――演劇が本当に力があった時代と比べて、社会のなかでの演劇のプレゼンスはかなり落ちてきているかと思いますが、その点についてはどうお考えですか。
演劇というメディアの価値が、他のメディアの登場によって思い切り相対化されたということだと思います。例えばギリシャ時代には紙がなかったので、その共同体の物語を共有することは演劇にしかできなかった。だから演劇はいまよりもっと特権的で、共同体の問題を議論するという、民主主義そのものを体現する役割もあったわけです。しかし今の演劇は、決してメディアとしてメインストリームではありません。物語を楽しむことはテレビでもマンガでも出来るし、多くの人が集まって熱狂状態を共有するならスポーツのほうがすごい。とはいえ、演劇というメディアはまだ消えたわけではなく、ギリシャ時代から物語を継承する装置として存続してきているわけです。これからこのメディアがどうなっていくのかという問題は、演劇というコミュニケーションのモデルそのものの問題でもあるし、同時に演劇を巡る制度の問題でもあります。F/Tのメイン・コンセプトの一つも、「演劇が今日果たしうる役割とは何かを問う」ということですけれど、つまりはそれを問うこと自体がテーマになってしまうくらい、演劇の存在価値は危うい、ということが言えるわけです。
この危機感に対して私が明確な答えを持っているわけではありませんが、一つ実感として感じているのは、演劇というメディアを成立させている「劇場」という装置が、もっと現実に即して進化しなければならないのではないか、ということです。「劇場2.0」みたいなものがもっとイメージできれば、演劇というメディアの可能性ももう少し開かれてくる気がします。それが具体的にどういうものかは、まだ分かりませんけれど。
演劇がタコツボ化して、他者性がなくなってしまっている
――制度のお話が出ましたが、演劇の中身についてはどうでしょうか。一般的に言われることですが、今の日本では演劇界自体が非常にタコツボ化していると思います。特に小劇場だと、観る人と演じる人がほぼ一緒で、他者性がなくなってしまう、みたいな問題もあります。ある公演で観客席に座ってた人が、次の公演で出演してます、みたいな(笑)。
――ダンスとかも多分そうですよね。コンテンポラリーダンスとか。
そうそう。それを「距離感が近くて良い」とかって言うのは簡単なんだけど、果たして表現としてそういう形で自閉していっていいのかという問題はあると思います。
去年「公募プログラム」の審査員をお願いした内野儀先生が、「アジアの表現者たちは、大きな身振りの演劇で抵抗をしている。それに比べて日本の劇団たちはどこか小文字というか、非常に小さな身ぶりでしか世界をとらえていない。」といった辛口のコメントをしていたのが非常に象徴的でした。半径5メートルの日常だけを描き続けることが悪いわけじゃないし、その小さな身ぶりによる抵抗というのもあり得ると思うんだけど、結局それが他者と共有されなければ、ただの自己満足で終わってしまうことになります。
例えば、「今、社会はこんなに病んでいる」ということを描く演劇があったとして、ひたすらその病みを見せつけるという手法もあり得るわけだけれど、それを表現者はどう捉えているのか、という視点がなければ、ただの社会の鏡になってしまうわけです。それならば直球のドキュメンタリー番組のほうがずっと伝わりやすい。表現として成立するための独自の視点をいかに持つか。その辺のことを若い人たちがもっと意識してくれると良いなと。じゃないとやる側と観る側が一緒に鏡を通して「こんなに病んでる私」を永遠に見あっている、みたいになっちゃう(笑)。やっぱりこれでは表現として弱いと思います。