「長回しは、カメラの前でこんなすごいことが起きたんだ、しかもそれがずっと起き続けているんだっていう証明になると思います」
–『親密さ』も『PASSION』も暴力に関する長回しがありますよね。そこにはどのような意図があったのですか?
正確には、『PASSION』は長回しではないけど、長いシーンですね。この下世話な恋愛とか青春ドラマがどこかで、個人のちまちました話っていうのを印象として超えたいというか、そういう野心があったと思います。今、自分の目の前の人とどう話すかということが、結局戦争するしないにもつながっているっていうことは本気で思っています。
暴力というものが転調になって映画にリズムを与えるという構成的な理由もあるんですけれど、ああいうものがあると映画に違うレイヤーができる。それが単なる恋愛映画を超えた何かに映画を見せてくれないかな、と。浅知恵です。
–その話に関連して、『何食わぬ顔』から一貫して濱口監督の作品には長回しが多く使われるような気がするのですが、どういった作品からの影響があるのでしょうか。
大学1年生のとき、確か「映画論」の授業だったと思うんですが、『ションベン・ライダー』という相米慎二監督(9)の作品を見せられましたが、VHSで画質も悪いし、カメラも人から遠くて何をしているのか全然分からない。でも、それがすごいものとして見せられるんですよ。これこそが映画のすごいところだ、という妙なはったりをかまされた、という記憶があります(笑)。でもその長回しを見せられて、その被写体からの遠さによって、初めて映画を見ていて「それはカメラで撮られたものなんだ」という認識を持ちました。そこで、そもそも「カットには終わりと始まりがある」っていう概念が初めて与えられたような覚えがあります。断片が継ぎ合わされてできているのが映画なんだ、ということですね。それまではやっぱり語られてる一つの時間、物語の方にすごく飲み込まれるというか、そういう視点でしか見れなかったものが、カメラ視点で見るようになるわけですよ。そうすると、そこには複数の時間があることがわかる。そのときに、やっぱり物語の時間と、現場の時間が一致しているような「長回し」っていうものに惹かれて行くわけです。そうなると、野心として、「どんだけすごい長回しを撮ってやろうとか」っていう気持ちがもたげては来ますね。映画青年の夢と言うか。
–長回しに関しては、『親密さ』が集大成だと思うんですが如何でしょうか。
やっぱり、こんなにすごいことをしたんだっていう証拠映像として長回しっていうものはあって、それが素晴らしい演技みたいなものと結びつけば、もしくは素晴らしい光景みたいなものと結びつけば、この世の価値の証拠映像みたいになりますよね。長回しは、カメラの前でこんなすごいことが起きたんだ、しかもそれがずっと起き続けているんだっていう証明になる。それが映画青年の心を惹き付けるんだと思います(笑)。だから長回しを撮るときは脚本にこのシーンはワンシーン・ワンショットで撮りますと書いたりするんですよね。それは、事前の準備を要求するスタッフとかへの宣言でもある。
今は映画の手法としての長回しに興味を持っているかって言うとあんまりですね。というのは、「撮れば、そりゃあすごいよ」ってことですね。それを撮ればすごい、ということが撮影前からわかってる場合、長回しが観客を説得したり、驚かせるためのツールになってしまう。準備の問題・段取りの問題っていうのは繊細さが要求されるし、それは実作業の喜びとしてあるんですけど、「撮れてしまえばそれがすごいものになるのがわかっているものを撮る」っていう長回しには、今はそんなにモチベーションは湧かないです。
自己発生的に「あ、気がついたらカット終わらなかったね」という感じだったら健全だなって思うんですよ。『PASSION』の最後の二人のシーンとか、そういう感じで、好きだったですけど。自己目的化した長回しは、あんまり健全な作り方ではないっていうことを最近はようやく受け入れていると言うか。『親密さ』でそれこそあの長回しを撮って、青年らしい欲望がある程度消尽したのかもしれませんね。
