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【観劇企画取材】相馬千秋さん(F/T プログラム・ディレクター)


異なる他者と出会っていくことがF/Tにとっての政治性

――相馬さんは二項対立ではない広義の政治性というものを、芸術という分野の中で探ろうとしていらっしゃると改めて感じました。一方で、必ずしも日本の演劇界一般は、そういう政治性を持っていないという現状があると思うんですけど、そういう状況に対してF/Tはどれだけ影響力を持てるか、ということについてはどうお考えでしょうか。

演劇界というものがどれだけ実体としてあるかはよく分かりませんが、例えば主要な公共劇場を例にとっても、そこでメインストリームとして上演されている作品は、世界的な基準から見るとかなり商業演劇寄り、という現状があります。それはそれでエンターテインメントとして面白いだろうし、優れた演出家がつくっているわけですから、そこに社会的なメッセージや批評性もあるだろうとは思います。ただ商業演劇の場合は、最終的に商業的な成功が優先される訳ですから、どうしても集客力のあるスターを使い、スターを観たい層に向けて作品が作られていることは否めない。

そういう今の日本演劇のメインストリームに対して、F/Tはそのカウンターとして機能しているとは思います。チケット料金をとってみても、メインストリームが1万円前後であるのに対して、F/Tは安いものでは2000円からあって、学生でもかなり観られるように設定されています。それは経費がかかってないからではなくて、単純にチケット収入で賄えない部分を公的助成金で補っている訳です。それに対して、チケット収入が少な過ぎる、という批判もありますし、また内容的にも偏りすぎているという意見もあるでしょう。しかし、芸術は多様なものであるべきで、商業演劇のように多くの人が心底楽しめるものがある一方で、社会や時代に応答した問題提起をして、観る人の中になにかこう「ざらっとしたもの」を残すようなものもあるべきなんです。私は、商業的な成功の方程式だけでは淘汰されてしまう作品にも、上演の機会を与えるのが公共的なフェスティバルの重要なミッションであると考えています。

――実際F/Tではたとえば、ポスト・コロニアルな状況 (*1) への潜り戸になるような作品を選ばれている、言葉は変ですがすごく「啓蒙」のポテンシャルの高いフェスティバルになっているという風に感じます。

ポスト・コロニアルということは、すなわちシステムや文化を共有していない他者の現実と、いかに自分の価値観の押しつけを持たずに対峙できるか、ということだと思います。例えば今回のF/Tでは、レバノンのアーティストを招聘するんですが、レバノンというローカルな場所で、ローカルな現実、ローカルな問題意識に基づいて制作された彼らの作品を、私たちは100%「わかる」ことはできないでしょう。しかし、「わからないということがわかる」。そういう「わからない現実がある」ということが、知識やジャーナリスティックな情報としてではなく、芸術を通して体感としてわかる、ということが重要だと思います。

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  1. 文化面で西欧が非西欧を新奇な目で見つめ、消費する姿勢の中に、帝国主義・植民地政策と同じ権力関係を見出して問題化し、批判する理論をポスト・コロニアル理論と言う。エドワード・サイード『オリエンタリズム』を契機として、批評理論から政治理論に至るまで現在では避けて通れない視座となっている。

世界基準のフェスティバルを

相馬さん記事写真2
――商業に限らずアンダーグラウンドから出てくる演劇の中にも、政治性に欠けるものや、プライベートに過ぎる作品が散見されると思うんですけど、たとえば椹木野衣さんの言う「悪い場所」 (*2) のように、日本では芸術や言論が歴史性をもって蓄積されえないということが思想系の文脈でずっと指摘されていて、日本の演劇界にもそうした状況が見受けられると思うのですが、F/Tにはそれに対するカウンターという意味合いもあるのでしょうか。

