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Interviews

太田克史さん(編集者)**文学企画


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(3)ラノベのアプローチを使った文学作品
廣瀬
作家が増えて、一冊あたり、一人あたりの存在感が薄くなってきていると思うんです。そんな状況の中で太田さんの担当する作家さんは悩まれたりはしませんか?
太田
うん、薄くなってきているね。当然、作家さんも悩んでいると思いますよ。けど、それはある程度は仕方ないよ。インターネットの出現によって誰でもクリエイターになれる時代になっちゃったからね。参入障壁が異常に低くなったから、当然のように価値が下がっちゃうっていうことなんですよ。今はまだ、紙になるっていうことである程度の権威はあるけれどね。
で、同時に、インターネットの出現によって、僕たち編集者も「クリエイター叙任権」を失った。今は僕らが認めなくても誰でもクリエイターになれちゃう。編集者にとって、「クリエイター叙任権」を失うというのは大きな権益、権力のロストだったんですよ。けど、逆にそのインターネットの出現によって、僕たちは以前よりずっとスムーズに世界中の才能を扱えるようになったじゃないですか。西尾さんの『化物語』のイラストは台湾人のVOFANさんというイラストレーターに描いてもらっているんだけど、昔なら海を飛び越えたそんな仕事、そうそうできないもん。電子メールもないし、色校正ひとつ送るのだって何日もかかるわけだから、本なんかまともに作れない。一つの変化には必ずプラスとマイナスがあるよね。だから、日々刻々と変化する状況に対して作家も編集者も真剣に悩んで、それぞれがそれぞれの未来へ向けて手を打っていかないといけないんじゃないかな。
廣安
もう私は書けません、という人はいないんですか?
太田
うーん、いるんじゃないかな?。そういう場合は、編集者としても読者としても僕は本当につらいよね。そうだ、佐藤友哉さんにもそういう時期があったんだ! 彼の『クリスマス・テロル』っていう作品なんだけど、事前情報なしで読んでみてよ。そうすれば当時の僕の気持ちがわかるから。はい、この話はおしまい。
廣瀬
はい。では、「ライトノベル」と「純文学」の対立について、太田さんはどう思っていますか?
太田
対立するようなものでもないような気がするね。僕はライトノベルって、アニメ・ゲーム・マンガの文脈で本を売る「売り方」、つまりパッケージだと思っているから、イラストが表紙を飾っていたら太宰治でもライトノベルだと思うよ。だから、アニメ・ゲーム・マンガに由来するイラストがあったほうが売れる、読者の想像力をより楽しませることができると判断して市場に出された小説は、僕にとってはすべてがライトノベル。
岡田
じゃあ、ライトノベルでも、純文学の装幀にしたら純文学ですか?
太田
純文学になれると思いますよ。「純文学」だって、ひとつの売り方、パッケージでしょう。市場原理主義的に、シンプルに突き詰めて考えるならね。これは僕が『ファウスト』創刊の2003年当時からずっと思っていることなんだけど、一冊の本の中に絵画的な想像力を全く登場させない、活字だけの平面芸術がこれだけ一般的な存在になったのってせいぜいここ一世紀くらいの歴史にしかすぎないんだよね。異常な時代だったって後から言われるかもしれないんだよ?
話を戻すと、「純文学」と「ライトノベル」、それはどっちが上とか下とかという話ではなくて、単なる文学に対するスタンスの違いなわけじゃん。音楽の世界で、ジャズが高級でロックが低級とか、あるいはその逆があるというわけではないじゃない? ただ良い音楽と、だめな音楽があるように、ただ良い小説と、だめな小説があるだけ。けど、今という時代はどちらかというと、純文学的な想像力ではなくて、ライトノベル的な想像力が世の中に必要とされているな、という思いが僕にはあったんだよね。それで、最高のイラストを小説の世界に取り入れて、作家さんと一緒になって真剣に文学をやろうと思った。まあ、だからこそ僕は純文学の世界からもライトノベルの世界からも石もて追われる編集者になってしまうわけなんですが。だけど、それはむしろ誇りだよね。講談社BOXだって、ライトノベルの代表的な体裁である文庫で出せば、もっと売れたかもしれない。けど、そういうのはやらない。あるいはハードカバーにして、純文学の代表的な体裁で出せば、もっと偉そうにできたのかもしれない、けど、それはしない。
廣瀬
これは、ライトノベルの売り方だけど、内容は文学ですか。
太田
ライトノベルのアプローチを使った、これは歴然たる文学活動です、っていうことですよ。
廣安
文字だけだからできることもあると思いますが、それはしないのですか?
太田
文字だけだからこそ小説ができることがあるように、イラストという表現を取り入れるからこそできることに小説が挑戦してみてもいいじゃないですか。そんなに偏狭なものではないですよ、文学というものは。そんなこと言ったら、ダンテの『神曲』だって聖書だって中世のものにはイラストがたっぷりあるよ?
廣瀬
ライトノベルは、とにかくどんどん出てどんどん消費され、ブックオフに流れていくではないですか。太田さんの目指しているところはそうではないんですか?
太田
ないないない。ライトノベルは経済的にも自立しているしそれはそれでいいんだけど、やっぱりぼくは講談社の文芸図書第三出版部の血脈を引いている編集者で、歴然とした文芸編集者なわけじゃない。だから、ライトノベルの世界にはちょっと寂しいなと思うところはもちろんあるんだよ。それなりの敬意はあるけど、手放しで礼賛はできない。僕があの世界を寂しいなと思うところは、まず、ライトノベルの世界では作家の名前が歴史に蓄積しないというところ。だからいつまで経っても批評が育たないんですよ。どんなに売れていても、ただ作品のタイトルが商業的な記録として残るだけでね。例えば、ライトノベルの世界ではある人気作品のタイトル名が言えたとしても、「それは誰が書いてるの?」って聞かれたときに、たいていの人はスパッと作家の名前は答えられないじゃない?
けど、そういう売り方をするほうが、売れるわけ。ただ、それじゃあ切ないじゃん。傑作を書く人がいて、その人が次に書く人に影響を与えて、またその人が次の人に……っていう美しいバトンリレーが文学の世界にはあるべきなんですよ。けど、ライトノベルの世界には、少なくとも目に見える形ではそれがないわけ。見せないほうが売れるんだから仕方ないんだけど。
だけど、それは悲しいことじゃない? 例えば僕が好きなミステリーの世界にはちゃんとそういったバトンリレーの系譜があるんですよ。江戸川乱歩がいて、高木彬光がいて、横溝正史がいて、みたいな。ちょっと異端で孤高な作家として夢野久作がいて、その流れが竹本健治にきて、打って変わってメインストリームには島田荘司、綾辻行人、京極夏彦がいて。だから西尾維新を読んだら、この人が尊敬している綾辻行人を読んでみようとか、同時代・同世代作家の佐藤友哉を読んでみようとか、そういうのが、文学の面白さなわけじゃん。そういった流れについての批評的視点もちゃんとあるべきだし。しかし、ライトノベルの世界にはそういう歴史の蓄積がほとんどない。良くも悪くも“たった今”売れている作品がすべてなわけ。ただ、キャラだけがあってね。まああの世界はそこがすごいといえばすごいんだけど、僕はそれとは違う売り方をしていますよ。作家さんの名前をすごく大事にしている気持ちはいつもある。
岡田
ぼくらは完全に『ファウスト』の体裁に騙されていたので、意外でした。
太田
え、なんで? 僕はそもそもそういった文学的な系譜を感じるのが一読者として好きだから、そこはすごく大事にしていますよ。大事にしているから、作家の名前も残っていってほしいと思うしね。