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内田樹さんに会ってきた


2.内田先生の「二十歳のころ」

G なにか一つのことにガッと集中したことは、学生時代にはありました?

内田 学生時代はそうでしたけどね。そりゃそうですよ(笑)、フラフラしてよくなってくるっていうためには、やっぱりある程度年をとらないと。二十歳くらいからフラフラしてたら、ちょっとまずいんですけどね。

L 学生時代、とくに二十歳のころとかはどんなふうにされてました?

内田 いや、勉強してましたよ。まだ、自分のセンサーがどういう風に機能しているかわからないから。センサー的に、この本は読まなきゃいけないんじゃないの、とか、これは知らないとまずいんじゃないかっていうことがあると、それを集中的に勉強するっていう方針で。周りに先達もいないし指導してくれる先生もいなかったから、二十歳ごろなんかは完全に自分の嗅覚だけで勉強してるって感じでしたね。

S そのころは先生から何か教わるという感じでは全然なかった?

内田 いや、それは22、3のときに本郷にいって仏文(フランス文学科)に入ってから。丸山圭三郎先生という方がそのころアメリカ留学から帰っていらしていて。仏文学者なんですけど、ずっとコーネル大学にいた方です。そのあと戻ってきて、東大の非常勤になってソシュールの『一般言語学講義』を授業でやってました。まだ戻ってきてすぐだったから、本当にホットでね。構造主義の基本的なところからはじめてくれる授業で。この授業がね、すごかったんですよ。立ち見が出てましたよ。もうみんな壁沿いにザーッて並んで、立ちながらノートを取るって感じで。そのときに、「あー、面白い」って感じましたね。体系的に学ぶのがいかに楽かっていうことを、そのときに味わいました。でもその時が最初ですね。きちんと筋道立てて、こう勉強すればいいんだよっていうことを先生から教わったのは。その1回だけじゃないかな? その授業は3年間連続して出ましたけどね。

L あの、先生はフランス語ができなかったから仏文に行ったという話をお聞きしましたが…?

内田 (笑) はい、そうです。それは本当です。あのね、全然どこ行くかを決めてなかったんですよ。うろうろしてて。で、友達がいる学科じゃないと入ってから困るから、友達をたどって、おまえどこ行くんだよ、って聞いたんです。そしたら西洋古典学に行くとかね、美術史に行くとかね、言語学に行くとか全然興味ないところばっかりで(笑)。 それで困っちゃってね。一番仲良かったやつが西洋史に行くっていうんだけど、西洋史も行きたくないなー、と思って。英文科に行きたかったんだけど友達が1人も行かなくて。だからしょうがなくって。英語だけは出来たんですよ、割とね。大学の1年から3年のころには。だから英文科に行こうかなって思ってたんだけど、でも友達が誰もいなくて。で、仏文科をちょろっと見たら知り合いが2人いたの。クラスメイトで仲のいいやつが2人いたんだよ。それで、ああよかったって思って。しかも人数がすごく多くて、30人いたんだよ。他のところは2人とか3人だったんで、もううっかり入っちゃったら先生とマンツーマン(笑) それはちょっと無理だな、って思って。それで、「ああ、ちょうどいいやフランス語できないし、あと2年間フランス語きちんと勉強して、大学でフランス語だけは身につけましたっていうことにしよう」と思って、仏文科に行ったのでした。

X ではその頃は、フランスの現代思想を研究するということは考えていらっしゃらなかったのですか?

内田 いや、それはもちろん。だって60年代って言えばフランス現代思想の時代だったから。ブームだったし。

L では、研究者になろうという思いは?

内田 いや、別に。ただ、本読んで原稿書いているのは大好きだったので、読んで字を書く仕事はしたいなって思っていたんだけど、その中にはジャーナリストもあるし、出版社の編集者もあるし、大学の先生もあるし作家もある。そのなかの1個の選択肢として大学の先生っていうのはあったけども。別に1個だけじゃなくて、いくつかあるうちのひとつ。