カウンターとして機能しているかどうかは分かりませんが、蓄積なき「悪い場所」でどうやって闘うべきか、ということは当初から相当意識しています。F/Tをつくったときに、少なくともフェスティバルの方法論や見せ方の部分では、世界標準を貫き、意地でもガラパゴスにしないぞ、ということはかなり決意してやったんです。それまで東京には、国際空港のようなプラットフォームとしてのフェスティバルがなかった。しかしF/Tができたことで、海外から見ても、ある程度同じルールで日本の演劇の最前線を読み解くことができる、という状況は作れたと思います。逆も然りで、世界の最先端の動向を時差なく見渡せるような回路はできた、と。私は、その試み自体は成功した、少なくとも日本演劇のガラパゴス的な状況を打開するひとつの場として機能させることはできたと思っています。しかしそれは、単にフレームがスタンダード化したということであって、そのフレームを通して見る日本の演劇の風景というのは、やはりとてもドメスティックなものだと思っていますし、そこで発せられる問いも、依然ローカルなものなんだと思います。問いの固有性はそんなに簡単に時空を超えないし、その固有な問いに対する表現も、やはりローカルなものであるはずで、それはそれでいいと私は思っています。

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  1. 椹木野衣が『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)の中で提唱した概念。椹木は同書で、戦後日本美術が歴史化・蓄積されず、無限に反復を繰り返していることを鋭く指摘するとともに、その現状を分裂症的に直視する村上隆ら近年の芸術の動向にわずかな希望を見出す見解を示し、以後の日本の美術批評に大きな影響を及ぼした。

1%の演劇が必要であるということを許容できるような社会へ

――少し話題が変わりますが、F/Tの選ぶ演劇が「インテリすぎる」といった批判もありえるかと思うのですが、演劇を開かれたものにしていくということについてどうお考えですか。

そこは本当に難しいところですね。そもそも「演劇を観るか、観ないか」っていう問いもあるし、「考えさせられる演劇を観たいか、楽しい演劇を観たいか」っていう問題もあるじゃないですか。「そもそも、そんなに考えたくない」という人だっている。これまでの話で「普段出会わない他者と向き合う」ことを演劇の効果のように語ってきましたが、そもそも世の中には「異質な他者とは向き合いたくない」という人もいて、むしろそっちのほうがマジョリティな訳です。その現実とシビアに向き合わないといけない。

これは文化政策の根本理念に関わる重要な問題です。ヨーロッパの文化政策においては、「未来に向かって開かれる可能性があるものを公共が支援する」という考え方が根付いている。しかし日本の文化行政では「今現在においてより広くあまねく普及される最大公約数が公共」であり、「ごく一部の人にしか理解されないもの」はエリート主義として批判される傾向にあります。しかし私は、世の中の1%にしか向けられていないけれど、何か先鋭的なものとか実験的なもの、あるいは問いを発するもの、というのがあれば、その価値を常に担保していくべきであると考えています。なぜならその1%がもしかしたら未来を予見するものであるとか、あるいは99%からこぼれ落ちる、でもきわめて社会の多様性にとっては重要な何かがあるということもあり得るからです。単純に最大公約数を求めるならば、アートよりも、大衆向けに設計されたマス・メディアのほうがずっと効果的でしょう。

確かに今までのF/Tは、何の予備知識もなく観て楽しめるかといえばそうじゃないという意味においては、世の中の限られた1%に向けてつくられているものかもしれません。そして、この1%を5%、10%にしていくことは、どちらかと言えばマーケティングの問題で、チケット代を安くするとか、より分かりやすい広告を打つとか、いろんな戦略を通じてできるとは思うんです。でも、芸術の側からこの1%を5%にする努力をし続けることだけではなくて、社会の側から芸術を価値付けていくことも同時に重要ではないかと思うのです。現実社会においては99%の人が演劇を積極的に観に行かない中で、それでも1%の演劇がこの社会に必要である、ということを許容できるようなコンセンサスを形成していくことが、今こそ重要だと思っています。これは別に演劇やアートに限った話ではありません。「100人いたら1人にしか分からないこと」もあるけど、「でもそれでいいんだ」と、残りの99人がその1人の権利や自由、開かれた可能性を認め合えるのが、成熟した共同体における「パブリック」なあり方なのではないか、と。