いい感じに見聞伝の更新が停滞してきたので、書きためておいたBLの感想をupしようと思います。いやはや、とんでもない世の中になりました。Google画像検索で「見聞伝」と入力するとトップに飢えだが先日アップした梶ヶ谷ミチル先生の『放課後の不純』の書影が出るとか。このままいい感じに書評を更新し続けて、「見聞伝」で画像をググると全面がBLの表紙になるといいですね!
というわけで、今回は、飢えだの身の周りが舞台のモデルとなっているBLを紹介しようと思う。
今回紹介するのは雲之助先生の『君に注ぐ』(一迅社、2011)とあべ美幸先生の『Super Lovers』(角川書店、2010)である。
まずは雲之助先生の『君に注ぐ』から。
これは大学一ゆるいと言われる大島が大学一かたいと言われる安藤に興味を抱いて迫っていく、というお話。大島のチャラさと女の子も男の子も行けてしまう感じのゆるさが、読者にもこいつは危ないんじゃないかと本能的に思わせて、とてもうまく描かれている。その一方で安藤くんはとても凛としていて、自分の発想に従って生きる。しかしこの思考回路が何とも不思議ちゃんで面白い。
大島がかわいい男の子に大学構内でキスをしていた理由を、安藤はこのように大島に尋ねる。
「いくつか仮説を立てた。
?一時的な欲求の開放
?あくまでも友情の範囲の行為
?恋人関係以前の駆け引き
他にもあるが概ねこの3つのいずれかに該当すると考えられ…」
大島が噴き出すのも無理はない。とんだ不思議ちゃんである。身の回りにいたら近寄りがたい人物である。雲之助先生のキャラクターは非常に分かりやすく描かれていて、感情移入しやすいのが魅力的だ。大島みたいなやつに迫られたら、安藤も不審に思うだろうし、ひっぱたきたくなるだろうなぁ。
そしてなんとなんと、この作品の舞台のモデルは、東大の本郷キャンパスである。直接的に「T大」などと言及されるわけではないが、学内関係者だったら一発でわかる建物が背景に描きこまれている。
例えば、冒頭で大島がかわいい男の子とキスしていたのはおそらく史料編纂所の建物の前である。さらにその続きのシーンで食堂で大島が安藤からむ所がある。あそこで描かれているのはまさに安田講堂下の中央食堂である。他にも法文一号館の三四郎池側のアーチとおぼしきものが描かれていたり、安田講堂前のベンチで食事してたり、指摘するときりがない。
「あらららら飢えだが毎朝猛ダッシュしてる史料編纂所の前でキスを!!!!しかもあんな所であんな会話が!!」などという妄想が限りなく浮かんできて、日々広大なキャンパスを走り回る身としても、こんなときめき要素が東大にあると浮かばれるものである。もし本郷に来られることがあったら、『きみに注ぐ』を片手ににやにやしながら歩いて頂きたい。
BL漫画家のみなさん、どうぞ東大を舞台にしてください。東大はネクラコミュ障物や、地味受け、チャラ男攻め、ヘタレ攻め様々なシチュエーションに使える絶好の舞台ですので、どうぞ使ってください。ロケハンとかも結構楽なはず、観光客に混ざって写真をとれば不審に思われることもありません。
そして何より、飢えだのやる気が出ます!!どうぞ偉大な先生方、よろしくお願いいたします。
* ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? *
もう片方の作品はあべ美幸先生の『Super Lovers』。
なんとこのお話、攻めのハルは22歳、受けのレンは13歳…この年齢差、犯罪じゃないっすか…しかしこの年齢差は作品の中で重要な鍵となる。
ハルは幼い時両親が離婚し、8歳まで超個性的な母、春子の住むカナダで暮らし、その後は父親が住む日本で暮らしていた。ある日、春子にカナダに呼び出され、彼女が施設から引き取ったレンと引き合わされる。そして、「喜べ晴(ハル)!お前に新しい弟が出来た!」と世話をするよう命じられる。レンは親に捨てられ、捨てられたあとの記憶が暫くないという、しかも人間に恐怖心を抱いていてベッドで寝るよりも犬と一緒に寝る方がいい、という野生児っぷり。そんなレンに愛情を以てハルは接し続け、次第にレンはハルになついていく。ハルは高校が始まるため帰国すると、空港に迎えに来た両親とともに交通事故に遭い、父と継母をなくしてしまう。ハルは事故のショックで記憶を失い、レンのことも忘れてしまう。高校卒業後ホストとなり、歌舞伎町ナンバーワンホストとなるが、ある日再び春子と親しい弁護士、幹子によりレンと引き合わされ…というのがおおまかなあらすじ。出会ったり交通事故に遭ったり、記憶失ったりホストになったり、いきなりボリュームたっぷりだが、これはまだまだ序盤。後々ハルはホストを辞めてカフェを開き、ハル、腹違いの双子の兄弟である蒔麻と亜樹、レンの4人で共に暮らすようになる。
関係が複雑なので、整理しておこう。ハルの母、春子はハルの父と離婚していて、ハルの父が再婚して出来た子供が蒔麻と亜樹である。そこに赤の他人のレンが加わり、4人家族は半分が血がつながっていないという珍しい関係。美男子4人兄弟というおいしい側面がありながら、血縁、人と人とのつながりについても考えさせられるものだ。
