KENBUNDEN

合コンから貧困まで 東京大学見聞伝ゼミナール公式サイトです

トップページ > Interviews > 島田裕巳先生インタビュー

Interviews

島田裕巳先生インタビュー


3. 組織とお金

I  宗教に深くはまってしまうことを自己責任と考えることも出来るのではないでしょうか。特にどういうことが問題であると考えているのですか。

島田 過度に信じこんでしまって、こうあるべきだと考えているけれど、どこかでそこに疑問を感じてやめてしまうということが往々にして起こる。それまでに自分の人生を全てかけちゃって、取り返しのつかないことになるということもある。そこまでになるといかがなものかなと思う。教団の側は、だますというか、利用するというところがあるから、利用されてしまう。物を売るとか勧誘するとか、そういうことに利用されてしまって、では上の方の人間はどうなっているかというと、結構いい生活をしていたりする。そういう構造はいかがなものかというのはある。

D  そういう上の方の人はずっと熱心に信じてきたというわけではないのですか。

島田 幹部になると、良いも悪いも事情を分かっている。強い信仰を持っている人が幹部になるのではなく、マネージメントのできる人が幹部になる。そこは一般の信者が考えているのとはだいぶ違う。自分たちの教団に問題があったとしても、それは見せないようにして活動させる、というような傾向になりやすい。

D  幹部の人は教団の信仰をまじめにやっているのですよね。

島田 信仰というのは、いまいちよく分からないところがあって、何をもって信仰ととらえるのかが難しい。信仰といったって善意でしているかどうか分からない。宗教団体に入ることによってある程度の地位が得られるとか、人を操ることができるとか、お金が入ってくるとか、といったことが起きてくる。そちらの魅力の方が大きいこともある。

K  僕は学生運動のリサーチを立花ゼミでやっていたのですが、今お話を聞いていると、それと瓜二つのところがあるように感じました。マルクス主義は宗教とは異なる部分もかなりあると思いますが、今の性質を考えると、かなり通底するものがあるように感じます。

島田 宗教なり新左翼なりで生きていく、それで食っていかなければならないという現実に直面したとき、人間がどうなるかということ。経済的な組織じゃないゆえに、かえって難しいところがある。経済的な組織なら、企業の倫理とかいうのがあって、それに従ってやるわけだけれど、宗教団体などは、それとは違う論理や倫理で動いている。一般の社会の常識とは違うレベルで色々やっていたりする。それが結構問題になってくる。

K  経済とは違う論理で動いているがゆえに、難しくなると。

島田 簡単にいうと宗教は、労働とかをすることによって報酬を得るのではなくて、いきなり金を得るシステムになっている。お金を得る手段はたくさんあって、新宗教に限らず既成宗教も、結構お金を集める。よく建物の改修工事とかしているでしょ。何十億とかいうお金が集まってくる。お寺がそれだけ集めたとして、お寺がなにかしているかというと何もしていない。物を売ってお金が入ってくるのではなくて、ただお金が入ってくる。宗教は、ただお金が入ってくるという仕組みがあることが問題になってくる。

D  それは宗教に独特なことなのですか。

島田 独特でしょうね。昔は土地とかみんな寄進した。例えば東大寺。東大寺の持っていた土地はものすごく広い。東大寺という荘園のシステムは、一つの独立した経済組織になっていて、東大寺の坊さん以外にもいろんな人を抱えていた。しかも、学問などをする人ではなく、寺に所属している普通の人で、その人が武力を持っていることも多かった。他には職人などがいて、お金がいっぱい入って来るので金融業もできた。暴力集団だから取りたてもできた。しかも坊さんの方は識字能力が高いから、裁判をやると勝つ。だから非常に強力だった。今は東大寺みたいな組織はないが、創価学会にはそういう面もあるし、他の団体でもそういう力をもっていることがある。

D  では創価学会が批判されているのは、今は強い勧誘とかをしていなくても、そういう問題が残っているからですか。

島田 やはりお金を集められるからね。今はどれくらい集めているかわからないけれど、何百億を年間に集める力を持っている。それによって信濃町の土地を買って、そこが創価学会王国になるということもある。行ったことありますか。

