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【観劇企画取材】相馬千秋さん(F/T プログラム・ディレクター)


物語を語り直すということ

――先ほどの日本という場所の「悪い場所」性というテーマと繋がる所があるかなと思いました。大きな物語 (*3) が機能しない日本で、創り手の人たちは大きな物語を再び仮構するということができないからそういう身ぶりになるということだと思うんですけど、一方で、観る側も大きな物語を求めない。そもそも演劇というもの自体が、情報が過剰に溢れかえる現代生活において、人々の生活の大きな部分を占める強度を持った経験になりにくい、だからネットとか数ある娯楽のなかのひとつのオルタナティブとして消費されるしかない、という気がしますが。

今の日本でも、「大きな物語」を演劇でなぞることはできるでしょう。たとえば蜷川幸雄さんが昨年、シェイクスピアの『トロイアの女」をイスラエルの俳優も交えて演出していましたけれど、ああいう形で今の政治状況も盛り込み、平和を訴える演劇をつくることは可能ですよね。それを観客が求めているかどうかは分かりませんが。

――他方で、リオタール (*4) の言う「大きな物語の失効」は、たとえば「国家」とか「民族」みたいな大きな物語を立てること自体が暴力や戦争を招いてしまうことへの警鐘でもあったわけですよね。そういう中で今回「物語を旅する」っていうコンセプトを選ばれたことはすごく意味があるのかなと思います。

そうですね、やはり私の中では、震災があったのが大きいです。今回のこのコンセプトを書くときに非常に影響を受けたものとして、鷲田清一さんの『語りきれないこと』 (*5) と、河合隼雄さんと小川洋子さんとの『生きるとは、自分の物語をつくること』 (*6) という対談がありました。言っていることは非常に素朴で、生きているということは自分という物語を紡ぐこと、それがいったん途切れたらもう一回それを再編集したり、あらためて語りなおすことだよ、と言っている。

これはとても素朴なことだけど、個人レベルでも共同体レベルでも、震災であらゆることがぐらぐらと揺さぶられた今ほど、この「語り直すこと」が必要な時はないんじゃないかというのが私の個人的な直感です。日本全体がぐらぐらな時に、「頑張ろう日本」ならまだしも、「日本を取り戻せ」とか、かなり分かりやすい大きな物語が次々と起動している。あれっという違和感も、扇動的な物語、強い物語の陰に忘れ去られて、気がつけば歯止めの利かないことにもなりかねない。だから太いものに巻かれないというか、全体主義に流されていかないような「覚醒」した視点を、演劇で持ち続けなきゃいけないような気がします。単純に「?反対」と声高に叫ぶことではなくて、現実に対して覚醒した「眼」を持ち続けること。そして、大きな物語からはこぼれ落ちる、ミクロな物語とか、オルタナティブな物語を演劇を通じて拾い上げていくこと。でもそれって演劇じゃなくてもできるかもしれないですよね。最近はだんだん演劇じゃなくてもいいのかなってみたいな気もしているんですが(笑)。

――演劇にしかない特殊性みたいなものはないのでしょうか。

演劇じゃないといけない理由を考えていくと、大抵、つまらない議論になってくる気がします。「演劇はライブの芸術で、役者が目の前にいるから体感が伝わる」と言うけど、単純に一回性のすごさや緊張感でいうと、スポーツに負けちゃう。演劇はシナリオがあって再現しているけれど、スポーツは台本すらないですから。

ひとつ言えるなと思うのは、演劇における「役を演じる」という機能です。通常では、役と俳優は一体化して距離感がないほうが「うまい」演技ということになりますが、ブレヒト (*7) 以後は、いかに役から醒めて距離をとるか、ということも言われるようになった。この醒めている感覚、覚醒している状態をもって社会と対峙しながら、世界の不条理や、大きな物語の猛威と距離をとっていく態度、そういう生き方が必要な時代になってきているのではないかという気がします。