そして、何よりおいしいのが、主人公のハルやレンが生活しているのがなんと吉祥寺!飢えだが先月までしょっちゅう自転車で猛ダッシュで通過していた井の頭公園や吉祥寺駅と思われる改札風景が描かれていたりする。しかもレンがタヌキを見に行くのは自然文化園だしと、吉祥寺に住む人なら一発でわかるだろう。ハルがおしゃれなカフェ&バーを開くのも吉祥寺という立地ならば納得がいく。
BLというと主人公2人にフォーカスしがちだが、これはそうではない。”lover”は主人公のハルとレンだけではなく、ハルの母である春子、腹違いの兄弟の蒔麻、亜樹、それぞれが愛にあふれて、お互いを思いあっている。その愛の形が恋であれ、家族としての愛であれ、読んでいてその深さに胸が打たれる。
しかし、レンはハルの自分への愛の深さ故に苦しむこととなる。その愛情は、あくまでも兄としての愛なのか、それとも恋人としての愛なのか。レンはハルと9歳差であり、自分をハルが恋愛対象として見るはずがないとレンは思ってしまうのだ。更に、自分の恋心も、はたして本当に「恋」なのか。
ある夜、すれ違いからハルはレンにあたかも自分がレンを弟としてしか見ていない、と伝えてしまう。レンは、自分の恋心にふんぎりをつけようとハルにいう。
「お前が望むなら、俺はただの『弟』でいる」
あわわわ、2人はどうなってしまうのか、と思いながらも、あ、この風景見たことある!井の頭公園のあそこか!と内心思ってしまう。すいません、不謹慎で。
レンという特殊な環境で生まれ育ち、独特な目線から見つめられる愛、そして兄弟でありながら兄弟ではない、特殊な関係、はたしてこれはどのように実を結ぶのか。絶賛連載中のため先がとても楽しみである。
余談だが、個人的に春子さんというキャラクターが好きだ。春子さんは前述の通り、ハルの母親で、かなり傍若無人。「家事全般?アタシはそんなモノに小指一本だって動かす気はないね」という感じ。しかも超エリートで売れっ子小説家であり、かつCERNの研究者でもあり、ヨーロッパで研究活動にいそしんでいる。頭ん中どうなってるんだろうか…
登場当初は、BLによく出てくる男勝りな女性キャラかな、程度にしか思っていなかったが、ある一言を通して印象が変わった。
レンは春子に聞く。
「春子は何故晴(ハル)を手放したんだ?」
「――――そうだな、私は「私」でいることをやめられなかった。母親であるより、私が私であることを優先した。ただそれだけだ」
そして春子はこう続ける。
「今はお前達を手放したことを少し後悔している。子供がこんなあっという間に成長するモンだなんて思ってもみなかったからね」
春子はハルを産んだが、自分は自分としてしか生きられず、母親になることはできなかった。それだからこそ輝かしい世界で活躍しているのだが、寂しさや後悔はやはり春子さんにもあったのだ。
体の異変をメールで春子に訴える(春子さんの言葉を借りると「盛りが付いた」よーだ)レン、すると突然春子は日本に来ることをレンに告げる。今まではメール一本で日本に来ることなどありえなかった。しかし、二度「息子」を手放して、ようやく自分が寂しいと気づいたのだ。一度目はハルを、二度目はレンを手放して。
『Super Lovers』は主人公2人の物語だが、主人公の周りの人物も描きこまれた群像劇でもある。物語を貫くテーマは「愛とは何か」、という根源的な問いかけだと言えるだろう。
* ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? *
物語の聖地巡礼は、人気作品にはつきものである。『耳をすませば』の聖地である聖蹟桜ヶ丘に行く若者が絶えず、数年前の冬ソナブームではおばさまたちが韓国のロケ地をこの目的が主人公たちの物語の追体験と言えるだろう。だからこそ聖蹟桜ヶ丘のいろは坂を自転車で登ろうとしては挫折する若者が続出するのだろーか。
BLの聖地巡礼に関しても同じことが言えるかと言えば、飢えだは微妙だと思う。BLはもともとファンタジーであり、虚構は虚構だからこそ美しい。安藤のような凛とした人はなかなかいないし、『Super Lovers』のようなスーパー歳の差カップルもいない。しかもホモでなくてはならないわけだから、余計いるわけがない。そう考えるとリアリティを湛えて登場人物に接することは陳腐であると思ってしまい、どうしても主人公たちに完璧に感情移入することが出来ない。しかし、舞台となった大学構内や井の頭公園を歩いているとにやにやしてしまう。はてさてそれはなぜか、と考えると、飢えだは主人公たちの追体験というよりむしろ、主人公たちを見つめる目線、言わばカメラの目線を追体験しているのではないかと思う。姿をこっそり見つめ、言葉にこっそり聞き耳を立てる。2人の会話や仕草に愛を見出すのがたまらなくいとおしいのだ。
たまに、「身の回りで熱い恋愛バトルが繰り広げられている中で、虚しくなりませんか?」と訊かれますが、虚しくなんてありません。いいんです。みんなが愛に恵まれてればいいんだよ!!(ただしヘテロカプは除く)
こういうとなんかとっても利他的に見えますね…