I  素通りはしたことがありますが。

島田 きょろきょろしていたりすると、必ず声をかけられるから。

G  そういうことは聞きますね。学会員がつけてくるとか。

島田 そういうふうになってくる。それだけの組織としての力を持っていて、しかも一応非課税だから、固定資産税などは払っていないし、布教活動に関してはお金もかからない。そういう特権的な地位でもある。

K  現代の学生のことですが、宗教以外の共同体について、今はやっているのが「活動」で、そこに思い入れがある。共同体が固まっている。そういったものが、宗教がない今だからこそ疑似宗教化しちゃう面はありますか。

島田 でも昔からそういったものっていっぱいあったよね。宗教が問題なのではなく、集団、あるイデオロギーとか、信仰をもとにした集団、運動体は常に出てきて、それが問題化することは多い。それは一時的なものなら問題は起こさないが、ある種恒常的なものになり、永続性を持つものになると、組織構造が出来上がる。組織構造が出来上がるということは集金構造ができることを意味する。何らかの手段によってその集団を維持していかなければならない必要が出てくる。その金の出所がどういうところなのかが問題になる。

K  集団自体を保つために目的性が忘れ去られていくということですか。

島田 それもあるし、そういうところに集まってくる人は必ずしも勤勉・勤労ではない。嫌だから、仕事したくないからという理由で入ってきたりすることもある。そういう人たちを働かせなきゃいけないし、お金を持ってこさせなければならない。そういう点で無理が生じてくる。

K  ではお金の面であまり考えなくてもよい学生のサークルでは問題にはなってこないのですか。

島田 けれど大学卒業したりやめたりすると途端に問題になる。そうなると組織としてどういうものを作り上げていくかは難しい。

K  いまだったら学生の起業とかは外でやるわけですから、お金の問題は一番核となって、問題があるわけですよね。

島田 やはり今の企業の在り方でも、出来上がった大企業ならともかく、新しく作っていくとなると、無理なものとか、よくわからないものとか、あやしげなものが当然ある。そういうベンチャーな企業は手法自体が宗教的な手法を使う。そこの区別は企業なのか宗教なのか、運動体なのか経済組織なのかよくわからない。オウムだってパソコンの廉価販売で資金を得ていて、秋葉原でも結構いくつも店を持っていた。今は成り立たないけれど、当時はそういう商売が成り立っていた。

 

4. 戦後の左翼運動と新宗教史

D  最近大学の勧誘で統一教会はあまり見かけないと聞きます。

島田 この前統一教会の人が言っていたのは、前は統一教会であることを隠して勧誘していたのだけど、いま若い人は統一教会を知らないのだと。だから隠しても意味がないという段階に来ているから、最近は隠していませんと。

D  いまの人はあまり知らないのですか。

島田 統一教会の歴史とか、どういうことがあったとか、みんな知らないのでは。

D  僕は自治会で民青の人から話を聞いてある程度知っていますが。

島田 でも統一教会を殴っていたのは民青だよ。大学では民青が一番暴力的だった。民青は上に共産党という組織があるから、組織としては強かった。共産党はそもそも暴力革命をやろうとしていた集団だったし、いまでも公安などがマークしている。結束力もあった。それであの当時、なぜ統一教会と争っていたかというと、統一教会は勝共連合という反共産主義で活動していて、共産党とぶつかっていたから。その一番最前線が原理研と民青の対立だった。その統一教会=原理研を追い出すために民青が積極的に活動していた。

D  いまはその対立はどうなっているのですか。

島田 共産主義の状況が変わってしまったから、民青と原理研が直接ぶつからなければならない必然性はなくなっていると思う。それでもずっと敵視していたから、そういう対立関係はあるのではないかと思う。

D  原理研究会自体の活動を最近は見かけないのも、何か変化があったのですか。

島田 大枠では、統一教会の運動は日本国内でやってもあまり成果が得られないのと、霊感商法に関して、つかまったり教団の責任を問われるようになったりして非常にやりにくくなった。だからあまり国内でお金を調達しなくなっている。それは、冷戦の崩壊にともなっておこったことでもある。宗教団体の行為に対して、オウム事件かその前から厳しくなり、警察も踏み込むようになった。なにかやったら犯罪として摘発されるようになった。ライフスペースは教祖が殺人罪でつかまり、法の華三法行は詐欺罪で13年くらい刑をくらっていて、厳しい状況。そういう中では一度つかまると教団を解体されてしまうから。みんな活動しにくくなっている。

