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【観劇企画取材】相馬千秋さん(F/T プログラム・ディレクター)

はじめに

フェスティバル・トーキョー (F/T) をご存じだろうか。日本最大の国際演劇祭として存在感を放つこのフェスティバルだが、演劇にあまりなじみがない人にも、「F/T」というシンプルな文字列と黄緑色の洗練されたロゴに、どこかで見覚えがあるのではないだろうか。

池袋を拠点に年に一度開催されているF/Tだが、そこには世界から様々な作家・作品が招かれ、ガラパゴス化が叫ばれる日本の演劇に風通しを与えている。もちろん日本から集められた演劇も、切れ味するどいものばかり。そしてなんといっても、最前線で思考し実験する芸術家たちと、それを目撃する覚悟を持った観客たちが集まって、劇場はふだんの日常とは異なる緊張感と高揚につつまれる。その空気感が、僕はたまらなく好きだ。

今回は取材させていただいた相馬千秋さんは、30代の若さでこの巨大なフェスのプログラム・ディレクターを務める凄腕だ。F/Tの成果と限界、そして演劇が今日の社会に対して持つことのできるアクチュアリティや可能性について、たっぷり語っていただいた。


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【プロフィール】

相馬千秋|Chiaki Soma
1975年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フランス・リヨン第二大学大学院で文化政策およびアーツマネジメントを専攻。2002年よりNPO法人アートネットワーク・ジャパン所属。主な活動に東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」、横浜の芸術創造拠点「急な坂スタジオ」設立およびディレクション (06-10年) など。2009年 F/T創設から現在に至るまで、F/T全企画のディレクションを行っている。また2012年より「r:ead(レジデンス・東アジア・ダイアローグ)を立ち上げ、東アジアのアーティスト、キュレーターのためのコミュニケーション・プラットフォーム作りに着手している。2012年度より文化庁文化審議会文化政策部会委員。

答えがわからないからこそやっている

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――はじめから一番抽象的なことを伺いますが、相馬さんは「演劇を観る」ということにどういう意味や価値があるとお考えですか。ご自身、そういうことを根源的に問うという姿勢をすごく大事にしていらっしゃいますよね。

「それを探すためにやっています」という答えが一番的確かなと思います。世の中には、ある目的やゴールがあらかじめ設定されていて、それに向かって組み立てていける物事もあると思いますが、芸術や表現というのはおそらく、それらが向かおうとするところがわからないからこそやっている面が強いんじゃないかと。演劇の社会的価値を外部に向かって説明する際には、例えば「演劇は文化の多様性を担保し、他者とコミュニケーションするために必要です」というような論理はもちろん必要です。けれど、そういう論理を、自分が創作・表現活動をしていくとき、あるいは自分が作品を鑑賞するとき、はじめから前提として設定してしまうと、逆に自分がその言葉の定義するものから出られなくなってしまう。だから、一応の理屈は武器として持ちながらも、それすらも疑いつづけるという姿勢が重要だと思っています。そして、その姿勢自体が、F/Tそのものであり、F/Tを貫く根本的な姿勢なんだと思います。毎回、作品をつくって上演して、「お客さんはいったい何と出会ったんだろう」とか、「どんな問いが生まれたんだろう」とか、あるいは「もともと設定した問いがどのように深まったんだろう」とか、そういうことを一つ一つ検証して、また次の問いを立てるっていうことの繰り返しなんですね。

問いに対して扉を開くような作品をつくりたい

――他方で、相馬さんは「フェスティバルとは選択と集中の場だ」ともおっしゃっていますが、価値や意味というものの内実が分からない中で、価値や意味といった根源的な問いを問うものとして選択される作品と、そうでない作品を分かつ基準とは何でしょうか。

私はある個人がその人なりの問いや価値観をもって表現をするということは、極めてプライベートな行為だと思っています。それについて良い悪いといった価値判断は、いったい誰がどういう権限があってするのか。私は大前提として、この世の中にあるすべての表現、すべての個人の表明は、基本的に肯定されなければいけない、そしてその表現の自由は、表現の社会的責任とともに確保されなくてはいけない、と考えています。

そういう前提の上で、無数のプライベートな作品の中からフェスティバルというパブリックなプラットフォームに載せるものを選ぶときに、そこで問われるべきは、いま私たちが根差している時代や、東京、日本という場所で、人々がパブリックに考え得る問いについて、議論する扉を開くような作品かどうかということだと思っています。「問いに対して扉を開く」ということが重要であって、たとえ時代や社会を反映したイシューを扱っていたとしても、そこで性急に答えを求めたり、ある価値判断に基づいてメッセージを伝えようとしたりする作品は、かえって「議論の扉を閉ざす」ことになってしまうのではないか。たとえば政治は、社会を動かしていくために賛成・反対の対立軸をつくって善悪を判断していくものですけれど、芸術は、そういう二項対立を疑ったり、それ自体を宙吊りにすることが可能な領域だと思います。芸術こそが、物事を単純化、一元化から解放し、複雑なものを複雑なまま描くことができるものなのではないか。私がF/Tにお招きしているのは、そういう可能性やポテンシャルが高いアーティストや作品です。

――そういったアーティストや作品の選択をするにあたって、どのように日頃からリサーチをされて、どのように選んでいくのでしょうか。

今申し上げたような「問いに対して扉を開く」アーティストや作品に出会うためには、作品の完成度よりも、作り手が何を考えているかを知ることが重要なので、作品を観るだけでなく、実際にその作り手との対話も重視しています。とくに私の場合は、一人のアーティストを継続してF/Tに招くようにしているんですが、それは、アーティストとの信頼関係を深めることで、フェスティバルと作品で共有される問いも深くなるし、そのアウトプットの強度も波及力も高めていくことができるからです。

こうした私の方針に対して、「フェスティバルは毎回違うアーティストを紹介すべき」という反対意見があります。また、「フェスティバルはもっと、祝祭的であるべき」という意見もあります。しかし冷静に考えれば、東京ほど既に都市空間が商業化され尽くした祝祭的な空間ってないと思うんですよ。ヨーロッパに行くと照明も暗くて、コンビニもファミレスもないから夜は静かだし、通常は地味な日常がずっと続いている。そんなところに、稀にカーニバルのような非日常的なイベントが起こるから祝祭の意味があるんだけど、なんか東京って毎日がパレードみたいな感じじゃないですか(笑)。そんなところに、F/Tのように世界的に見れば規模の小さいフェスティバルが生み出せる祝祭感には限界がある。そういう既にある祝祭性をむやみに拡大する方向よりも、今、東京に必要なのは、むしろ問いを深める作業とか、あるいは普段の日常では気付かないような「他者」に出会っていく作業なんじゃないかなと思います。