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  1. リオタール(注6参照)が『ポストモダンの条件』(小林康夫訳、水声社、1986年)の中で「大きな物語の失効」という表現によって、高度に先進化・分化した今日の社会において、皆が共有することのできる価値観などが成立しえなくなっている現状を指摘した。
  2. ジャン=フランソワ・リオタール(1924年8月10日?1998年4月21日)。フランスの哲学者。マルクス主義、精神分析、現象学などを専門とするポストモダンの代表的思想家。
  3. 鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学』角川学芸出版、2012年。
  4. 小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮文庫、2011年。
  5. ベルトルト・ブレヒト(1898年2月10日?1956年8月14日)。ドイツの劇作家、詩人、演出家。役への感情移入や同化を求める従来の演劇論を覆し、「異化効果」の理論を唱え、戦後の演劇界に莫大な影響を及ぼした。

観劇のモチベーションを生み出すにはなにか発想の転換が必要

相馬さん記事写真3
――演劇にはやっぱり「一回性」という決定的に不利な点がある気がします。音楽だったらiPodで音楽を聴いて好きになったアーティストがいるからライブも観に行きたいとか、映画だったら過去の作品のDVDを観て映画館にも足を運ぶようになる、というのがありますが、演劇はそのような複製やアーカイブによる媒介がないからなかなか話題にもなりづらいし、友達と共有できないものを一人で観に行っても仕方ないかなと思ってしまう。観に行くまでのハードルが演劇の一回性によってすごく高くなっていると思うのですが、どうお考えでしょうか。

アーカイブの問題は、最近の映像アーカイブ技術の進化によって、お金さえあれば解決できるんじゃないかと思っています。もともと演劇の場合、伝統的には戯曲がアーカイブという考え方があって、ギリシャ悲劇も歌舞伎も、継承されているのは戯曲なわけです。一方で、個々の上演を時代や地域を超えた共有財産にしていくためにも、上演はしっかりと記録していった方がいいと思います。国策として文化庁が予算をつけてやってもいいのではと思いますね。

観劇のモチベーションということになると、なにか発想の転換がないと難しいと思います。「この芝居は一回きりだよ。だから見にこい」っていうのは当然演劇の歴史の中でずっと言われつづけてきたことだけれど、だからってみんなが行くわけじゃないじゃないですか。だからプロデュースする側で、何か根本的な発想の展開をしないと難しいでしょうね。

たとえば私は北川フラム(*8)さんをすごく尊敬していて、個人的に乗り越えたい存在だと思っているんですけど、フラムさんはまさに現代美術の体験や消費の仕方を転換したんだと思います。つまり北川さんは「現代美術はホワイトキューブで観るものだ」っていうところから、越後妻有みたいに、展示された美術品を観るだけではなく、そこに至る旅まで含めたトータルな体験に再編成した。そして実際、毎年八十万人もの人がそれを見に行くモチベーションを創りだした。では演劇ではどうか。演劇の特性を活かしつつ、お客さんがそこに主体的に行きたいと思うような仕掛けを、そろそろ新たに発明できるのではないか。私はそこに興味があります。

――たとえばヨーロッパでは学校帰りにオペラ座を観に行く、といった感じで地域に文化として根付いていると思うんですけど、日本では全然そうじゃないですよね。観劇へのモチベーションを作りだしていく上でそういう日本固有の難しさみたいなものもありますか。

私はフランスに留学していた時期が長かったので身にしみて思うんですが、向こうの人はとにかく余暇の時間が長いんです。夏のヴァカンスの5週間は、権利として保障されているし、日曜日はお店もやっていないしテレビも再放送ばかりだから、アートに行くしかない(笑)。美術館も劇場も安いから、低所得者層でもそれほど抵抗がない。
翻って日本は、とにかく労働時間が長過ぎる。とくに若い層が不安定な重労働に従事させられていて、もう過労死寸前みたいな人が増えているような社会で、そりゃアートどころじゃないですよね。お金も時間もない人が、芸術文化よりも生活を優先するのは当然です。私はアートの観客層をマーケティングで拡大するよりも、基本的な労働条件や余暇政策を改善するほうが急務だと思っています。

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  1. 日本のアートディレクター(1946年10月5日-)。2000年から開催されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」では総合ディレクターを務めている。