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【映画監督】想田和弘監督取材



「ナレーションとか音楽とか総動員して、なんでも懇切丁寧に説明しなきゃいけないのが嫌だった。そんな風にしなくても観客はわかるんじゃないか、っていう風に思い始めて」


ニューヨークに行ってから観察映画を編み出すまでにはどのような経緯があったのでしょうか。

かなり紆余曲折がありましたよ。まず、ニューヨークで僕はフィクションの映画製作を勉強するために、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ(6)という美術大学の映画学科に入った。そこでフィクション映画をいろいろ撮り、卒業制作で作った短編映画がヴェネツィア映画祭に招待されたりもして、有頂天になったのね。1997年、ちょうど北野武(7)が『HANA-BI』でグランプリを取った年で、ジェームス・アイボリー(8)とか、ヴィム・ヴェンダース(9)とか、世界の超一流監督たちがみんなヴェネツィア映画祭で僕と同じホテルに泊まってて、その人たちと肩を並べた気になったわけ(笑)。それこそジム・ジャームッシュともホテルのロビーで自己紹介したしね。

僕も若かったから、それで商業映画を撮る話がばんばん来るんじゃないかと思って、ニューヨークに帰ってからはずっと電話の前に座って仕事が来るのを待ってたんだけど、全然電話なんか鳴るわけないんだよ(笑)。

それで最終的には観念して「しょうがない、仕事を探すか」と思ったの。それまで僕は親の脛を齧っていたので(笑)。そうしたら本当にたまたま、アメリカの制作会社がスタッフを募集していて、「日本語と英語ができて映像の心得のある方、求む」って書いてあった。「あ、これ俺じゃん」と思ってその会社に入ったわけ(笑)。そこはユダヤ系アメリカ人の女性が経営する20人くらいの小さな会社で、NHKの「ニューヨーカーズ」っていうドキュメンタリー番組を毎週レギュラーで作っていたんです。


それで観察映画に?

いや、まだそこでは観察映画には行かない。まずはドキュメンタリー番組作りにそこで出会う。僕は全然ドキュメンタリーに興味がなかったから、最初は「生活費を稼ぐため」という感じだったんだけど、やってるうちにだんだんはまっていっちゃった。

その当時は20分の週1回の番組を4人のディレクターが交代でつくっていたので、1人につき1か月に1本作るのがノルマだった。これを3年くらいやりました。その後、もっと大きい番組も任されるようになったんだけど、だんだんテレビの作り方に不満が出てきた。

例えば、テレビ制作の現場では、撮影の対象についてまずはいろいろリサーチして、まずは台本を書くんですね。で、台本通りに撮っていく。つまり撮る前にどんな番組になるのか分かってるわけです。そういう予定調和な作り方に、すごく違和感があった。あと、ナレーションとか音楽を総動員して、なんでも懇切丁寧に説明しなきゃいけないのも嫌だった。そんな風にしなくても観客はわかるんじゃないかって思ったんですね。

そんな矢先に、フレデリック・ワイズマン(10)の映画に出会った。ワイズマンの映画には台本もなければナレーションも音楽もない。それがすんごく刺激的で面白いわけ。っていうか、彼の存在も知らずにドキュメンタリーを撮ってた自分に衝撃を受けてね。「なんだ、俺が考えてたことを60年代からやってる人がいたのか」と(笑)。で、「オレもワイズマンみたいな映画を撮りたい」って思ったわけだけど、単にマネするだけだったら芸がない。どうせなら自分なりのマネをしようと思って、「観察映画の十戒」(11)と呼んでいる十のルールを自分に課したわけ。要は、「観察」をキーワードにワイズマンたちがやってきたダイレクトシネマ(12)を再定義、再発明するっていうことをやりたいと思ったんです。


著書(13)も読ませていただきました。観察映画はすごく理論がしっかりしていると思いますが、それはドキュメンタリーの理論等をみっちり勉強した結果編み出したわけではなくて、現場での経験がもとになっているのでしょうか。

それはもう、完全に現場です。僕はドキュメンタリーの理論に関しては殆ど勉強しなかった。自分が現場で抱いた疑問や違和感が糧になっていて、その違和感に対して答えたのが「観察映画の十戒」なんですよ。


観察映画を編み出すための素地を養われたのは、フィクション映画をつくっていた時代でしょうか、それともテレビドキュメンタリーをつくっていた時代なのでしょうか。

両方でしょうね。テレビの現場はすごくいい訓練になりました。毎回短期間に番組を完成させなきゃいけない、というのが大きいんですよ。完成させるというのは、「自分なりの結論を出す」ということなんです。そういう訓練をたくさん積み重ねることで、一つの作品を作り上げることに必要な力を身体にしこむことができた。やっぱり訓練って結構必要なんですよ。


(6) 1947年創立。SVA(エスヴィエー)と略称される。当初はイラストレーターと漫画家を養成するための専門校として開校し、ニューヨークのポップアートシーンの隆盛の一端を担ってきた。

(7)北野武(きたの・たけし)(1947-)は日本のコメディアン、司会者、構成作家、小説家、エッセイスト、映画監督。代表作に『座頭市』。

(8)ジェームス・アイボリー(1928-)はアメリカ合衆国出身の映画監督・脚本家。代表作に『眺めのいい部屋』がある。

(9)ヴィム・ヴェンダース(1945-)はドイツの映画監督。代表作に『ベルリン・天使の詩』がある。

(10)フレデリック・ワイズマン(1930-)はアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画監督。代表作に『病院』、『肉』などがある。
(11)「観察映画の十戒」1.リサーチは行わない。2.打ち合わせはしない。3.台本は書かない。4.カメラは一人で回す。5.カメラはなるべく長時間回す。6.撮影は「広く浅く」ではなく「狭く深く」。7.編集作業でも予めテーマを設定しない。 8.ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。9.カットは長めに編集し、余白を残す。10.制作費は基本的に自社で出す。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。
(12) 1960年代に米国で始まったドキュメンタリー映画の一形式。撮影と同時に録音し、ナレーションを入れず、事実をそのまま伝えることを目指す。

(13)想田和弘著『なぜ僕はドキュメンタリー映画を撮るのか』 (講談社現代新書 2011年)

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