16.「まぁ、そのうちわかります」―哲学自体が“装置”
X 『愛の現象学』は読んでみたんですけど、やっぱり途中から…何と言うか…内田 まあ、それはそのうち分かります。
L やっぱり何度も何度も読めば少しずつ深まっていくものですか?
X ある程度時間的な差は必要なのですか?
内田 めちゃくちゃ時間がいる。読んで、全然分かんなかったって思って終わって、何年か経って読むと、はっとなる。それでね、分かんないんだけど、分かりたいってずっと思ってるわけ。だから少しでも分かるきっかけとなるような情報というのも入れておくわけね。もうほとんどこの難解な書物を分かるためだけに生きていくようなものなのね。そうすると開くんだよ。あ、これとこれとこれが使えるって。だからけっこうインターバルって必要。2年くらいはね。最初に翻訳した時なんて、自分が訳した訳文読んでも全然意味が分からない。しょうがないからあきらめて原稿用紙を全部押し入れに突っ込んで、2年間何もしなかったんだよ。それで2年目に取り出して訳してみたら、今度は少し訳せた。その2年間何してたかっていうと、育児をしてたんだけどさ。育児なんてものをやってみると見方とか全然変わってくるよ。恐れ入りました。
やっぱり大きく変わったのは子供を育てたときと、離婚したときと、親父が死んだとき。意外に大きかったのは父親が死んだこと。あ、人間って死んでも生きてるというのが分かったね。「存在するのとは別のやり方で」って言ってるけど、あ、人間って死んでも確かにいるもんなってことがリアルに分かって、なるほどこのことを言ってたのかってなってね。だから親父が死なないと分からなかったというのもあるんだよね。そういう風にしてああいう哲学者というのは、人間の成熟していく階梯で経験することというものを全部順番に踏んでみなきゃ分からないように作ってるんだよね。だから哲学自体がビルドゥングス…”装置”なんだよね。
L じゃあ焦っても仕方がないですか?
内田 そうそう。だからゆっくりゆっくり。20代くらいの人のレヴィナス論なんて読むに堪えないんだよ。分からないところはカットして、ここだけは分かりましたって言ってる。それで分かったところからレヴィナスはこうなんだって断定するようなものもあるけどさ、そういう風に読むものじゃないんだよ。成長するために読む、あるいは自分の成長を時々点検するために読むものだからさ。今はここまで分かりました、この辺は不明です、くらいの方がいいと思うんだよ。
L いまでも分からないところってあるんですか?
内田 ほとんど分からないね。3割は分からないね。前は3割くらいしか分からなかったからね。7割は分からなかったところが7割は分かるようになった。
L 本を書くのは分からなかったところが分かるようになったということを伝えたいからですか?
内田 そうそう、ちゃんと生きていればいいんだよっていうことをね。何も哲学書を読まなくても日々の暮らしの中で経験することをちゃんとまっすぐ生きていれば、それが哲学するということだから。だからその、在日韓国人として二つの愛国心に引き裂かれるなんてそれこそ特権的経緯のあることだからね。そういう居心地の悪さみたいなものをどういう風に言語化していくかなんてことを考えたら、ある日突然様々な哲学者達の言ってたことが分かるようになるよ。そういうものなのよ。病気になって下半身が動かなくなってしまって、下半身が動かないままでどうやって楽しく生きていこうかって考えたら、ある日気がついたら難解の書を読んでも全部分かるようになったなんてね。面白いものでね、上手くいかない事があって、その上手くいかない事を飲み込んでなんとか生きていこうと思うと、きわめて汎用性の高い道具が手に入る。調子がいい、絶好調で暮らしている人ってね、いくらやっても成長しないのよ。いろんな不調に遭遇して、これをどうやって気分良く乗り切っていくのかということをあれこれ工夫していくうちにね、成長する。
L スランプも大事ですか?
内田 大事大事。だって何と言うか子供が生まれるなんてある意味ものすごい苦役なわけじゃない。それまで静かな暮らしをしていたのにビャーって泣いて、うんこは漏らすし、おしっこは垂れるし、げろは吐くしね。その状態とか、親の介護してて死ぬとかね。欠落感大きいし。離婚しちゃうとかね。そういう経験をしないと見えてこない真実というものも多々あるわけでさ、そういう経験している時に自分自身をモニターするというのはすごくいい経験なわけ。まあ、いろいろ苦労してください。努力しなくても苦労すると思うけどさ、貧乏でも全然厭わない、俺が貧乏でいいものか、ってね(笑)