「カメラはすごく暴力的な存在なんです」
―濱口監督の作品は演劇的なものが多い気がします。なぜ映画という媒体で製作をし続けるのでしょうか。演劇がお金を取って興行としてやるときに一つの現実的な成立条件としてあるのは、一番前の席で見たり聞こえたりするものと、一番後ろの席で見たり聞こえたりするものが、あんまり差があっちゃいけないっていうことだと思うんですよ。ある場所で見えるものが違うというのは当然なんだけど、「これが伝わってないと演劇そのものが成立しない」っていうベースが結構存在する。演劇には一番後ろの席を基準に考えなきゃいけないこととか一番見えにくいところを基準に考えなきゃいけないこととかが多分あると思います。そうすると発声というものが結構重要になってくるし、身振りも細かな、ちょっとした表情とかそういうものでやるわけにはいかない局面もどんどん増えてくるんではないかな、という印象です。それを取り外すことももちろんできるけど、それを取り外すこと自体がすごくコンセプチュアルにはなりますよね。少なくとも無自覚ではいられない。
映画というのは例えばカメラをどこに置くかっていう問題が常にあって、黒沢清さんは「何かが起こりそうな場所」に置くんだって言いますね。色んな古典映画を観て感覚としてあるのは、基本的にはカメラは一番ものごとが見えやすい位置に置くっていうことです。その一番見えやすい位置に置いたときには、役者は必ずしも声を張ることも、大げさに何かをすることも要求はされない。されるとしたら、それは演出家の趣味嗜好の範囲だと思います。
なんで現時点で、演劇じゃなくて映画なのかっていうと、それが自分が見たいもの、したいことをに触れるための合理的な選択に思えるから、ということでしかないです。ひと言で言えば、役者に対する余計な負荷が少ない、ように思えます。役者が、例えば観客に対しての配慮みたいなものを演技の成立条件として置いてしまうと、かなり僕個人が役者に出してほしいものが出づらくなるという感覚がまずあります。映画だとそういう配慮は、第一には来ないですよね。というのは、映画だとカメラもマイクも役者の近くに行けるし、究極、カメラは離れていてもマイクは近くにあります。しかし、一番見えやすいところって言うのは、おそらく役者にとって一番演技をする上で邪魔な位置なんですよね。究極的には、真正面にカメラを置くとき、誰かと対話していたはずのシーンなのにカメラが対話の相手の位置に入ってしまい、相手役と演じていたはずなのにカメラと演じることになるし、しかもそれが克明に記録されることになる。これが難しいところだし、面白いところであるし、演劇と映画の接点ではあるよな、と思ってます。
―昨日のワークショップ(13)で思ったのがこんなに後ろにたくさんのカメラを設置したのは、この3時間半ひたすら平易に台本を読み上げるという異常性をどれだけの人が寝ないで耐えられるのかみたいな実験の意味もあったんじゃないかなって思ったのですが、普通に記録用なんですか?
「即興演技ワークショップ in Kobe」では、どういうことをしていたかというと、「カメラの前で演じる」っていうのはどういうことなのかをひたすら考えていたって感じです。前提として共有したのは、カメラはすごく暴力的な装置なんだっていうことです。すごく率直に、レンズの前の光景を記録する。そのように映像に撮られるということは、未来において不特定多数、と言うか言ってしまうと無限の、率直な視線にさらされるっていうことです。それは個人的な、親密な視線ではない。ということはかなり残酷な視線であり得ます。映像に一度映ってしまったら本当に心無いことを沢山言われるわけですね。うちの母親なんかも「この人は演技下手ねえ」みたいなことを平気で言う。何を知ってるんだ、そんなに演技できないでしょ、と(笑)。でも映像というのはそういうもので、人の視線をすごく無遠慮なものにして行く傾向があると思います。で、現代の人はカメラっていうものがどういうものなのか意識するにせよ、しないにせよ知っているわけで、そうなるとカメラがあるときに先ほど言っていたような「普段の会話の中での素晴らしい瞬間」みたいなものは萎縮してしまうというか、起こらなくなってしまいます。それは、映された人がすごく大事だと思っているものを差し出す上でのリスクがとても大きいからです。でも、僕はそういうリスクを抱えた中でも、大事なものをこちらに差し出してほしいと思っていて、こちらとしては、そういうものが映れば、それはこの世の価値の証拠映像になる気がしてるわけです。カメラというのは当然、威圧的な、暴力的なものなんだけれども、逆説的には「自分の良さ」をどこまでも率直に、いつか誰かに届けてくれる装置でもあるわけです。どうしたら、カメラの前でそういうことが起こるんだろう、しかもそれを何度も繰り返せるんだろう、ていうことをこのワークショップではずっと試行錯誤していた気がします。
昨日の成果発表では「みなさんのことをとても良い意味で撮ろうとしていますよ」っていうある種のアピールとして、複数のカメラは置かれていました。「これから価値のあることが行われて、それは記録されて見返されるのに値するものなんだ」っていうことの僕なりの宣言として、ですね。そういう点では、ただの記録用とも言えるし、そうでないとも言える。
―物語の最後の方になるにつれてみんな感情が入ってきちゃっていましたね。あれはやっぱりカメラの暴力性というかカメラの特性としてあったんですかね。
ええ。最初から言っていることとしては、感情を入れてほしくないけど入ってきたら拒まなくていいとは言っていました。自分で「このキャラクターはこういうことなんじゃ」と解釈して感情を込めることはしてほしくないけど、ある種のリアクションとして感情が生まれていったのならそれを特に拒む必要はないという話はしていました。
(13)インタビュー前日(2/15)に行われた、濱口監督が半年間行ってきたワークショップの成果発表としての「BRIDES(仮)」の公開台本読みのこと。3時間半、役者が座って台本を読み上げるのを聴く、という形で行われた。