「いつも思うのが、『いま回したら絶対面白いじゃん』っていうシーンがあるのに、回してないんだよね」
映画の題材はどうやって選んでいるのでしょうか。
僕の場合、撮りたい題材っていうのは常に20ぐらいはあるんですよ。それは僕のノートにリストになっている。そのなかで御縁ができたとこから撮っていくという感じです。
監督の場合、偶発的に、奇跡的なシーンを撮れることが多いと思うのですが、そうした偶然を捉えるためにはやはり長時間耐える必要があるのでしょうか?僕が一番好きなのは『演劇1』のラストのハッピーバースデーのシーンなのですけれど、ああいう奇跡は待ち続けるしかないのでしょうか。
待つというより、必ず起きるんだね、何かが。重要なのは、必ず起きる「それ」に気づくこと。実は起きているのに「それ」に気づかない人が多いんじゃないかな。
観客がその重要なシーンに気付かないこともあると思うのですが、そこを気付かせるための工夫などは何かなさっているのでしょうか?
はい、それは編集で工夫します。たとえば、『演劇1』のラストは奇跡的だと言われましたけど、あのシーンをいきなり観客にみせても単なるサプライズパーティーのシーンにしかみえないわけですよね。あのシーンを「奇跡的だ」とか「演劇のエッセンスが詰まってる」などと観客に思ってもらうためには、編集的な積み重ねが必要なわけです。逆に言うと、僕はラストシーンを観客に充分に楽しんでもらうために、それまでの2時間半を構築していくわけ。
『選挙2』でも、最後のショット、山さんからどんどん引いていくショットに「311後の日本社会のエッセンスが詰まってる」なんて感想を観客からいただけたりするのは、そのショットに至るまでの編集の積み重ねがあるからなんですね。
で、そういう「奇跡的」なショットを撮るためには、まずは作り手である自分自身が目の前で起きつつある現実の奇跡性に気づかなくちゃいけない。最近、僕自身が特集番組や短いドキュメンタリーの被写体になることもあるんですけど、そういうときにいつも思うのが、「いま回したら絶対面白いじゃん」っていう瞬間があるのに、作り手が回してないし、回そうともしてないことが多いってこと。そこで面白いことが起こっているのに、撮る人が気付いていないんです。
面白いことが起きていることに気づくためには、身体であったり、言葉であったりいくつかポイントがあると思うのですが、すばり「面白いこと」って何なのでしょう。
なんだろうね。シーンによるけど、例えば『選挙』出だしのシーンで僕が気づいたのは、「山さんの演説を誰も聞いていない」ということなんですよ。それはほとんどのドキュメンタリー作家にとっては、「誰も演説を聞いてないし、ショボいから撮るのやめよう」っていうシグナルなんです。でも僕は逆に「ああ、誰も聞いてないんだ」っていうことに面白さを見出して、撮影を続行するわけですよ。
そういう「思ってもみなかった面白さ」に気づくためにこそ、僕は台本を書かないし、最初に作品のゴールを設けないようにしている。自分の意識を開いておくことで、「なんだ、山さんの演説全然誰も聞いてないじゃん」ってガッカリしそうなときに、「そうか、誰も聞いていないっていう現実を描けばいいんだ」と難なくギアをシフトできる。
面白いことに気づくためには、もちろんその場で目の前の現実をよく見るっていうことが大事なんだけど、それ以上に「自分の抱いていたイメージに引きずられない」ということが大事なんだよね。引きずられちゃうと、月並みなものにしかカメラが向かなくなってしまう。僕らはふつう、月並みなイメージしか持ってないんですよ。そして現実はかならずそれを上回るんです。