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文學談話室 市川真人講演会・公開インタビュー



§4 会場の方からの質問


———-「今の文学のジャンルはビジュアルを使って変容しつつある」と仰っていましたが、たとえばクラシック音楽が現代音楽というジャンルに移行し、衰退しつつあると言われていますが、文学のメインストリームがビジュアル的変容を受けて死に体になってしまうということはないでしょうか?

市川 今見ているものと違うレイヤーが入ってくるときに私たちは、違う意識や記憶を喚起します。

たとえば、昔は誰でもベートーヴェンの『第九』を聞けるわけではなかったけれども、今は年末になると街中に流れていて、コンサートホールに行かなくても誰もが聞ける。すると、映画の中で『第九』が流れたときに、その間だけ出来の悪い映画の内容なんてどうでも良くなる位曲の美しさに心が奪われるようになることがあります。これと同じように、ビジュアル的変容を受けた文学作品の中に引用されたわずか2行の過去の文学作品の素晴らしさがその人の心を打てば、次は他の作品を読もうというようになるかもしれない。

今質問してくれた人はビジュアル的変容によって、文学が「死に体になる」ことを危惧されていましたが、文学にビジュアルなどの違うレイヤーが入ってきても、今言ったような形で文学が生き延びているとも言えます。


———-文学は力や価値がありそうだなと思いつつ、気になって読もうとするけど、挫折してしまい、結局とっつけない。文学には向いていない人が世の中にはいるのかなと思う。そのような層の人たちは無理して読まなくても良いのでしょうか。

市川 たとえば、ある舞踏会の様子の描写をすごく丁寧に書いてある文章を前に、「舞踏会があった、終わった」で良いじゃん、と思うひとがいるかもしれないし、それだったら映像のほうが伝わりやすい、という部分はあります。とはいえ、文字でなければ伝わらない情報のエコノミーや、逆に曖昧さや誤差、読み手のアクセスを許す部分が「文学」の特性としてあって、そこを楽しむ方法を提示することが、僕たち文芸批評家の仕事でもあるわけです。その意味では、いまのご質問への答えのひとつは、優れた批評家の本を読むこと、かもしれません。「なるほど、こうやって読めば楽しめるのか」と思えるかもしれないから。その批評に書かれているのが正解や唯一の楽しみ方だということでないのはもちろんです。ただ、いろんな人の批評を読んで、なるほどこう読めば良いのかとか、こうも読めるのか、とかといろいろな角度からテキストを読むうちに、ぜんぜん別の角度から、何か違うものが浮かび上がってくることはあって、それはしばしばその作品の本質に近いものに思えたりもするし(そんなものがあれば、ですが)、少なくとも、読んでいる「あなた」自身にとっては、その作品の根幹だということは言えますね。

「本離れ」とか「小説離れ」とか言われますが、昔だって、人はそんなに小説を読んでいたわけでも、小説をそこまで好きだったわけでもないと思います。ただ、文学に限らず、そのときどきに目立つ「カルチャー」に僕たちはしばしば引きずられますが、だからといって特定の分野だけが圧倒的に強いと考える必要もないし、それぞれが、自分の好きなものを追えば良いと思っています。

そもそも、「文学」という言葉で定義されるものも、人によって違いがあって当然ですよね。最近『日本2.0』という雑誌に寄せた論考では、「文学的な物語性とは「隣接関係」にあるんじゃないか」、というようなことを書きました。そこでは「換喩的なもの」という呼び方をしましたが、テキストに限らず、なにかとなにかが隣り合ったとき、そこに「意味」が生まれる。そういうのが、今日的な「文学」のイメージとしてありうるんじゃないかと。たとえば「腐女子」という女の子たちは、同性愛的なものに興味をもつ。紙コップと机だけでも、彼女たちは何かを見いだしちゃうんですよ。そういう「関係」の力って、ある一行とある一行が隣り合ったときにその間になにかが生まれるっていういわゆる「文学」のイメージと、じつはよく似てるんですよね。切り取り方によっては、「文学的なもの」と「腐女子的なもの」って、同じかもしれない……と言うとちょっと乱暴ですが、今日の帰り道に駅で見た光景とかも、「これも文学かも」と思ってもらえたらいいですね。そのうえで、もし興味があったら、学生のひともそうでないひとも、早稲田大学の文学部のぼくの授業を覗きにいらしてください。