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【映画監督】想田和弘監督取材


「ある意味で、今の映像文化に対する挑戦状として書きなぐっている、そういう感覚がある」

 

例えば『演劇』で撮られた平田オリザさんは「現代口語演劇」を提唱して、日本演劇全体を牽引するパラダイムを打ち出されていますが、想田監督の観察映画という手法にはそうした他の劇映画との関係の中での批評意識はありますか。なぜ、このタイミング、この時代に、想田監督が観察映画という手法を引っ提げて出てきて評価されたのか、ということに関してどう思われますか。


僕の観察映画は、基本的に今の映像文化に対する反発や反動から出発しているんですよ。予定調和だったり、説明過剰だったりするテレビ・ドキュメンタリーを作る中で、それらに対する反発が芽生えたことが観察映画の出発点。ある意味で、今の映像文化に対する挑戦状として書きなぐっている、そういう感覚がある。でも、それはおそらくいろんな人が共有しているフラストレーションだと思う。もし僕の観察映画が評価されているのだとすれば、それは僕と同じ不満を抱えている人が少なくないってことなんじゃないかな。


劇映画の場合だと芸術的価値が評価の対象になりますが、ドキュメンタリーの場合はテレビや報道とも地続きですよね。観察映画はご自身のなかで、「これは芸術だ」という規定があるのか、それともテレビ的な、あるいは「報道」であるという規定なのか、その辺はどうお考えですか。


僕の中では芸術としてやっています。ただ、報道との境界線をはっきり引くのは難しいと思っています。たとえば『選挙』を観た人から「日本の政治の状況がよく分かりました」とかよく言われる。それはある意味、『選挙』に報道やジャーナリズム的な機能を果たしているところがあるからだと思います。「報道・ジャーナリズム」と「芸術としてのドキュメンタリー」っていうのは地続きで、その間にあるのはグラデーションや濃淡みたいなものなのでしょう。だから観察映画は、基本的には芸術としてのドキュメンタリーを目指しているんだけど、報道っていう要素も必ず紛れ込む。


先ほど映画の死という話もありましたが、想田監督の観察映画の場合は、もう少し社会的な視点、政治的な視点から観てやればまだまだ多くの需要があるっていう面もあると思うんですよ。ただ同時に社会的な読み方、政治的な読み方という観点から観てしまった時に、たぶん観察映画では物足りなくて、「もっと背景についてリサーチしろ」っていう風に感じられる場合もあるし、逆に観察映画からするとそういう観方をされるとあんまり面白くないという両方の面があると思うんですが、その辺のバランスというのはどうお考えですか。

おっしゃる通りで、メッセージがはっきりした映画のほうが売れるんです。これはもう間違いない。ドキュメンタリーもそうです。だからマイケル・ムーア(16)が売れるというのはすごいよくわかる。日本でも売れているドキュメンタリーっていうのは、やっぱりメッセージが強烈なやつです。ある意味でプロパガンダだよね。

僕はそういうプロパガンダを作って売れたとしても、あんまり嬉しいとは感じないタイプだから、自分は作らない。ただし、映画は観客のものでもありますから、僕が作ったものを、人々が一種のプロパガンダとして利用することにも異議は唱えない。精神医療の現場で僕の『精神』を活用してくれるプロフェッショナルって結構多いんですよ。例えば、「患者の状況を改善するよう働きかけるためにはこの映画をちょっと観てもらわなきゃいけない」といって上映会を開いたりとか、あるいは選挙制度について異議申し立てをするために『選挙』の上映会をしたりとか。そういうような使い方をしてくださる人たちはいて、それはそれでみなさんのお役に立っているわけですから、歓迎しているんですよ。


学問研究や政策上、アジェンダ設定をして正解を出していく場合、そのプロセスは、ある意味で全体を見渡す視点が必要で、それに対して想田監督の作品はすごくニッチなところに目を向けて、全体を見渡すという欲望をとりあえず断念するような視点でつくられていると思います。

その上で、例えば『精神』の中で偶発的・個別的に垣間見られた精神医療の難しさや金銭的な面、行政の対応の柔軟さの欠如、といった問題を、学問や政策的な全体を見渡す視点までもっていくということはできるのでしょうか。

僕は映画の中で、すごく具体的で個別のスペシィフィックなものに目を向けてはいるんだけど、それらを最終的には抽象的・普遍的なものに昇華しようとしているんだよね。だから『精神』も「こらーる岡山」(17)という本当に具体的で小さな世界にカメラを向けてはいるんだけど、その射程の先にあるのは「人間の精神」っていう抽象的なものだし、それを描くことを僕は目指している。できた映画をどう使ってもらえるかっていうことは、僕の仕事の範囲外だし、ある意味僕は関知してないのかな。


観察映画は観る側ひとりひとりによってかなり違いが生まれてくるので、どう利用されてもいいということでしょうか。

そうですね。映画の使われ方は、コントロールできないと思うんだよね。コントロールすべきでもないし。だから、それは大いにやってくださいっていう感じで、「なるほど、そんな使い方をするのか」っていうようなこともあってそれはそれで面白い。


(16)マイケル・フランシス・ムーア(1954-)はアメリカ合衆国のドキュメンタリー監督。代表作に『ボウリング・フォー・コロンバイン』。

(17) 外来精神科診療所「こらーる岡山」。想田監督の観察映画第二弾『精神』の舞台。

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