じゃよくあるんだけどね。その学会誌の編集の人たちが知らないことをやっちゃうと、彼らはリスクを避けるので、誰も知らないことをやる、本当にbrand newなことをすると、それに関してはとりあえず泳がしておく。次々とみんながそれに関する発表をするようになってきて、ある程度蓄積ができて、大体それに関して常識的な判定基準ができてくるまでは全部ペケにしておこう、となるわけ。

L 上の人のそういう考え方は、内田先生もくだらないと…?

内田 くだらないと思うね。だってもったいないもん。仏文なんて、今は少なくなっちゃったけどさ、僕の時代には2000人くらい研究者がいたわけだよね。だけどそのほとんどが、プルーストとマラルメとフローベル研究をやってたの。オーバーだけどさ。この三人の研究者っていうのはさ、何百人もいるわけだよ。何でかって言うと、プルーストとマラルメとフローべル研究に関しては、日本の仏文研究者の中でさ、世界的権威がいるわけね。彼らの仕事って言うのは世界水準なわけですよ。ということはこの分野で研究している限りは、評価が正確なわけよ。君の研究は75点っていう。全ての研究内容を網羅していて知っているトップの人たちがそう点数をつけるわけだから正確なわけ。それで、秀才たちっていうのは正確な評価を求めるのよ。結局、必ず世界的権威のいるところに行って、その世界的権威に自分の業績を評価してもらいたいと思うから、ダーッとそこに集まってくる。

フランス文学界が扱うものってたくさんあって、哲学から歴史から演劇、詩学とかとんでもない範囲があって、時代だって1500?1600年くらいあって、対象としていい人の数なんて何万人もいるはずなんだよ。何万人も研究対象があるのに、全体の三割、四割の人たちが、この3人のところに集まっちゃう。19世紀の文学や詩に集まっちゃって、ほかの分野はガラガラで、16世紀の文法をやっている人は5人なんてさ。このアンバランスは何なんだ、ってことになるの。結局そういうことをやって、どうやって自分自身の業績を適切に評価してもらうかということにみんなが集中してくると、どんどん専門化してくるわけだよね。そうすると、一般の中学生や高校生から見たらまったく意味不明になるの。何の話をしてるのかまったく分からない。フランス文学面白いよっていうことを若い人たちにアピールして、高校生たちが、おもしろうだな、大きくなったらフランス文学を勉強しようと思ってくれると仏文に来てくれるわけで。その循環でフランス文学学会は成立しているわけなんだから。でも、後進を惹きつける努力を全くしていなかった。

本当はすごく面白い材料がたくさんあるわけだから、次々と紹介していって、こんなに面白いんだよと日本人に向けてアピールしておけば、参入していたはずなんだけども。日本の後進を育成する、読者に面白い研究を紹介する必要があるのに、自分たちの研究の適正な評価を全員が最優先して、フランス語で論文書いて、日本でやっている学会発表でさえフランス語なんだからさ(笑)。 全然一般を向いてないわけ。高校生の方なんか見向きもしないわけよ。そういう扱いをされると、一般市民だって、「あ、そうですか。フランス文学って、我々の市井の人間の人生とはまったく何の関係もないんだ」ということになる。誰も仏文科に進学しなくなる。仏文への進学者が毎年ゼロというのが続いて、ある日「じゃ、もう仏文科は廃止ね」となる。秀才たちが自分の査定に必死になっているうちに、彼らの学知そのものについての国民的需要が消失してしまった。

変な話だけど、研究活動っていうのはある種の「商売」という側面もあるわけですよ。全くニーズのないところでは研究できないから。自分の業績の質を上げることはもちろんたいせつなんだけれど、それと同時に「私のやっている研究は社会的にもけっこう有用なんですよ」ということを一方ではアナウンスしないといけない。それをしないと、そんな研究してもらわなくても誰も困らないしってことになるわけですよ。両方を見なくちゃいけないんだけどさ、こういう話が分かる人はほとんどいないな。大学の先生に言っても全然わかってくれない(笑)。

S 先生の『寝ながら学べる構造主義』はその流れに抗するという意味があるのですか?

内田 そうだよ。なんとかして仏文業界に生き残って欲しいんだよね。フランスの哲学とか、社会学とか心理学とか、おもしろいなぁというふうに思って、フランス語でも勉強しようかしら、という人が現れるのを期待して書いたわけですよ。