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Interviews

文學談話室 市川真人講演会・公開インタビュー



§3 公開インタビュー




(※ここからは、敬称を省略させていただきました。)

———-「新人賞という権威で文学を作っていく」のはこれからの社会に見合わないでしょうが、新人賞には「平等に開かれたチャンス」としての側面もあると僕は思います。市川先生は、どういうアレンジをすれば新人賞という枠組みを活かすことができると思いますか?

市川真人 (以下、市川) 前提としてね、小説って特殊なジャンルなんですよね。一点もののアートだと、お金を出す誰かひとりがいたら、成り立つわけです。でも、小説は印刷技術に支えられて大量流通するコンテンツだから、特定の少数者ではなく、無数の読者がパトロンになりうる。でもじゃあ、それってどこまでアートでありうるのか。一方では、大量流通しなくても語り伝えて残る小説もあるから、大量流通のものまで「アート」であるようにも見えるし、少数のものでもなにか大衆的な影響力を持つようにも見える。ほんとは別々のものかもしれないのが、印刷技術と、「読む」という行為のレンジの広さのおかげで、ひとつのジャンルに仮にまとまってきたんですよね。

だから、「新人賞」って言うときに、マスに消費される作品だと思って選ぶのか、そこに芸術的価値があると思って選ぶのかで全く意味が違ってくる。

まず、マスに消費される作品っていうのは、今後確実にメディアミックスの素材となっていきます。そうじゃないと採算がとれないし。とすれば、マスに消費される作品を選ぶ新人賞は、アニメーションや漫画など、様々なメディアミックスに耐えうる作品を書く人を輩出することが目標となります。じゃあ、そういう才能を効率よく輩出するにはどうすればいいかというと、今みたいに適当に「公募」という網をかけてそこにひとがかかるのを待つんじゃなくて、出版社が人材を育てちゃったほうが効率がいい。例えば出版社が「新人養成所」を作るとか。それで、どんどん「期待の新人」になるであろう人を育て上げたうえで、わざと新人賞に応募させる。つまり、「既に見つけてきた優秀な新人を何億円の宣伝費をかけて売る」ための一つの手段として、新人賞という形を取るわけです。もちろん、新人賞は一応公募なわけだから、自分たちが用意した新人よりも凄いのが出てきたら、そりゃ採ればいいですよ。そういう、養成所に通わない人たちが賞に殴り込みにくる可能性も捨ててはいけない。でもとにかく、エンターテイメントのジャンルにおいては今後いままで以上に、出版、あるいは小説というものがどうやってビジネスの世界で成り立っていくのかを考えなければいけなくなるでしょう。

他方で、純文学作品向けの賞は、もっと純粋に「本当にこういうものを書きたいんだ」ってアマチュアたちが持ってきたものを評価する場所にならなくてはならない。でも、母数が減ったり、書き手も読み手もエンタメと純文学の区別がつかないひとたちも増えてるから――もちろん、両者をまたぐ優れた作品はこれまでも今後もあるし、本人は芸術作品のつもりでもたんに下手な小説も多いから、そういうのとは別の、あくまで新人やそれを選ぶ側についての話ですが――芸術としての文学の質を保つには、今までみたいな基準なしでどこまで行けるかはわからない。せめて、新人賞には「これとかこれとかを、全部読んだ人しか応募してはいけない」、みたいな基準を設けないと、これまでの歴史を継承した新人は出てこない気もします。


———-先日著名な芥川賞作家のお話を聴かせていただいた時に、その方に対して「〇〇賞を獲るための傾向と対策を教えて下さい」っていう質問があったのですが、僕はそのように文学への道をまるで大学受験のように捉える風潮に少し気持ち悪さを感じました。はたして、作家になって賞を獲りたいと思っている人たちはどういう考えで臨むべきでしょうか。

市川 ぶっちゃけて言ってしまえば、文学賞なんて所詮人が選ぶものだから、大して意味はないんですね。しかし、だからこそ、「賞が取りたい」と思うより、選ぶその人に読まれたいもの、選ばれたいものを送れば良いと思います。それを敷衍すれば、一番イイのは「歴史上の誰かに選ばれたい」と思うことじゃないかと。自分が最も影響を受けた文学作品が谷崎潤一郎であるなら、「もし谷崎が今生きていたならばこの作品を選ぶはずだ」っていう作品を書けば良い。その作品が谷崎潤一郎に読まれ選ばれることはなくても、谷崎の作品が大好きでよく読んでいる選考委員のところに届けばよい――なんでもいいから「新人賞」や「文学賞」が欲しいなどと思うより、そんなふうに考えてくれたらな、と思います。


———–先生は、皆が「良い」と言っている本がメジャーになるのは怖いことだと仰っていましたが、今本屋さんを見ると、売れ行きの良い作品だけがどんどん店頭に出ていて、本当は面白いのにあまり知られていない本に出会う機会がますます減っているのではないかと感じます。その中でどういう基準で本を選んでいけば良いのか、お聞きしたいです。たとえば、先生は『王様のブランチ』で本の紹介をされていますが、他の文芸誌等とでは、紹介する本のジャンルを変えたりしているのですか?

市川 もちろん変えています。変えているのか、やむなく変わっているのかは、微妙なところですが。

「お薦めです」という言葉は、「じゃあ、薦めなかったものはなんだろう」という問いと常にセットであるべきです。『王様のブランチ』でも、視聴者の層を考えて会議でワイワイやって決めた結果、僕が薦めたいものと、番組側が薦めたいものが混ざっているわけです。だから、自分の仕事の一部を否定するようなことを言うけど、「皆に薦めます」という作品があったらそれはたいてい嘘なんだよね。

たとえば『失われた時を求めて』が大好きですという人がいたら、そういう人に対して、「ああ、あの場面がお好きでしたら、これなんかどうですか」ということはできる。でも、「プルースト? なにそれおいしいの?」という人に対しても同じ本を薦めるのが良いことかというと、そんなことは全くないですよね。結局のところ、その人に何を薦めるかということは、「あなたは誰か」を知ることと密接に結びついている。テレビみたいな一対多の、時間も限られたメディアでやむなく本を薦めるときには、「僕というデータベースを信用してくれるなら、これがお薦めです」と言うしかないわけですが、それは極端に言うと聞いた相手に「僕のコピーになれ」ということであって、ある意味すごく怖い。だから、僕が本当にやりたいしやるべきだと思っているのは、「今世界はこういう仕組みになっていて、それが未来に繋がっていく過程で、読むべき本はこうこうこういう理由でこれだと思う」という風に本を薦めていくことです。

逆に言えば、「どんな本がお薦めですか」とひとに聞くより、自分の好きな本があったら、その本の中で著者が触れているものや、そのひとが別の場所で薦めているものを読むといいと思います。いわゆる本を目次に本を読むというやつですね。マルクスを一生懸命読んでいたら、次は、マルクスがしていた引用の出典を読む――そういう風にたどっていくのが昔も今も一番良い読書じゃないでしょうか。