―『親密さ』では劇中劇を撮ったじゃないですか。あれは反則的なまでに最強の挿入方法じゃないかなって思いました。
僕も仰ったようなことは時々思いましたよ。現代においてはなかなか得られないフィクションの強度に、あのやり方は一気に達してしまうよな、ということは。あれは撮影期間だけでいうと二日なんですよ。4回の公演で、そのうち3回は観客を入れずにひたすらカメラだけを4台入れました。それで、4カメで4回公演を撮りました。計16ポジションあるということですね。『親密さ』にはショートバージョンがありまして、それは劇中劇だけの映画です。で、2時間の映画が2日で撮れて、しかも「今まで自分が撮ったどれよりも強度の持続した映画が撮れた」という感覚が当時ありました。「ずっとこれをやれたら楽だな」って(笑)。なんかずっとこれをやっていたら、いつかたどり着ける境地があるんじゃないかなっていう気は正直しました。
凝縮した表現にスッと行く階段を、演劇のほうが飛ばしやすいんです。映画だと映っているものが結構リアルだし、その中で役者だけが演劇的な、凝縮された身体を持つのはすごく難しいことだと思います。セット撮影ができない現状では特に、ですね。どこかしら日常的な身体っていうものから、だんだん演劇的な身体に近づけていくっていう過程がある。、演劇だとその過程がこんなに速く、深く行けるものかという驚きはありました。それでも、やっぱり演劇の台詞をそのまま普段の劇映画に持ってきても使えない、というのが正直なところです。でも演劇っていう状況設定を撮るという前提さえあればこんなに行けるんだっていうのはすごくありました。成瀬巳喜男(10)が高峰秀子(11)に「デコちゃんを白バックだけで撮りたい」って晩年に言ったって言いますけど、非常に共感しますね。この方法を深めることもきっとできるんだろうなと思います。でもそうしたときに、普通の監督だと思ってもらえなくなるのは、何となく嫌ですね。それが答えだとしても、無駄なことを沢山したい。僕も、あれをまたやるのは晩年になってからにしたい気がします。まあ今が既に晩年である可能性もありますけど。
–大学の学科、美学芸術学で学んだこと、例えば西洋の歴史を踏まえたうえで作品を作ったりはしていますか?
哲学史みたいなことですよね。いや一切(笑)。本当に映画のことしかやっていませんでした。結局さっき言ってるみたいに書いていく中で、登場人物間の問答があり、生まれてしまった作品の強度みたいなのがあるわけですよね。他にどうやってこの強度に至るのか道筋がわからない時に、その会話がまんま残るみたいなところがあります。それって単なる自問自答なんじゃね?ていう疑惑があると思いますし、僕自身もそういう危険は感じてますけど(笑)、あるキャラクターというものが設定されたときに「この人はこんなこと言わない」っていうキャラクターの身体を感じることがあるんですよ。言わないこととか言えないこととかがキャラクターによって出てくるわけです、そのとき、そのキャラクターの身体が出て来るわけです。それは単純に僕の身体と一緒ではない。なんでも思っていることを言えるわけじゃない。それは実際に生きている僕らと一緒でね。絶対にこのキャラクターは基本的には言わないこととかやらないこととか、そういう重みというか重力みたいなものがあって、でもドラマを進める上で、その言わないことを何とか言わせたいし、言ってもらわないと困る、みたいな無理があったりするときに(笑)、そのキャラクターに話し合わせることがあります。お互いに尋ね合うっていうか、聞き合う時に出てくる、誰のものとも言いがたい言葉みたいなのがあります。そういうものは、普通の会話でもありますよね。二人で、一つのことを話していると言うか。そういう時間っていうのはとても濃密な時間でもあるわけです。「今日めっちゃ話しちゃいましたね、気付いたらスタバで朝でしたね」みたいな。普通に皆さんの身にもきっとあるんじゃないかなと思うんですけど、それまでの日常的な自分が解けて、「あ、自分はこういうことを考えてるんだ」っていうのが、他人に触発されて出てくる時間というのは生活の中で好きな時間です。人生の中でも、最も素晴らしい瞬間の一つという気がする。そういうことを感じる時に思っていたのは、「今ここにカメラがあったらそれだけで映画」ということです。でもカメラをある程度使って理解するのは、カメラが回っていたらそういうすばらしいできごとは、基本的に起こらないということです。カメラの前で一体それをどう起こすかかということが、ずっと課題であるという気がします。
