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【観劇企画取材】相馬千秋さん(F/T プログラム・ディレクター)


対話のためのフェスティバルへ

――最後に、F/Tの関連プログラムについても伺いたいと思います。F/Tではメインとなる演劇の公演の他に、気軽に参加できる関連プログラムを用意されていますが、そのなかでもまず劇評コンペ (*9) という取組は、素人も劇評を通して感想を語りあうという、観客の側から能動的に参加するプラットフォームを作ることで、観る文化の醸成につながっていく可能性があるのかなと思いました。劇評コンペを始めた理由とやめた理由は何だったんでしょうか。

F/Tに限らず今の大抵の演劇では、広報活動の一環で事前情報は出るけど、事後に批評が出ることは稀です。かつては新聞などが批評の役割を担って、現場と言語を繋いでいたのに、だんだんその機能が衰えて、今はやる側と観る側の緊張関係がなくなってしまった。私も、実際F/T09春をやって、あれだけの演目をあれだけの規模で上演したにも関わらず、批評的な言論の少なさに愕然としたんです。

その場、その時で消えていってしまう舞台をいかに後世に残すかというと、やっぱり言葉で残していくしかない。そこでF/Tでは毎回、事後にドキュメントを発行し、各演目を論考で記録しているんですが、それとは別に外部の人の言葉が欲しかった。それで劇評コンペを始めました。あえてコンペ形式にしたのは、書き手を増やすためにいろんな人に書いてもらおうという育成的な視点もありました。さらに劇評を読んだ他のお客さんが来ることを見越して、上演されてすぐに発信できるように劇評をインターネットに掲載しました。新聞だと上演してから評が出るまでに下手すると一カ月もかかるので、ほとんど意味がないんだけど、インターネットの即効性をなるべく利用した。

結局、F/T09秋から10・11と三回やって、かなりの数の劇評が集まりました。実際、その劇評コンペで賞をとった人がその後プロの書き手になったケースもあるので良かったと思っています。とはいえ相変わらず批評というものがなかなか日本では成熟した形で根付いていかないという現状があって、それに関しては悔しい気持ちがありますね。日本は批評が成立する社会になることができるのか、ということも考えていかなくちゃいけないんだと思います。

相馬さん記事写真4
――F/T12からはフラッシュモブを関連プログラムに取り入れてらっしゃいますが、フラッシュモブはどういった感じで始められたのですか。

フェスティバルには演目の上演だけではなく、多くの方が気軽に参加できる枠組みもあったほうが良いということで、F/Tでは毎年、参加型のイベントもやっています。F/T09 春・秋では、伊藤キムさんがプロデュースした「おやじカフェ」とか、F/T10でやなぎみわさんが発案した「カフェロッテンマイヤー」など、F/Tならではのコンセプト・カフェが話題を集めました。それが成功したので、次に何をしようかなと。都市そのものを異化しちゃうような大胆なことやりたい、しかも「来てもらう」とか「観てもらう」だけじゃなくて、「出会ってしまう」というフェスティバルの楽しみ方を探りたいと思っていたところ、たまたまフラッシュ・モブが話題に上がって「あっ、これだ」って思ったんですよ。Mobは英語で「群衆」という意味ですが、群衆=モブがフラッシュ=一瞬のきらめきを見せる。群衆が突然、可視化される。それがすごい発明だなって思って。それをF/Tならではの味付けでやってみようっていうことになりました。

その後、伊藤昌亮さんというフラッシュ・モブを専門的に研究されている方にお会いして、モブの歴史や現状を教えて頂きました。伊藤さんによると、日本のモブは2ちゃんねるが発祥らしく、ネットで呼びかけて深夜に一斉に吉野家に押しかけたり、渋谷の交差点を『マトリックス』の恰好で占拠したりっていう、ただのいたずらだけど、それ自体が都市を異化しちゃうようなところがすごく面白いなぁって思って、そういう遊び心は芸術の本質ともつながっているので、F/Tでもどんどんやりたいなぁって思っているんです。

――劇評コンペやフラッシュモブといった関連プログラムの狙いはコミュニケーションや対話の場としてF/Tを機能させることだと思うんですけど、実際に対話の場として機能しているという実感はどれくらいありますか。

F/Tの問いに積極的に応答したい、そして実際に応答してくれているアーティストや、一部の観客の人にとってはそうなっていると思います。ただ、それをもっと広い社会に接続していく作業も引き続き必要だと思っています。

――対話やコミュニケーションといった看板や大義名分はすごく重要だしその通りだと思いますが、フェスティバルみたいなところで新しい人に出会えるかっていうと、なかなかそう簡単ではない話だと思うのですが。

そうなんですよね。私ね、本当はカフェをやりたいんです。バーでも飲み屋でもいいんだけれど。今のF/Tに絶対的に足りないもの、それは、観劇後に観客やアーティストやスタッフが集まることができる、物理的な場所です。時間やお金の制限なく、自由に対話ができる場の雰囲気や仕組みがあれば良いんですけど、日本ではそういうシンプルなことが一番難しいんですよね。これだけ商業化された都市空間だと、我々が自由に安く使えるような場そのものがないんですよ。居酒屋だって、毎日貸切となれば莫大にお金がかかりますし、そもそも飲食費を経費に計上するのも難しい。海外のフェスティバルなら必ずといっていいほどあるフェスティバル・バーが、こうした事情によりいまだに実現できていないことはとても残念です。次に何かやるとしたら、対話の新しいモデルを提案するような場をつくりたいと思っています。

――今日は本当にありがとうございました。

ありがとうございました。

——
  1. 2009秋-2011まで3回にわたって、一般の人から劇評を募り、審査する劇評コンペが関連プログラムとして行われた。

編集後記

相馬さんの落ち着いた語りから滲み出る、この根源的な問いを前にしての真摯さがとにかく印象的だった。やわらかく気さくな物腰と、けれども時に内へと深く遡行しながら慎重に言葉を探っていくその身振り。相馬さんによって紡がれる言葉が、発話され表出されるその瞬間から、問いの不可能性をしたたかに歩み抜く一筋の足跡として浮かび上がってくる様を、僕たちは目にすることができた。それは単なる情報には決して縮減されえない過剰として、こうしていまも編集後記を書いている僕の脳裏に甦ってくる。芸術の力を信じ、かつ決して自閉せず社会と向き合い続けること、その力強い肯定がそこにはあった。

答えの出ない問いを突き付けられたとき、ともすれば私たちは偽の答えを捏造し思考することを止める。あるいはもう少し賢く、もう少し性急であったならば、問い思考することの果てに横たわる虚無を看破したと思い込み、ニヒリズムの淵へと落ちていく。相馬さんもまた、F/Tでの成果にすら充足せず、一抹のペシミズムとともに日々揺れているのかもしれない。それでもその力強い思考は、今までの歩みをすべて否定しつくしてしまうことなく一つひとつ確かめながら、また新たな一歩へと歩を進めていく勇気を体現していた。そしてそれは私たちの背をも、強く押してくれるものだった。

柴田温比古

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