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文學談話室 市川真人講演会・公開インタビュー



私たちは並行するいくつもの「ライン」を生きている

そうしたことは、私たちの社会構造と密接にかかわっています。現代社会において私たちが手にしたテクノロジーといえば、一番はやはりインターネットです。携帯電話、あるいはパソコンを通じて、どこにいても誰とでも連絡がつき、同時に、どこにいても誰でも発信ができる。誰でも発信ができるということは、さっきのグーテンベルクの例で言えば、いくらでも「異端」が生まれるわけです。

FacebookやTwitterなどのSNSがすごく流行っていますが、そうしたネットワークの中では、主にハンドルネームやIDが使われますから、一人で複数のIDを持って、全く違う発言をすることができる。

ある場所ではこういう人たちとこういう会話をし、またある場所ではこういう人たちとこういう会話をする、そんなことが従来はなかったのかといえば、もちろんそんなことはない。今までだって僕らはそうでしたよね。同級生の仲間と話すときは麻雀やパチンコの話ばかりして、そこから店を変えて、別の文学の仕事をしている仲間とは最近出た小説について話す。家に帰れば、家族と今度どこに出かけようかという話をする――ただ、それは原則として、時間軸に沿って分割することで、複数の話題、複数の人間である「私」たちを使い分けてきたんです。ところが今日のテクノロジーでは、学生時代の同級生と一緒に飲んでいる席で、携帯電話を用いてふっと別の場所のネットワーク、たとえば一緒に仕事をしているテレビ局の関係者と話をしたり、学生たちと次の飲み会の話をしたりする。こうやってバラバラに並行するいくつもの「ライン」を、同時に私たちは生きられるようになってしまった。複数アカウントを持てないようIDを携帯電話に紐付けたLINEのシステムなんかが象徴的で、そのことで逆に、持っている携帯電話の数だけ「唯一無二のID」が存在することになってしまった。もはや、人間が本体なのか、携帯電話が本体なのか、わからなくなりつつあるわけです。

どの文学賞が偉いのか分からなくなった

こんな大きな変化がいきなり現れたのかといえば、そうではありません。全くなにも下地がないところに新しいテクノロジーが入ってきても、なかなか受け入れられない。キリスト教というものが日本に入ってきたのはご存知のとおり16世紀ですが、結局日本では、クリスマスのようにキリスト教のごく一部分しか定着しなかった。12月になると街にクリスマスソングや賛美歌がかかるけど、それがなんの曲かわからなくても、聖書を読んだことがなくても、私たちはクリスマスを祝い始める。それと同じように、ネットワークの社会ができたときも、定着しやすかったものと、しにくかったものがあるはずです。今、既に起きつつある生活の変化というのは、ネットワーク・テクノロジーのなかでも、おそらく最も定着しやすいものです。その先で、たとえば在宅勤務であるとか、別居結婚だとか、「私たちの身体」というもっともネットワーク化しづらいもの、デジタル化しづらいものが、変化してゆく。そのときには、地域や文化による速度差が、ずいぶん出てくることでしょう。

インターネットが世界に普及してわずか十数年ですが、その間に私たちの生活は大きく変わってしまった。今日ここにいる学生さんのほとんどや、これから生まれてくる子供たちはインターネットが生まれて以降に自我を獲得した方々、いわゆるデジタル・ネイティヴです。たぶん、二世代くらいが過ぎると、大きく世界は変わってゆきます。

そんな私たちの世界の変化は、おそらく今まであった文学の有り様をも変えてしまう。たとえば、新人文学賞というものも変わらざるを得ないでしょう。今までそれは新人作家の登竜門であるとか、権威があるものだとイメージされてきましたけれど、言うまでもなく、新人賞など取らなくたって、小説を「書く」ことはできる。ただ、グーテンベルク以来の印刷テクノロジーの中では、ひとびとは印刷されたものしかほとんど読まなかったから、多くの「ただ書かれた作品」は浮かばずに沈んでいった。けれども今では、誰もが書いて誰もが発表できる。そうしたら、新人文学賞などいらなくなるわけです。

もっと大きな、プロ向けの文学賞だって変わるでしょう。芥川賞や直木賞はまだしばらくその権威が続くと思いますし、それだけでなく書店に行くと帯に「〇〇賞受賞」という宣伝文句をつけた本がたくさん並んでいますが、そうやって賞がどんどん増えてきたら、本当はどんな賞が偉いかわかんなくなっちゃう。在来の文学賞を否定して、ある種リベラルに、見方によってはポピュリズム的に育った「本屋大賞」だって、「書店」が本を売る主要なルートでなくなったら――たとえば、Amazonが文学賞をつくったら――、拠って立つ根拠をすぐ失ってしまう。無数の場所で無数のものが生まれ、無数の形で読まれるようになった時、近代の「一冊の本だけが特権的に偉かった」時代が崩れていくのと同様に、文学賞もその機能を実質的になくしていきかねないわけです。だいたい、書店の店頭だけ見ても、あちこちに「?賞受賞」の帯がかかった本があって、文学賞の大安売りでしょう? あとは「最高傑作」と「?絶賛」の大バーゲンね(笑)。それひとつ見ても、文学賞の未来は容易に想像できます。