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内田樹さんに会ってきた


5.私の身体は頭がいい

G 先生が趣味になさっている武道は、どちらかといえば一人でグーッとやるよりはコラボレーションの要素が強い感じがするのですけれど…?

内田 うーんとね、趣味じゃないんだよね(笑)。 本業なんですね、こっちが。

X そちらが本業なんですか(笑)。

内田 武道が本業なんですよ(笑)。お金を稼げないっていうだけでね。でも来年からはいけるんじゃないかな? 僕はずっと大学の先生なので、立場上教えていてもお金は取っていないのだけど、来年からはお金ちゃんと取るから。そしたらまあ本業と言って差し支えないと思うんだけどね。武道の場合、コラボレーションじゃないんだよね。コラボレーションに見えるのだけれど、どちらかというと内側に入り込んでいく。自分の身体の内側で起きていることをずっと自分でモニターしていくっていうかね。最初は筋肉とか骨格といったところをみているのだけれど、もっともっと内側に入っていく。そうやって内臓感覚とか細胞の震えとか、細かい皮膚の割れとか触覚とかそういうのにずっと入っていくようになる。

どっちかっていうと、皮膚のところに境界線があるとすると、外側よりも内側に入っていく感じ。目の前で、なんか人がやってきてこう手を取ったりついたりとか投げたりとか(自身の右手を左手で掴む)、というときに、そっちではなくて内側を見ているんだよね。何かが来たような感じがしたときに何かがこう体の中で反応していて、その反応のほうを見ている。相手を見ているわけではなくて。自分の世界で何か出来事が起きているときに、自分の内側でおきている内側の変化にずっと集中して、内側がこっちいきたいといったらそっちにいく(左右を順に指す)、っていうかね。これをこうしたらいいといえばこうする、みたいな感じで。外界に反応しているというよりは、内側からでてくる―内側から出てくるっていうのではないな―内側のなんかこうシグナルみたいなものに反応するという意味では、どちらかというとやっている時は遠くを見ていて、軽いトランス状態って言うか、瞑想状態に近い。目の前にいる敵とガーガーやるというのとは違う。

それはボクシングの人に訊いても似ていて、激しいインファイトの時は相手を見ていないって。本田さんというプロボクサーの人に訊いたことがありますが、ジュニアフライ級の世界タイトルの時なのだけれども、もうこんなに接近して打ち合っている時というのは、当然相手がこう来たからこう避けよう、というのではない。どこ見ていましたか、って訊いたら、つま先を見ていたって言うのだよね。相手のつま先を見ていると、こう自然に身体が反応する。するとこう一枚のところで避けていくという話をしたことがある。そう動こうとしているわけではなくて、つま先を見ていると自分の身体の中に何か反応が起きるわけでさ、その自分の反応に素直に従って動いていけばいい。やっぱり人間は生物だから、危険を避け、不快を避け、快を求めるということに関してはもうそのための装置がビルトインされているわけだから、それが活動するようにすれば、必ず、自動的に危険は避けられる。

G じゃあそういう自分の声を聴くというか…

内田 内心の声ね。無声の声を聞くというか、心耳をすまして無声の声を聴く。禅語にあるけれど、その感じに近い。

G それは音楽とか能とか他の様々な芸術に通じるものですか。

内田 能楽は完全にそうだと思うね。能楽はね、最初はもちろん武道的な興味からはじめて、中世人の身体運用を研究してみたいと思ったのだけれど、しばらくやってみて、なんでこんなことやるんだろう、っていうのがわからなくてね。能の型というのはただ三間四方の舞台をただくるくるこっち回ったりあっち回ったり、前行ったり後ろ行ったり、手を出したり広げたり、そんなことをやって、それだけでさ。なんじゃこりゃって。簡単だしさ、ある意味でね。でも、なんでこんな簡単なことにみんな五年も十年もかかるのだろうと思っていたのだけどね。

やっていくうちに分かったのだけど、実際に能舞台に立つとお仕舞とか前ばやしとかいろいろなものがあって、後ろで実際に囃し方の人がついて、囃子やって、地謡の人が地謡やっている。それで自分だけポコッと中央に出て舞台やっていると、もう舞台の上ってシグナルがこう渦巻いているのね。ものすごい勢いで。柱があったりだとか、まあ囃し方っていうのも人間であると同時に舞台装置でもあってね。人間っていうのはそこにいるだけで、引力とか斥力というか、押し戻す力と引きつける力がある。その人たちがこういう風に隅のほうにいて、そこにいくと、謡が始まるとぐっと引き寄せられるの。囃子にしてもひき付ける囃子と押し出す囃子がある。それで謡があって囃子があって、全体のストーリーがあると、必然性があるんだよね。何でここで足かけて回って三足出て開きなんだろう、と思っていてもね、実際に感度が良くなって舞台に出てみると、これ以外にない、っていう唯一無二の線を辿るわけなのよ、身体がね。へえ、と思って。

かっこいい型をするというのではなくて。いろんなシグナルが飛び交っている中で、センサーがいい人というのはそういう型でしか動かない、このリズムでしか歩かない、というのがあって、それをとれ、ってことなんだよね。だから、身体感覚というか、身体的なセンサーの感度をずーっとあげていったら、―よく先生がいうのだけどね―何にも考えなくても動けるようになる。型なんか、次こう出して、とか思わなくても、ある程度稽古したら自然に身体が動くようになるからって。沢山稽古して型を覚えて、型が完全に入っちゃえば、オートマティックに動くということだと思っていたのだけれど、そうじゃなくて、必然性のある道順の線がわかってくる、っていうことだった。ここでこっちに身体が来るのはありえない、というふうにね。それがだんだんわかってきて、面白いなーって。

