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(2)作家を鳴らすのが編集者
廣瀬
例えば『ファウスト』で太田さんが世に送り出していく作家さんの作品について、「ここはゆずれない」「こういうのを送り出したい」というのはありますか?
太田
端的に言うと自分にとって面白いもの。自分を叩きのめしてくれるような作品を書いてくれるとうれしいよね。
廣瀬
ではその「ゆずれないもの」と売り上げが対立してしまうとき、折り合いはどうつけていますか?
太田
作家さんは、いいものを書くことに専念してくれればいいと思う。小説は面白いから売れるわけじゃないしね。言ってしまえば、モテる人間はモテるからこそモテるように、売れる小説は売れるからこそ売れるんです(笑)。だから売れる売れないということについては、作家さんには責任はないですよ。そういう意味では、折り合いなんてない。もちろん僕の側から狙って「売れるもの」を書いてもらおうって場合もゼロではないけど、作家さんにはとにかく面白いものを書いてもらうのが基本です。そして、一冊の本が黒字になるところまで何とかして持っていくのが編集者と版元の仕事だと思います。
岡田
太田さんがいいと思ったらなんとしても売る、というスタンス?
太田
作家には面白いものを書いてもらう、編集者は売る、それは等価交換でしょう。
例えば、作家は音楽の再生装置で言うとCDプレイヤーみたいなもので、本当のところはヘッドホンぐらいしか動かす力はないわけ。電子媒体ならいざしらず、紙を媒体にするならばどんな大作家だって、一人で本を作って行商を始めてみたところできっとたいして売れやしない。出版社を通すから、10万部、100万部と大きくなっていくわけじゃないですか。だから、アンプとかスピーカーの役割は、編集者とか、出版社とか、取次とか、印刷会社とか、書店員さんたちが果たしているんだよね。ただ、そういったアンプやスピーカーが良い鳴りをするためには、Cプレイヤーが発進する最初の信号がすごくいい「1」じゃなきゃだめなんですよ。そして、その、「0」から「1」を作るってことは、この世で作家さんにしかできないすばらしいことで、本当にすごいことなんだ。で、その「1」を「10000」だとか、「100000」、「1000000」にしていくのが僕たちの仕事です。作家さんにはその「1」が、届くべき読者にしっかり届く「1」になるための完璧な「1」を作ってもらう。責任はきっちり分かれていると思うよ。
廣瀬
責任をきっちりと分ける、ですか。
太田
ただね、やっぱり作家も編集者も人間だから、上手くいったのはぜんぶ自分のおかげだと思っちゃうこともある。作家さんが、売れているのは自分の作品が面白いおかげだと思っちゃったりとか、編集者が、自分では一行も書いていないくせに文学賞を取った気になっちゃったりとかね。得てしてそんな感じで、お互いに滑稽な勘違いが始まっちゃう。そういうのは、美しくない。
僕が『ファウスト』で一人編集をやったのは、ひとつには『ファウスト』が売れなかったときに責任を取ろうと思ったからなのね。舞城王太郎さん、佐藤友哉さん、西尾維新さんに被害を及ぼさないようにしたかった。編集長の太田克史がだめだったから『ファウスト』が売れなかった、ってするためには、僕が自分の名前を出して前に出ていくしかなかったんです。だから目立とうというのではなかったね。ファウストがだめだったときに、まず自分に矢が飛んでくるようにしないと、みんなを冒険に引っ張りだせないじゃない? 旗を振っている人間から真っ先に死んでいかないと、フェアじゃない。
廣瀬
かっこいいですね。
廣安
太田さんが作家に求める面白い本というのは、一読して面白ければいいのか、何回も繰り返し読んでもらいたいのか、どういうものですか?
太田
うーん、これはかつて松田優作の言っていたことのちょっとしたパクリなんだけど、いい本は、やっぱり書店で他の本から5センチ浮き上がって見えるんだ。だから僕が本を作るときには、5センチだけ、書店という日常から浮いた本を作ろうとして頑張っている。まあ、僕の場合は、5センチじゃなくって、得てして5メートル浮いちゃうんだけどさ!(笑)5センチだとかっこいいんだけど、5メートルだとだめだよね?。「手、届かないよ!」っていう。
廣安
舞城王太郎とか西尾維新が好きだけど、「一読してさよならーでいい」というゼミ生がいるんですけれど、そういう読者はどう思いますか?
太田
全然いいんじゃない? 太田的に読者にこう読んでほしいっていうのはあるけれど、押し付けるものじゃないしね。そりゃ100回読んでくれる人がいたらうれしいけど、1回しか読まない人も、その人がたまたまそういう読み方なんだっていうだけでしょ。買われていった以上、もう著者や編集者の手を離れて読者のものになったんだから、そこで僕らがどうこう言いたくはないじゃない? もちろん、もっと気合い入れて、魂込めて読めよ、とちらっと思わなくはないけど、それを押しつけはしない。ラーメン屋のオヤジが「胡椒入れんなよ!」って客に注文するのは少し変でしょ? もちろんそういう心はあるよ、胡椒入れるにしても少し食べてみてからにしてほしいとか。けど、それは言わないお約束。
廣安
普遍的な、残る作品を世に出したいというのはありますか?今は旬だけど、そのうち旬が過ぎて、消えていってしまうのは寂しくないのかな、と思うのですが。
太田
残り方にも色々あるけどね。例えば、二葉亭四迷は言文一致運動の旗手だったからこそ残っている割合が多いよね。あの太宰治にも時事的な面で残っている割合は歴然としてありますよ。「太宰治の『人間失格』には第二次世界大戦後の喪失感があって……」みたいな読み方ね。だからたとえば奈須きのこさんの『空の境界』が仮に30年後、40年後、読まれているとしたら「21世紀初頭、日本のアニメ・ゲーム・マンガ文化が隆盛を極めていた時代の代表的な小説で…」って感じになる、かもしれないね。
しかしね、時代を越えて残るのはいつだって旬なものですよ。普遍的だから残るんじゃない。逆説的だけど。残って、結果として普遍的になっていくのであって、ね。だからただ僕は「こういうのが残っていったら面白いな」って思って、日々仕事をして過ごしているだけですよ。まぁどうせ100年後なんて誰も生きていないんだし、想像は自由でしょう。胸を張ってやっていくしかない。
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