D  やはりオウム事件を経て一般社会の目も厳しくなったのですか。

島田 オウム事件よりもっと前からそういう方向に行っていた気がする。霊感商法などに関しても、教団の責任を認めるというのは、オウムの95年の事件よりも少し前くらいから始まっている。そもそも世間が宗教を厳しく見るようになったのは創価学会のせい。創価学会は1950-60年代に折伏といって強力に布教活動を行った。それから、反共の砦ということで、庶民が共産党にとられないように、共産党にとられるくらいなら創価学会に入ってくれたほうがいいという、体制側・保守勢力の考え方があって、創価学会と労働運動とがぶつかる。ジャーナリズムは左翼的な方向に肩入れしていたから、創価学会はけしからんと批判し、1969・70年の言論出版妨害事件が決定的になって、創価学会批判がたくさん行われるようになる。創価学会がそのような歴史をたどることによって、新宗教が非常に危険だというイメージが社会の中にできた。それ以前はおそらくなかった。

K  今の大学生がなんとなく忌避する状況も歴史的背景がかなり鮮明になりましたね。

島田 日本の社会が高度経済成長以降変わっていく中で新宗教は巨大化する。巨大化する中でいろいろ問題が起こる。統一教会も当初は「親泣かせの原理運動」といって、なんだかよくわからない団体だった。よくわからないが、大学生がそこに引っかかって帰ってこないといって騒ぎになった。だけどそれが勝共連合を作って、勧誘をして、霊感商法をすると、そういう中で、だんだん問題が大きくなっていった。最終的にはオウム事件が起き、ほかの事件もいろいろ起こる。そういうことで、新宗教が非常に怖いというか、問題が起こるというイメージが生まれた。

D  オウムなど新新宗教は、そういうイメージの中で成長してきたのですが、そういう教団が反社会的なのはそういう事情と関係あるのですか。

島田 なんでオウムがあそこまでいったのか、説明するのが非常に難しいし、疑問に思うところが多くて、謎は多い。それに確かにオウムがやったことは桁違いだったのでその印象は強いけれど、ほかの教団も問題を起こしてきている。その中でオウム事件が決定打みたいに出てきた。

K  逆にそういう印象だから孤立してしまい、中で閉じてしまって、過激化してしまうこともありえますよね。田原総一郎さんか誰かが連合赤軍とオウムみたいなこと言いましたけど。

島田 連合赤軍は、あるいはオウムよりもいい加減な組織だったかもしれない。連合赤軍はよど号事件を起こしているが、あれはまったくの無計画。まずハイジャックすると決めたのに、メンバーの一人が寝坊して遅刻したので、一回延ばす。一番ひどいのは、飛行機をのっとって北朝鮮に行ったが、北朝鮮に対し何の連絡もなく、アポなしで北朝鮮に行ったこと。普通なら迎撃される。いかなる国でもそういう状況で迎撃されても仕方がない。しかし何のアポもなしに北朝鮮へ行った。そういう時代でもあった。

K  やはり世代ということですね。僕はぎりぎり昭和生まれなのですが、今の大学生はみな平成2年3年くらいで、オウムの事件が記憶にあるかないかくらいです。僕だとまだぎりぎりあります。すごいことが起こったという感じはしたので、そういうことを相対化しているところはありますけど、もしかしたら大学1年くらいの現役の世代は、そのあとになってしまう。

島田 わからないよね。例えばそのころの時代、ちょうど僕は連合赤軍の浅間山荘事件が2月に起こった1972年に東大に入った。その前年の71年に駒場祭に行ったのだけど、その駒場祭の日に新左翼の中核派が渋谷大暴動と称して、渋谷を燃やしたんだよ。今の感覚だと信じられないけれど、渋谷の空が燃えているのに普通に駒場祭をやっていた。

