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【映画監督】想田和弘監督取材



「僕は、プロの場合は100点満点を出さなくていいと思っているんですよ」

『演劇』のDVDに収録されていた対談の中では、安定的に作品を作り続けるために、収支のバランスをとらなければいけないというお話があり、少人数で撮影してコストを下げるという点に加えて、収益を伸ばしていくという点も挙げられていました。海外映画祭への出展も観客を増やしひいては収益を伸ばすための活動の一環なのでしょうか?

 

そうです。海外映画祭の場合は、いくつか目的があって、一つはシンプルに、異文化の人達に、僕の映画を観てもらう、僕の存在や映画を知ってもらう、ということです。後は、買い付けをしに来ている人もいるので、作品が売れるかもしれない。

 

配給についてもお伺いしたいのですが、配給は、向こうから買いに来るというのが常道なのですか?監督の方から売り出す場合もあるのでしょうか。

両方かな。僕からアプローチもするし、向こうから話も来るし。ただ、日本の配給はだいたい同じところでやってもらっています。僕はこう見えても義理堅くて、これまで同じところでやってきて、その人たちと気持ちよく仕事が出来ているなら、次も一緒にやりたいと思うタイプなんですね。だから、作品ができたらまず最初に観てもらうようにしています。今まで一緒にやってきて育ててもらったという思いもあるしね。もちろん彼らが「今回はやれない」っていうのでしたら、別の所を探しますけれど、例えば自分が「ステップアップしたいからもっと大きい所とやる」みたいに考えるのは嫌なんですね。

とはいえ、『選挙』と『精神』を配給したアステアはかなり多額の未払金を払ってもらえないので、『Peace』からは東風にお世話になるようになりました。義理堅さにも限界はある。


国際映画祭は文化交流の場として機能しているのでしょうか?

そうですね。ドキュメンタリーはそもそもドメスティックな性格が強くて、外国のドキュメンタリーって、なかなか劇場公開まではたどりつけないんですよ。日本でも一番多く配給されるのは、日本のドキュメンタリーでしょ?国際映画祭でかかる外国映画の大半は配給されない。逆に言うと、配給されない外国映画が映画祭なら観れるわけです。



想田監督は自分のことを「映画祭貧乏」(15)なんて言っていますが、全然そんなことないと思うんですが……。


「映画祭貧乏」っていう言葉は、僕のことっていうか、映画界で一般的に言われてる言葉ね。映画界がジリ貧のこのご時世に、僕がなんとか映画だけで食べていられるのは、たぶん適当にやっているからだと思います。一作一作に過大な期待をしない。それは大事で、特に一作目の長編ドキュメンタリーを撮る人に多いんだけど、お金を全部つぎ込んじゃうんだよね。それで借金漬けになってしまう。そうすると、一本は良い映画が撮れるかもしれないけれど、次はなくなってしまう。


コンスタントに作品を作り続ける、ということ自体凄いと思います。いい意味でアベレージヒッターということですよね。

そうそう、アベレージヒッターですよ。僕は、プロの場合は個々の作品で100点満点を出さなくていいと思っているんですよ。もちろん100点になれば素晴らしいし、100点は偶然取れることもあるかもしれないけれど、それは偶然の力を相当借りているんです。特にドキュメンタリーは偶然に左右される芸術なわけだから、多くの場合はそんなに上手くいくわけないんですよ。70点で良しとする。


観察映画は観客にもある程度の素養などが要求されると思うのですけれど、それでもなおやっていけている、というのが凄いな、と思います。それは「撮りたいものを撮る」ということを徹底されているからなのでしょうか。「商業に出すのは嫌だ」というか。

変な言い方をすると、僕は多くて2~3万人の観客に自分の作品を楽しんでもらえればいいと思っている。いや、2~3万人映画館に動員するっていうのは、我々インディペンデント映画の界隈ではむしろすごく大変で、それぐらいが上限だろうという感覚ですけど。

世の中には観客の数で成功を測るような習慣があるけれど、僕は違和感があるんだよね。何でも数で測るというのは違う気がする。数だけの論理だと、僕がテレビ番組を作ってた時には、数十万人から数百万人が見ていた訳だから、今よりももっと価値のある仕事をしていたということになる。でも、自分がその時に今よりいい仕事をしていたと思うかというと、そうは思わない。それはそれで価値ある仕事をしていたと思うけど、自由にできないことも多かったし、手応えが薄くて虚しい気持ちもある。

まあ、これはすごく主観的なものなんですけどね。要は、自分が今ハッピーかどうかってことかもしれない。テレビみたいに不特定多数の大勢の人と薄く広く関係を作ることが自分の喜びであるという人もいると思う。それは全然いいし、否定しない。だけど自分の場合は、なぜか知らないけど昔からそういう関係にはあんまり興奮しないんだよね。それよりも自分が自由に妥協せずに作った作品を、そんなに数は多くなくてもいいから、僕と同じように面白がってくれる人たちと共有したいという欲望がある。


想田監督としては、商業映画優勢の現代映画界の観客層の質だったり数だったりについて思うところはありますか?

状態は、非常に良くないですよ。もしかすると、僕らは映画の死というものを目撃する世代かも知れない。


(15)「飛行機代やホテル代を支給してくれる映画祭は多いが、上映料は普通はゼロか、数万円程度にとどまるからである。そして、行けばあれこれ支出も重なるし、その期間は他の仕事もできないので、映画界には『映画祭貧乏』という言葉もあるくらいである」(想田和弘著『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』p.231)
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