―『不気味なものの肌に触れる』ではダンス、『親密さ』では岡本さん(12)の歌と、映画の中に他のジャンルの芸術が入ってくるっていうのが結構あると思うんですけど、それは意識してやっていますか。それで映画のフィクション性が際立つような感じもしたのですが。
たまたまですね。どちらかというとパフォーマンスを記録するっていうことにはすごく興味があります。それ自体で成立しているはずの芸術ジャンルを撮るっていうことは、フィクション性より、どっちかっていうとカメラの記録性みたいなものの方がずっと際立ってくるような気がしていて。あるパフォーマンスが成立するまでには結局、長い時間の修練があるわけじゃないですか。ある2時間のパフォーマンスにみんながお金を払う理由って、基本的にはその2時間がただの2時間ではないからですよね。それは、1か月とか2か月が凝縮された2時間だからお金を払うんだと思うんです。そういうものを捉えるということには興味があります。
結局、これだけ映像があふれてくると、「撮ったものをいつ見返すの」という問題があるじゃないですか。この映像を撮ったはいいものの、見返すのに過去と同じだけの時間がかかるわけでしょう。この現在の映像は、いつか未来を食いつぶす過去になる。だとしたら、できるだけ何度も見返す価値のあるもの、価値の決してなくならないものを撮れたらいいなって思うわけです。時間が折り重なっているはずの、あるパフォーマンスを記録するっていうのは、その一つの解だとは思います。そういう時間が撮れたら、何度でも見返します。
―監督は、形式から撮ろうとしているのか、伝えたいことがあって撮ろうとしているのか、もしくは撮りたいシーンがあって撮ろうとしているのか、どのような形式で撮ろうとしているのですか?
多分それらの複合したものとして捉えてるのが現在だと思います。もっとすっきりしたいですけど。撮りたいシーンをまず発想してしまう時っていうのはありますよね。例えば『親密さ』の長回しのシーンとかは夜明けの街を歩いていたときの、この時間そのものを撮りたいっていう印象、感覚から始まっています。形式っていうものは僕にとっては端的に言えばカメラポジションの問題です。ある事態を起こっているとして、それを捉えるのがどこからでもいい、どこからでも写るとは考えないです。「カメラポジションについての思考がないと映画じゃない」という個人的な感覚はあると思います。僕はまだ自分の中で「何をどんな形式で撮っても映画になる」とは思えないですね。ただそれでもせめぎ合っていると言うか、今は目の前の人自身から出てくるもの、魅力みたいなものを撮りたいっていう気持ちがすごく強いです。それはカメラが回っている、というただそれだけのことでも出づらいものだと思ってます。それを、映画っていう形式にどう落としていくかっていうことは常に呪いのように考えています。
(9)相米慎二(そうまい・しんじ)は日本の映画監督。代表作に『台風クラブ』、『お引越し』、『あ、春』など。
(10)成瀬巳喜男(なるせ・みきお)は日本の映画監督。国際的な評価が高く、小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えられる。
(11)高峰秀子(たかみね・ひでこ)は日本の女優。戦前・戦後を通じて日本映画界で活躍した大女優の一人。成瀬巳喜男作品で活躍したほか、小津安二郎など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。
(12)岡本英之(おかもと・ひでゆき)は濱口監督の友人でもあり、監督の映画の音楽を多数担当している。