K  すごいですね。みんな駒場生なので…。

D  当時は中核派に限らずいろいろなものが燃えたり壊れたりということが普通にあったらしいと聞きます。

島田 そうそう。三菱重工のビルが爆破され、それから新宿の交番とか、いろいろやられているんだよね。そういうことは日常的に起こっていた。だからといってみんな外に出ないということではなくて、みんなあちこち行ったんだよね。飛行機もよく落ちていたけれどみんな乗っていた。今から考えると絶対おかしいでしょ。不思議なんだよね。もう一方で、国家権力が結構強硬で、例えば成田空港をつくるときにかなり暴力的にやっていたわけで、国も暴力集団だった。

K  大学の状況も結構大変だったと聞きます。

島田 暴力があふれていた。今のパレスチナとかとそんなに変わらないという状況が当時の日本の社会の中にあった。そういう状況がまずあるから、今の常識みたいので考えたらありえないことが起きた。それぞれを取り上げると、なぜそんなことが起こったのかと思う。

D  そうすると今の状態のほうが短いのですか。

島田 そうだね。こんなに静かになってからそんなに時間がたってない。

K  ではこの後どうなるかというところが、関心のあるところです。

島田 このままずっと静かになっちゃうのかなという気もしなくはない。それはお金の問題もある。経済が非常に発展しているときはお金が余るから、その余ったお金がいろいろなところに流れる。表だけじゃなくて裏にも流れるし、宗教にも運動にも流れるという状況にあると、過激なこともできる。バブルのころに宗教はお金を集めた。創価学会でもバブルのころは1年に3000億くらい集めていたらしい。オウムの事件もバブルの時代にお金が集まっていなかったらあのような事件を起こせない。いま過激なことをやろうとしてもお金がない。だからアーレフなんか危険じゃないよ、お金がないから。

D  これからの新宗教はお金を集めるのは難しくなってきたのですか。

島田 みんなお金ないからね。宗教に行く人ってお金がない人がいくのだから、宗教がそこからお金を持ってこようとしても持ってこられない。バブルの頃ならサラリーマンだって家売れば一億だった。それを寄進すれば一億入ってくる。10人いたら10億だよ。いまそんな状況じゃないでしょ。

D  ということは、オウム以後に宗教がおとなしいのは、単にオウムがショッキングだっただけではなく、お金の面というのは非常に大きいのですか。

島田 僕はサリン事件の前にサティアンにいったけれど、いつの間にそんなものができていたという感じでびっくりした。事件の写真でサティアンとか出てくるけど、そういう大規模なものが富士山麓にいくつもあって、そこに当時1000人を超えるオウムの信者が生活していた。立派なプレハブという感じの施設で、決して掘立小屋ではない。サリンプラントとか普通できないし、建物も強度は強い。全体的にどの程度のものかは壊したのでわからないが、それだけお金はかかっていた施設ではあった。それを、富士宮につくりだしたのが1988年で、上九一色に行ったのはもっと後、90年代に入るくらいじゃないかな。そこからオウム事件まで3〜4年しかたっていないし、みんなそれを知らなかった。だからサリン事件より前のああいう建物見た人はごく少数だった。

 

5. 新宗教とはどういうものか

D  宗教って教義とか生活とか、そういう要素みたいなものが出てきました。宗教ってはっきりしなくて、定義とかできないとかがあるみたいですけど、先生はそういう側面をどんなふうに捕えていますか。

島田 宗教にもよるよ。そういう集団を簡単に宗教ってことでひとくくりにしていいかっていうと、難しい。同じ宗教といってもすごく違う。創価学会と真如苑で比較したら、同じような面もないわけじゃないけど、かなり違う。それが同じ新宗教ってことで、真如苑に行く人が創価学会行くかとか、創価学会の人が学会辞めて真如苑に行くかというと、そうはなりにくい。性格が相当違うから、一概に言えないというのはある。

D  その真如苑は最近伸びているっておっしゃっていましたけど、他の教団が沈んでいる中で伸びているというのはなぜですか。

島田 人間関係のきずなを強くしないからね。

D  集団はあんま流行らないのですか。

島田 集団で行動するっていうのはあまりはやらないね。幸福の科学も、一つは情報を得るための場所で、霊言といって松下幸之助が出ているけれど、松下幸之助が言うことでリアリティを得る。

D  幸福の科学も、何か奇妙な教団というか、今もなんか週刊誌を騒がして…。あの団体って今までに何回も騒動起こしてきたのに、今でも続いているのはどういうものがあるのですか。