結局能楽みたいなものでも武道と同じでね。まあ能楽は式楽だから昔は武士しかやらなかったのだけれども。あ、武道的な身体運用と能楽の身体運用は、自分の周りの感界っていうか環境の中で、いろいろな微細なシグナルが発信されるのだけど、それを聞き取って、最適動線を最適な速さで動いていくっていうことに関しては変わらないなあって、思ったのでした。それは最近わかったのだけれど。

L 『私の身体は頭がいい』。

内田 本当にね。自分の身体の中に、とにかく機能がまだオンになっていないのがいっぱいあって、それを一個ずつオンにしていくという感じですよ。

S 生まれつきそういうことができる人とか、生まれつきそういうことに気付きやすい人とか、そういう人はいるんですか?

内田 多少の違いはあると思うけれどね。でも、きっと身体的にはみんな条件は同じなんだよね。それでやっぱりブレーキをかけるのは頭だから、そのブレーキが強い人というのはいると思う。つまり例えば、身体が嫌がっていることがあるのだけれど、でもしなきゃいけない、しろ、みたいな感じで身体に命令する。そういう強い規範力というか、指南力というか、支配しようという強い脳があると、身体感覚は鈍感になっちゃう。

やっぱり身体は休みたいとか飯食いたいとか、寝たいとか、何かしたいというのがあるわけでね。こういうふうに身体を動かしたい、というのがね。脳の方は割ときちんと予定を作って、今日は何時から何時までこれやるから、みたいな感じでさ。さあ時間になったから走ろうとか。身体が走りたいときに走ればいいわけなのだけれども、毎日六時から八時まで走るとか決めてしまうと、嫌だな、というときも走るわけでしょ。これってやっぱりどこかの段階で身体の発しているシグナルに対する聴き取る力というのがオフになっちゃう。だから意志が強い人とか自制心の強い人というのは、実は身体感覚が育たないんだよね。

X 先生はそういう自制心というのは…

内田 ガキの頃から自制心のない子供だったからね(一同笑)。 全然利かない人だったの。

X でも大学の先生をやっていらっしゃると、やっぱり時間的な制約だとかというのはありますよね。

内田 だからそれが嫌なの。決まった時間に決まったところに行かなければいけない、というのがすごくつらい。

X でも稽古というのは、大学を辞められた後も合気道の道場で…

内田 そうだね、今作っているところ。

X それでも、時間の制約はあるのではないですか。

内田 まあね。でも二階が住居で下が道場だから、やりたいときにできる。稽古中も、途中で飽きたら「じゃあ後はみんなやっといてね、僕は戻るから。」なんて言っちゃうかもしれない(笑)。でもまあ稽古は楽しいからね。稽古は鍛えるというよりも、自分の身体感覚のセンサーがどれくらい利いているか「点検する」という感じだから、毎日毎日やっていても楽しいよ。昨日はこのシグナルに反応したけど、今日は反応しないなあ。なんでだろう、何したかなあ、何をやったからこのセンサーがオンになったのかしら、ということにものすごく興味がある。昨日は分かったけど今日は分からない、みたいなことがあってね。こうやっていると(中空を撫でる)指先にカーッとはっきりしたものが触ったのだけれど、今日は何にも触らねえや、とかね。何で昨日は触れたのに今日は触れないのだろう、っていうような自分の中の身体的な出来事って無数にあるから、それをチェックしていく作業というのは、すごく面白い。

X そういうことに気付かれたのは、稽古を始めてどのくらいしてからですか。

内田 十五年位かな(笑)。強くなりたい、強くなりたい、何とかして強くなりたい、っていって強くなろうとずーっと稽古をしていくと、ある段階でこれ以上強くなれないっていう時が来ちゃう。こんな稽古をやっていたんじゃ強くなれないというのがあって。強い弱いというのを考えていると強くなれない(笑)、っていう壁に来るわけ。強弱勝敗を論じていると、本当にある限界を超えられない。でもそこにいくまでは強弱勝敗っていうのをずーっと考えていて、強くなりたい、負けたくない、というのがないと、壁に当たらないわけ。はじめから、自分は身体のセンサーを敏感にしようと思っていて、なんて感じでヨガみたいにやっていると、この壁に来ない。クーッと稽古をしていると、壁にあたるわけ。ガツーンと。壁に当たらないと、この壁を越えるっていう次の課題が出てこないんだよね。難しいところなんですよ。十五年間くらいとにかく強くなりたい一心でやっていて、十五年目くらいに、このままの稽古法では強くなれないっていうことがわかってきた。

X それは能楽についても十五年くらいかかりましたか。それともそれはやはり関連して短時間で…

内田 能も十…十五年はかからなかったんだよね。十年以上はかかったけれど。何でこんなことをやっているのだろうって、一応言葉に出来るまでに。やっていて楽しいとは思っていた。楽しいなあ、身体が喜んでいる、というのはわかるのだけれど、何で身体が喜んでいるのかはよく分からない。

V 「強弱勝敗を論じず」に関連して、著作の中に「無敵の身体」という言葉がありましたが、それについて質問がありまして。「無敵」ということについて昔と今とでは認識は変わりましたか。

内田 もちろん、もちろん。だから無敵って、(昔は)ガンガンガンガン、とやることを考えていたけれど、今はもう、敵を作らない、ということだよね。「敵無し」ですよ。「天下に敵無し」、みんな友達というやつです。