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文學談話室 市川真人講演会・公開インタビュー



———-信頼できる「人」を見つけてしまうのが一番良いということですね。多くの書評サイトでは、トップページに本の表紙の画像がずらっと表示され、ユーザーは個々の作品から自分の読みたい本を選ぶ仕様になっていますが、たとえば紀伊國屋書店の『書評空間』のように、まずトップにプロの書評者の一覧が表示され、ユーザーは自分の信頼する書評家の薦める作品から自分の読む本を選ぶ仕様のサイトもあります。

以前取材した今村友紀さんは、「一般読者とプロの書評家との中間層を作り出せれば良いのではないか」と話していたのですが、その書評者の一覧に、さらに人気の一般人のレビュアーを徐々に加えていくというアイデアはどうでしょうか。

市川 そこは、僕もすごく悩んでいる所ですね。

「近代」というのが、ものすごく矛盾した時代であったことが、これからどんどんわかってくると思います。学校教育とかでは、「人はみな平等で、自分の考えをそれぞれ発表すれば良い」ということになってきた。けれども、実際には東大生はじめ社会の代表的な層が決まっていて、そのエリートがほかのひとたちをぐいぐいと引っ張っていく時代が、「近代」だったわけです。理念と現実が矛盾しているというか、ずっと嘘をついてきたわけです。ところが、本当にリベラルな世の中になって、インターネット上などで皆が自由に発言できるようになると、今まで発言権を奪われてきた人とその言葉が顕在化してくる。

たとえば、ネットの掲示板やYahooのコメント欄で差別的な物言いや過激な発言をするひとたちがいますよね。僕自身、見て不快になることもしばしばあるし、自分のルサンチマンをぶつけているようにしか見えないことも多い。でも、そういうひとたちがいま初めて出現したわけではなくて、たんに今までそういうひとたちの発言権が奪われてきた、という話でもあるわけです。だから、ようやく「社会とはどんなひとたちでできているか」が可視化されるようになった、「近代」の理念がほんとうに達成されてしまって、それは言われていたほど居心地がよいものでもなかった、というのがわかってきたんだと思います。でも、少なくとも近代主義者やリベラルなひとたちは、そういうひとたちの存在や発言も、認めなければならない。けれども、そうやって皆が自由に発言できるようになったからといって、単純に良い社会が訪れるというわけでもない。

僕も、今村さんの言うように、中間を作っておくことがシステムを設計する人の義務だと思っていました。もっと言えば、両極は勝手に盛り上がるから、社会のバランスをとるには中間を設定するだけで良いとすら思っていた。ところがそうではなかった。トップコンテンダーと無数の人々の格差を埋めて、誰しもに平等に発言させれば理想の社会が訪れる、というのは僕たちの社会が創りだした嘘だと分かってしまったんです。そこにきれいなグラデーションを作るためには、色々と働きかけなければいけない――が、それは全くリベラルではない(笑)。21世紀の僕たちは、その矛盾と向き合っていかなければならないんだと思います。


———-最後に文学に話を戻しますが、「数多く売れた作品だけが文学史に残っていく」という視点で見ると、「平成文学史」はそれ以前の時代の作品群と比べて、少し残念なものになってしまうように思います。もちろん誰もが自分が読みたいものを読んでいられればそれで幸せな世界だとも思うのですが、先生はそのような視点で見た時に、一種の危惧のようなものを抱いていらっしゃいますか?

市川 たしかに残念なものになるだろうけど、「文学史」という枠組みが変わると考えれば良いとも思いますよ。

たとえば、太宰治や三島由紀夫の名前がある文学史は、あんまり「残念じゃない」ものに見えますよね。でも、太宰治が歴史に残っているきっかけは『人間失格』を発表している途中で自殺したからかもしれないし、三島由紀夫が文学史に残ったのは市ケ谷駐屯地で切腹したからかもしれない。いや、もちろん本当はそんなことないんですよ。だけど、大きく「文学史」と言い、みなで共有できるものとしてそれをイメージしたとき、そういう要素が歴史を形作ってきた部分もあるわけです。今、日本で文学史と思われているものでも、「本当の意味での文学史」と「人気小説家史」は、別に一緒じゃないんですよね。

いま言われた「残念な文学史」は、21世紀初頭の「人気作家史」として記憶されてゆくでしょう。舞城王太郎や西尾維新、もしかしたら東野圭吾の名前も、そこに記録されるかもしれない。でも、もはやそれは「文学史」と呼ばなくて良い、「コンテンツ史」かもしれませんよね。

「歴史」は事後的に記述されるものだから、記述する人によって違ってきます。いま「残念」かどうかは、現代の僕たちの、あるいは現代の僕たちにぶじ接続されてきた過去の「文学史」観の歴史だけれど、22世紀の誰かが考える「ブンガクシ」には今と全く違う文脈や接合があって、将来だけでなく、現在では文学史に入っていない大昔の誰かが、そこに入っているかもしれない。

つまり、こういうことですね。たしかに「残念」な気もするけど、それは今の文学史を基準にしているからだし、残念だと思うひとは、自分の「個人的文学史」を作れば良いんです。そういう「私にとっての文学史」が無数あって、そのなかで本当に世界と接合した大文字の「歴史」とは何かを、議論していけば良いんですよ。


文学の本質的な機能や目的は、今も昔も変わりません。「人が何かを認識する手段である“言語”で、脳に情報や運動を送り込んで揺さぶる」手段である点で、テキストは、グラフィカルなものとは異なる役目を持っている。文学が人々をどういう風に揺さぶり、その人たちがどう社会と関わっていくのか、その形が近代文学なのか、あるいはグラフィックと上手に混ざった作品なのか、それともまた別のものなのかは、まだわからない。でも、自分と世界との関係を考えて、それが避けようもなく書かれ、文学になっていく現象は、これからも生まれ、続いていくでしょう。書かれるに足るものが出てくる可能性は様々な場所にあるし、今から皆さんが書くものにも可能性は本当にあると思っています。