島田 変わってきているところもあるんだよね。昔は日蓮の霊言なんて言いながら日蓮と全く関係ないことしゃべっていた。今はちゃんと勉強しているみたいで、松下幸之助が言ったことをしゃべるのね。それで松下の社員なんかと対面する。

D  結構見ていて面白そうですね。

島田 それを見ていて面白いと感じる人が聞きに行くのね。あとあそこで出している「Liberty」という雑誌は、宗教以外にも、政治や経済などの問題を扱っている。そういうのを一つのパッケージにして、伝える集団なのかもしれない。啓蒙というか、自己啓発というのか。

D  宗教としてはどういう感じなのですか。

島田 一般的なイメージの宗教とは違って、洗練されているという印象がある。霊言だって、決しておどろおどろしいっものではない。宗教という印象が薄いかもしれない。

D  では信者の方も、そんなに思い入れみたいなのは無いってことなのですか。

島田 行く人たちも、世俗の社会でちゃんと仕事しているような人たちが多い。

D  信者同士で集まるといったことはしないのですか。

島田 しているでしょう。勉強会みたいなことだってしているでしょう。

K  僕らが集まって勉強しているのと同じような感じということですね。

D  ある意味教義を学ぶのは、幸福の科学に限らず、知的好奇心を満たすというか、そういうのがあるのでしょうか。

島田 そうだよ。創価学会だって教学というのが重要で。

D  新宗教と一般に言われている団体はそういう面も多いらしいという話を聞きましたが。

島田 結局、人間関係を学ぶとか、そういう側面だよね。他に出来ないでしょ。手かざしするようなところは、手をかざして霊を呼ぶとか病気が治るとかそういうことはあるけど、そうでないところはやることないからね。儀礼もやらないでしょ。みんな俗人だから、儀礼やる人がいない。だから一つのサークル、なのかな。

I  私は合理性の時代になんで宗教が残っているのかということに興味があって、その霊言の話を聞いていたら、普通に考えたら霊なんていうのはありえないというのは、信者の人でも素朴に考えたらわかると思うのですが、それをどうして信じてしまうんだろうか。勉強会みたいな形になってくれば、宗教とは分かれてしまうような気がしますけれど、特に信じるっていうことをメインにする宗教とは違って、無くなっていかないのかなという。

島田 神様のメッセージみたいなものだとダメで、だけど松下幸之助が言ったことっていう、そういうことのリアリティみたいなものがある。

I  本を読めばいいっていう話にはならないのですか。

島田 本を読んでもリアリティを感じないのだよね。だっていきなり松下幸之助が大川隆法の姿を借りて出てくるわけでしょ。サンデルみたいなものだよ。サンデルがやっていることなんてたいしたことじゃないけど、でも生身の人間がやることでリアリティが生まれてくるわけでしょう。本を読めば全部解決するなんて言うなら、大学の講義なんかいらない。でもみんなそういうところに行くわけで、そこで先生が言ったことをみんなが学ぶ。ではそういう先生が本当に必要かっていうとまた分からない。いまは情報化が進んでいるから、昔だったら大学教授が情報を独占しているみたいな側面があったけれど、今の教授はそういうこと出来ないんだよね。みんな学生と同じレベルでやっているわけ。だけど一応そういう教師というのは必要というのは,一体何なのかと。なぜ立花さんが必要なのかと。みんなで本を読めばいいじゃないかと言われたときに、何でそういう先生が必要なのかと。そこは霊言というスタイルとか講義とか、違うように見えたって実はそんなに違わないよ。

D  ということは、霊言と科学的な合理性の折り合いはどういう風につけるのでしょうか。

島田 おどろおどろしい霊ではないから、非科学的だというイメージになっていかない。

D  ではあんま矛盾を考えてみるなんてことは。

島田 無いんじゃないかな。人間は、実はあまり考えていないのだと思う。それが一つの方法ですよ。方法としての宗教って側面があって、いかにその情報をリアルに伝えるかというのがあったときに、宗教という手段を使うということはできる。組織を作って目的を与えるってことで、いろいろな方法をそこで持っている。それによって人生に意味を与えたりすることは出来る。では他に人生に意味を与えてくれるものがあるかっていうと、なかなか無い。宗教にしかできない何かがある。