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【映画監督】想田和弘監督取材

はじめに

東京大学に五浪の末入学、三留して卒業。コイン商を始めたあと、自民党に白羽の矢を立てられ落下傘候補とし川崎市議会議員の補欠選挙に出馬し、見事当選。この特異な経歴を持つ友人、「山さん」を撮ったときには、既に想田和弘監督は今後の活躍を予感していたのであろうか。

想田和弘監督はこのドキュメンタリー映画『選挙』で、「放送界のピューリッツァー賞」と呼ばれるピーボディ賞他様々な賞を受賞し、多くの映画祭に正式招待された。以後発表する作品は毎回のように権威ある賞を受賞し、今では世界各地を飛び回っている。彼がフレデリック・ワイズマンという映画監督の手法をヒントに編み出した、台本も音楽もない「観察映画」という手法はドキュメンタリー界に新風を吹き込んでいる。その手法はどのようなものなのか。膨大な映像をどのように編集しているのか。何故骨太な作品を発表し続けることができるのか。

想田監督にインタビューした。

 

 

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【プロフィール】

想田和弘(そうだ・かずひろ)

東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。在学中は東京大学新聞の編集長を務める。卒業後は海外に留学し、NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。その第1弾『選挙』(07年)は世界200カ国近くでTV放映され、米国でピーボディ賞を受賞。ベルリン国際映画祭へ正式招待されたほか、ベオグラード国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。

観察映画第2弾『精神』(08年)は釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を獲得するなど、受賞多数。『Peace』(10年)(観察映画番外編)、『演劇1』(12年)(観察映画第3弾)、『演劇2』(12年)(同第4弾)など以降の観察映画も世界各国の映画祭で受賞をしている。

2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。

「ジム・ジャームッシュとかがニューヨークの映画学校出て監督になったっていうのを読んで、『なんだこれじゃん!』って思って、それでニューヨーク行っちゃったんですよ」


監督の経歴について聞かせてください。東大在学中は東京大学新聞で編集長をされていて、その後燃え尽き症候群になり留学されたということですが、その経緯などもお聞かせ願えますか?

今の東大新聞からは想像つかないと思うんですけど、当時は学生運動の残り火がまだあって、東大新聞はかなり政治的な新聞でした。僕は89年入学なんですが、ちょうど昭和天皇が亡くなった年。天皇制の論議が凄く活発に行われていた。学内の学生自治会は民青(1)が仕切っていて、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる人たちがまだいて、結構活発にやっていたんですよ。

僕が入学したてのころ、「風の旅団事件」が起きました。天皇制を揶揄したりすることで有名な「風の旅団」という劇団があったんですが、ノンセクトの人たちが彼らを駒場へ呼んで公演を打とうとした。ところが、大学当局から「やるな」と禁じられた。でも無理やり公演を実行しようとしたら当局は機動隊を入れて大騒ぎになったんですね。で、僕らが取材している目の前で学生が5人逮捕された。その旅団事件をきっかけに、学生運動はどんどんしぼんでなくなっていった。

僕らは記者ですから学生運動のコアではないんですけど、彼らにシンパシーを感じながら政治的にとんがった記事ばかり書いてた。でもそういう新聞だから人気がないわけ。バブルの時代だったから、周りの学生たちはみんなノンポリで政治になんて興味ないわけです。だから、僕らは本当にジリ貧状態。新入部員も集まらず一時は記者が4人に減ってしまって、みんな睡眠時間を削って必死に新聞を出し続けていた。

そうしたらある日、原稿を書こうとすると吐き気がするという状況に僕がなってしまった。これは精神的な問題だろうと直感して安田講堂にあった精神科の診療所に行ったら、「君は燃え尽き症候群だよ」って言われて。診断書をもらい、そのまま東大新聞をやめてしまいました。結局一週間ぐらいでケロッと治ったんですけど、そこがひとつの転機だったのかなと思います。専門は宗教学科に進学したので、興味の対象が、社会的な問題から、「人間って何で生きるんだろう」とか「なんで死ぬんだろうとか」という方向にシフトしていきました。


監督ご自身としては、社会的な問題、政治的な問題にかなり関心があったから東大新聞に入られたのでしょうか?

いや、そうではないです(笑)。もちろん社会問題には興味はあったんですけど、きっかけはお恥ずかしい理由で。実は合格発表のときにきれいな女の人達が大勢で東大新聞の「合格者名簿号」を売っていたんですよ。で、僕は「この人達と一緒に新聞を作れるのか」と思ってその場で入っちゃった(笑)。でも編集部に行ったら彼女達はいなくて、みんな実はバイトだったっていう(笑)。

でもやってみたら凄く楽しかった。僕は田舎の出身で、地域社会はすごく保守的で、天皇制を批判する人なんて周りに一人もいなかった。僕自身、右翼的な少年で「日本には自主憲法が必要だ」とか本気で思ってたしね(笑)。ところが編集部にいくと「天皇制なんていらないよな」なんて議論が普通に行われている。自分の中のタブー感が溶けていくような快感がありました。


東京大学に来て保守的な観点からラディカルな観点に変わったのが一つの転機だったわけですね。


そうですね、こんなに自分って変わるものなんだな、と驚いた。あとはやっぱり、今までは結構思い込んでいたというか、「洗脳されていたなあ」みたいな思いもありました。今度はある意味、東大新聞で別の洗脳をされるわけだけどね(笑)。でもその別の洗脳もやがてとけていくわけで、とけたところで精神的に燃え尽きたんだろうな、と。


進学した宗教学科での経験は活かされましたか?

