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Interviews

【観劇企画取材】福井健策先生(弁護士)

はじめに

法と芸術、これほど相性の悪い言葉も珍しい。

法とは国家であり権力を意味する。そして芸術は国家や権力から切り離された存在であるとみなされてきた。我々は芸術が国家と結びつくことに対し眉をひそめる傾向がある。

しかし本当にそうだろうか。

「芸術の生産において真正さという基準が無効になる瞬間には、芸術の社会的機能全体が大きな変化を遂げてしまう。芸術は儀式に基づくかわりに必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる」(ヴァルター・ベンヤミン)

政府が文化立国を謳い、さまざまな文化政策を推進する今となっては、国や行政、あるいは法から完全に独立した芸術など考えられない。

その代表格たるものが著作権であろう。現在の出版物や映像、音声作品は著作権によって成り立っているといってもいい。インターネットの普及によって情報の複製が誰でも無限にできるようになった今、現行の著作権制度が議論の的になっていることは読者のみなさんもご存じだろう。

またインターネットによって情報はその生産、拡散の時間や範囲が大きく広がったが、同時に情報の消費のスピードも著しく速めた。瞬く間に広がった情報は瞬く間に消費され、忘れられていく。それは作品とて例外ではない。こうした状況をうけて作品を保存し後世に伝えるためのアーカイブの必要性が叫ばれている。

だが演劇はどうなのだろうか。ライブ芸術たる演劇は一見著作権やインターネットの問題とかかわりがないように思える。しかし、脚本や舞台美術、演出など演劇にも著作権は付属する。そして何よりも一回で消費され、後世に残らないという点は演劇が根源的に抱えているアポリアと言っていい。

演劇と法はどう絡むのだろうか。あるいは一回性の演劇を保存するとは? エンターテイメント・ロイヤーとしてクリエイターや出版社の法実務サポートを担うとともに、国会図書館納本制度審議会委員や日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム理事としてメディア・アーカイブズの構想・実現を担う福井健策弁護士にお話を伺った。

 

 
【プロフィール】
 

福井 健策 (ふくい けんさく)

1991年東京大学法学部卒。米国コロンビア大学法学修士。弁護士/ニューヨーク州弁護士。現在、骨董通り法律事務所 代表パートナー。日大芸術学部客員教授。think C 世話人。国会図書館審議会・文化庁ほか委員・理事を務める。エンターテイメント・ロイヤーとして各ジャンルのクリエイター・劇団・出版社・レコード会社などのサポートを務める。著書に『著作権とは何か ―文化と創造のゆくえ』(集英社新書 2005)『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』(集英社新書 2010)など。

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1 演劇とアーカイブ

【エンターテイメント・ロイヤー】

――本日は宜しくお願い致します。先ず、福井先生はエンターテイメント・ローを専門とされる弁護士として、演劇に深く関わるとともに、法実務の観点から劇作のサポートおよび演劇文化の普及に尽力なさっていると伺っておりますが、具体的にはどのようなことをなさっているのでしょうか。

 

我々、エンターテイメント弁護士、エンターテイメント・ロイヤーは、舞台・映像・音楽・放送・出版といった各ジャンルのクリエーター・企業・テレビ局・出版社に対して、知的財産権をはじめとして様々な法的サポートを行っています。例えば、著作権についてのアドバイスや契約締結のサポート、紛争の解決をすることもあれば、企画を初期から一緒に考えたりすることもあります。その方法だと法的に難しいから、こういうやり方で企画を進めるいいよ、という風に。

その中で、ここ5年から10年ほどの間に一貫して増えてきているのが、エンターテイメントのコンテンツを、いかにしてメディア・アーカイブへと収集・保存しそれを公開するか、という相談です。実際に私はいくつかのアーカイブ事業にも関わっていて、中には「日本脚本アーカイブズ」の理事を務めるといった直接的な関与もあります。

 
【演劇の同時性・一回性】
――そこでメディア・アーカイブについてお訊きしたいと思います。演劇はライブ性の強い芸術だという印象があって、役者と観客がいる一つの空間の中で一回きりしか成立しないという意味で、複製芸術の対極にあると思われます。そういう演劇をメディア・アーカイブという形で保存する上で、困難や、演劇特有の問題というのはあるのでしょうか。

 

先ほど申し上げた通り、私は日常的にアーカイブに関わっていると言えるのですが、ライブイベントそのものをいかにアーカイブするかということは、今のところ大きな動きにはなっていません。その理由がまさに、仰る通り演劇の一回性・同時性という特徴です。アーカイブに残しておいても、元のものと随分違ってしまう。例えば舞台中継を考えれば分かりますが、十台以上のカメラを使って、かなり激しい編集を加えて頑張って作っても、生で舞台やコンサートを観たことの代わりになり得るかといえば、高々どんな様子か分かったという程度で、代替物というには少し不足がある。そのため、完全アーカイブは今のところ難しそうだとみられています。もちろん、技術が進展して立体映像のようなものが実現しつつあるから、よりアーカイブしやすくはなっているかもしれませんが、本当の意味での同時性・リアルタイム性を再現するアーカイブは難しいだろうと思います。

このようなアーカイブの困難は、映画と比較してみると分かりやすいですね。今からちょうど百年前は、D・W・グリフィスの『イントレランス』や『國民の創生』といったアメリカ最初の大作映画が作られた時期です。映像は相当荒れているとは云え、今でもかなり良い状態で鑑賞することができるし、今の映画と何の遜色もない感動を味わうことが出来るでしょう。チャップリンもやはり同時期に活動を始めていたと思いますが、彼が出演した1910年代の短編も、リマスタリングされた大変綺麗な映像を今の我々が観ることができます。その一方で、当時の舞台の公演や役者たちの名演技を、我々が今、楽しむことは出来ない。彼らは文化史の教科書の片隅に載っている程度でしょう。当時においてはチャップリンを凌ぐと言われていたかもしれない人たちが、いまやもう、たった一行の名前以外に何も残っていないわけです。あとは不鮮明な舞台写真が何枚か残っている程度でしょう。このように、演劇の記録性は極めて悪い。

そのことはもちろん、大きな感動と裏腹でもある。何故我々が、一回性のライブイベントに対してこれほどまでに緊張して臨み、そして感動するかと言えば、それ一回で終わりだからです。そこで観たもので全部終わってしまうから、その一回を観るという事には、すごく大きな価値が、感動が、また特権性がある。保存が非常に難しいが故に、逆にリアルなイベントが一回限りの大きな力を持つのでしょう。それは基本的に肯定されるべきことだと思うし、だからこそ私は舞台のようなリアルなイベントに関わり合ってきたのだろうと思います。あれが全部記録されて、「一回目と百回目は何の違いもない」という風に言われたら、私はそこまでの魅力を感じなかったかもしれない。