「みんなが『良い』と言っているから」
じゃあ、文学とは何なのか、あるいは小説の良いものはどうやって選んだらいいのか、ということになっていくでしょう。あるいは、「文学」はそんな表層のものでなく、もっと本質的なものではないか、と。それこそが、今日からの私たちがあらためて考えるべきことです。
言ってしまえば、今まで、読み手たちはどこかで楽をしていたんですよ。「なにか賞をとった文学があるからそれが素晴らしいはずだ」「新しくデビューした新人作家がいる、デビューしたのだからこの人はすごいはずだ」という風に。しかし、これからは一個一個を、「本当にそうなのか?」と問わなきゃいけない。本当なのかを問うためには、問うための基準が私たちの中に必要になる。それは、文学だけの話じゃないんです。誰かが何かを選ぶにあたって、これまである種のシステムや権威が覆ってくれていた部分がとっぱらわれた時に、僕たちの社会はもう一度、その「何か」を選ぶ根拠を問わなくてはいけない。それを失敗すると、ただの人気投票になる。
100年後のために本を読んでほしい
根拠を問うときに必要になるのが、実は「文学」なんです。「哲学」と言っても良いでしょう。「私たちは何を基準に世界を見るのか」「私たちにとって、本当にあって欲しい世界の姿とは何か」「本当にあって欲しい私の姿とは何か」――そのことについて、今までよりも私たちは真剣に考えなければいけなくなる。そこがないと、「みんなが良いと言っている」ことに信用をおいて選んでしまいがちになる。けれども、その「みんな」って誰なのか? 「みんな」がみつかったとして、その一人一人に個別に理由を訊いてみたらどうなるのか? 「じゃああなたを信用するれけど、あなたはなんでそれを良いと思ったの?」「みんなが良いと言っているから」と、堂々巡りですよ。ネットワークによって従来よりも文学や哲学がバラバラな形になっていくからこそ、個々の一人一人が真剣に考えたり読んだりしていかないと、時々の流れで目まぐるしく世界が変わっちゃうんですね。
ここでようやく話が冒頭につながりますが、結局のところ、「電子書籍の時代に文学賞や文学がどうなるのか」という話は、「様々な世界の有り様が可能になってしまった世界で、私たちがどう生きていくのか」ということと相似なんです。そうして、そういう世界で生きるしかたを教えてくれるのは、一周ぐるっと戻って、一冊の本であったり、誰かが書いた考え方だったりするんですね。だから、世界の変化によって文学も変わるけれど、変わる世界に向き合い生き抜くためには、普遍の文学や哲学が必要になる、というわけです。
短期的に言えば、私たちのこれからの世界ではおそらく、文学・哲学も含めた人文系の学問は一旦どんどん負けていきます。多くは「楽しいこと」「好きなこと」に流れていく。そういう時代がたぶん、十年や二十年は続くでしょう。でも、様々な混迷の時代の果てに、「私たちの世界や、私たちの文化は本当はどうあったらいいのか」という話が出てきます。今ここにいる大学生の皆さんが四十、五十になった頃に、たぶんそういう本当の闘いの局面がでてくる。だから、その時に備えて皆さんに本を読んでほしいなと、僕は思います。今日この会場には、「その頃には俺たちは生きていないよ」という年配の方々もいらっしゃると思いますが、年配の方々にもまた、そういう未来のために色々なものを残していってほしいなと思います。どちらであっても、結局のところ、三十年後、あるいは五十年後――もっと言えば百年後や千年後の未来のためにいま何をするのか、そういう問題意識を与えてくれるのはこれまでもこれからも文学や哲学であって、そのことは、テクノロジーとは無縁に、しかしそこを生きる私たちを構成する現在という意味ではもっとも密接に、かかわっている。「電子書籍の時代に文学賞や文学がどうなるのか」についての回答は、そのようなものだと僕は考えています。