いまの仕事にってこと? そうですねえ、活かされたというか、その当時ペンでやっていたことを今はカメラでやっているような感覚があります。

僕の卒論は「参与観察」といって、実際に「コスモメイト(2)」という宗教団体に普通の信者のふりをして入って、「どうやって宗教教団の信念体系が個人によって受容されていくのか」というテーマを研究しました。つまり「どう洗脳されていくか」ということを、自分を実験台にして観察したんですよ。

最初僕が入信先として考えていたのは、オウム真理教でした。でも卒論の指導教官だった島園先生(3)に相談したら、まだ一連の事件が起きる前だったけど、「オウムは最近ちょっと変だからやめたほうがいい。コスモメイトにしなさい、あそこは抜けるの簡単だから」って仰って(笑)。それでコスモメイトにしたんですよ。


宗教は映画の題材として適していると思うのですが、最初にそれを撮ろうとは思わなかったんですか?

アクセスや許可の問題ですよね。撮らせてくれるんだったらいくらでも撮りますよ。だって宗教、面白いじゃん(笑)。でもなかなか撮らせてくれないんじゃないかな。


大学時代から映画はたくさん観ていたのですか?


あんまり観ていなかったです。別に映画青年ではなかった。ただ、大きかったのは小津安二郎(4)の映画と出会ったこと。たしか川本三郎さんだったと思うんだけど、ある雑誌に小津の映画についての小さい記事を書かれてたんですね。たぶん『晩春』かなにかのストーリーラインが書いてあったんだけど、それを読んだら無性に観たくなった。でもそのときには観る手立てがなかったんですよ。当時まだビデオとか出てなくて。ところがそのうち、戦後松竹の小津作品を集めたレーザーディスク・ボックスが発売されたので、5万円ぐらいしてめちゃくちゃ高かったんだけど、これは買うしかないなと思って(一同笑)

小津映画を観たらすごく面白くて、どの作品も何度も繰り返し観た。当時は宗教学をやりながら「なぜ人間は生きるのだろう」などと考え続けてたわけなんだけど、宗教学って学問だから手続きを踏んで命題を「証明」しないといけないわけですね。でも「人間の生きる理由」なんて、証明にはなじまないでしょう。証明するよりも「表現」することの方が、自分の関心には合っているんじゃないかと、だんだん気づいていったんだろうね。

で、僕は大学院に行くのをやめちゃった。それで就職しようかと思って、いわゆる「就活」をちょっとやったんですけど、結構キツいんですよ。大企業の就職説明会に行ったら、僕を含め1000人とか2000人とかの志望者がみんなリクルートスーツを着ていて、その光景に衝撃を受けてしまった。つまり、会社側からどういう服装で来なさいってことは一切言われていないのに、「会社側はこういう服を着てくると良く思ってくれるに違いない」っていう風に忖度したわけでしょう。僕自身に「喜んで支配されに行っている感」があった。それは元反体制派の学生としては屈辱なわけ(笑)。


それに嫌悪感を感じたということですか?

簡単に自分をかなぐり捨ててるというか、この間まですごくイキがって社会に楯突いてたくせに、簡単に飼いならされようとしているっていうか。許せなかったよね(笑)。許せなくて、その説明会から途中で帰ってしまった。

でもどうしようと思って。大学院にも行かない、就職もしない。だから映画に進んだのは、苦肉の策ですよ。じゃあ映画か、みたいな(一同爆笑)。

でも大多数の人から外れて「映画を撮る」という決断をするのはとても勇気がいることですよね。

勇気っていうよりバカだったね。全然後先を考えていなかった。まだ社会の雰囲気もイケイケだったんですよ。いまと全然違って、「未来は明るい」みたいな(笑)。

で、最初はふつう助監督から始めるんでしょうけど、その頃の日本映画ってどん底でね。それに僕は上下関係が苦手だから、助監督から始めるのってすごいきついじゃん(笑)。「助監督なんて嫌だな、どうしようかな」って思っていた時に、雑誌でジム・ジャームッシュ(5)がニューヨークの映画学校を出て監督になったっていうのを読んで、「なんだこれじゃん!」って思って、それでニューヨークへ行っちゃったんですよ(笑)。


(1)日本共産党系の青年組織。

(2)現・ワールドメイト。日本に183か所の支部、アメリカ合衆国やイギリスなど海外に10か所の支部がある。

(3)島薗進(しまぞの・すすむ)(1948-)は日本の宗教学者。東京大学名誉教授。

(4)小津安二郎(おづ・やすじろう)(1903-1963)は日本の映画監督。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。代表作に『東京物語』などがある。

(5) ジム・ジャームッシュ(1953-)はアメリカ合衆国出身の映画監督。代表作に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』などがある。

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